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恵みのしずく



「和解の恵みを」 (A・K)                       2010/08/22

ヨアブは、王がアブシャロムに敵意を抱いているのに気づいた。
                (Uサムエル14:1)

罪によって傾いていく王家の様子が、この章にも表されています。
ダビデ王が息子アブシャロムに敵意を抱いていることを知ったヨアブは、テコアから知恵ある女を連れて来て、王に話をさせました。
王は、女がヨアブによって差し向けられたことを知り、その願いを聞き入れてアブシャロムが都に帰ることを許しました。
しかし、息子と顔を合わせようとはしませんでした。
真実な悔い改めのないアブシャロムに対して、ダビデは父親として行うべきことを果たしませんでした。
かつて、預言者ナタンによって罪を知らされたダビデは、悔い砕かれた心で御前に出る者を、主が退けなさらないことを経験によってよく知っていたはずです。
しかし、彼は息子の罪を指摘し、悔い改めに導くことができず、アブシャロムに、赦しという罪の解決、和解の道を伝えることができませんでした。
結果、親子の間にも、和解はありませんでした。
主に許された者として、人々を愛し、その恵みを伝える務めを果たす者とならせていただきましょう。
「ダビデはいつまでも悲しんでいた」 (A・K)                2010/08/15

ダビデ王は事の一部始終を聞いて激しく怒った。
ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しいんでいた。
                (Uサムエル13:21,37)

王国の繁栄は、崩れ始めました。それは、戦いに敗れたからではありません。罪に因ってです。
ダビデの長男アムノンが妹にあたるタマルを辱めるという罪を犯しました。
そしてタマルと同じ母を持つアブシャロムによって、アムノンは殺害されました。
ダビデは、アムノンのしたことに激怒し、アブシャロムの報復による息子の死を悲しみましたが、彼らを正しく罰することはできませんでした。
ダビデにとって、この事件は、自分自身が犯した罪の刈り取りでもあったのです。
父として、また王としての権威さえ失ってしまった彼が、「いつまでも・・・悲しんでいた」という記述が哀れです。
主がお嫌いになる罪を遠ざけ、主に従って聖く生きる道を進む者でありたいです。
「私は主に対して」 (A・K)                2010/08/08

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」
                (Uサムエル12:13)

預言者ナタンは、主に遣わされてダビデ王のところへ行き、たとえを用いて彼の罪を指摘して、主が語られた王家のわざわいについて告げました。
罪を指し示されたとき、ダビデは上記のように、それを即座に認めました。
詩篇51篇に記されているのは、彼の悔い改めの祈りです。
神様は悔いた心をもって御前に出る者を退けることをなさらず、赦しを与えて下さる御方です。
憐れみによって、ダビデは主と彼の関係を妨げていたものを取り除かれ、赦しの恵みを味わいました。
彼は罪の結果として懲らしめを受けなければなりませんでしたが、主はダビデに後継者ソロモンを与えて下さいました。
主が私たちの心に光をあてて、チェックをくださるとき、私の在り方が「主に対して」どうであるかを見つめ、素直な心で主の前に出る者でありたいです。
そして常に、主と私の間接に妨げなく、御旨に従わせていただきましょう。
「曇ってしまうことのないように」 (A・K)                2010/07/11

ダビデの行ったことは、主のみこころをそこなった。
                (Uサムエル11:27)

イスラエル軍が、ラバという町を攻撃し包囲していたとき、ダビデ王自身は戦いに出ず、エルサレムに残っていました。
彼は、ある夕暮れに屋上から目にした美しい女性バテ・シェバに心を惹かれます。
そして、彼女が忠臣ウリヤの妻であることを知ったにもかかわらず、彼女を召し入れてしまいます。
やがて、バテ・シェバが子を宿したことがわかると、ダビデはウリヤを激戦の真正面に送り出して戦死させようと謀ります。
この記事の中で、ダビデが忘れていたことをいくつか読み取ることができます。
かつて、自分を追い続けたサウル王の命さえ重んじた彼が、その心を失い、ここでは、忠実な部下を殺すことを命じています。
また、神様が全てをご存じであることを忘れ、恐ろしい方法によって、犯した罪を隠すことができたと思っています。
何よりも、上記の聖句のように、彼は、自らが行ったことが彼を愛し導いておられる方の、みこころをそこなうということに気付かなかったのです。
彼のように、罪の誘惑に負け、心の目が曇ってしまうことのないように祈りつつ、主の前に真実に歩みましょう。
「全力を尽くそう」 (A・K)                2010/06/27

強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。
主はみこころにかなうことをされる。
                (Uサムエル10:12)

新しくアモン人の王となったハヌンに、ダビデは真実を尽くそうと使者を送りました。
しかしハヌンは、使者を辱め、周辺諸国の軍隊を雇って敵対して来ました。
上記の聖句は、夥しい敵との戦いを前にした、イスラエルの将軍ヨアブの言葉です。
彼の力強い言葉の中に、主の働きのために自分たちが成すべきことの明確な理解と、主への信頼とあつい思い。
ベストを尽くすことの喜びが表されていると感じます。
主への愛に満たされ、信仰の戦いを全力で戦い、主にある勝利を望み喜び進む者でありたいです。
「行く先々で勝利を」 (A・K)                2010/06/20

このように主は、ダビデの行く先々で、
彼に勝利を与えられた。
                (Uサムエル8:14)

ダビデは長い間、脅威となっていたペリシテを打ち破り、次々と諸民族との戦いに勝利をおさめていきました。
ダビデはこれらに勝つことができたのは、6節、14節にあるように、神様が彼に勝利を与えられたからでした。
ダビデ自身もそのことを遜って自覚していました。
「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。」(詩篇60:12)と、 うたっているとおりです。
主に信頼し、御旨の道を歩む者の「行く先々」に、このような、み助けと、主による勝利が約束されていることを信じ、 この週も信仰の良き戦いを進みましょう。
「主の前に座して」 (A・K)                2010/06/13

神、主よ。私がいったい何者であり、
私の家が何であるからというので、
あなたはここまで、私を導いて下さったのですか。
                (Uサムエル7:18)

安住を得たダビデは、主のために神殿を建てることを志し、預言者ナタンに伝えます。
しかし神様はナタンを通してそれを禁じ、神殿建築を、彼の子ソロモンに託されました。
そのような、みこころを知ったダビデの祈りが、上記の18節以降に書かれています。
ダビデは主の仰せを反論せずに受け止めました。
彼は自分の考えを押し通すことをしないで、素直に、謙虚に、神様の前に座して、主の恵みとお約束を感謝し、祝福を願い求めたのです。
自分がどのような者であるかを知り、私に注がれた恵みを心いっぱい感謝しながら、主に信頼して、その仰せに柔らかな心をもってお従いしていきましょう。
「私は その主の前で」 (A・K)                2010/05/30

あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで
主の民イスラエルの君主に任ぜられた主の前なのだ。
私は その主の前で喜び踊るのだ。
                (Uサムエル6:21)

この章には、「主の前」という言葉が繰り返し使われています。
前王サウルは神の箱に対して無頓着でしたが、ダビデは、神の臨在象徴、神の祝福そのものである契約の箱が放置されていたことを 問題視して、これを王国の基に据えるために取り組みました。
そして、神の箱をペリシテから奪還し、ダビデの町に運び上ることができたとき、ダビデは裸で踊りました。
その姿を見た妻ミカルが、彼を蔑んで言った言葉に、ダビデは上記のように答えました。
常に、主との交わりを重要だと考えていたダビデは、熱い思いをもって神の箱を迎え、その喜びを「主の前」に表したのでした。
彼にとってこの踊りは、小さな取るに足らない者を選び出し、導いて下さった神様への心いっぱいの感謝の舞だったのでしょう。
常に、「主の前」に生きる者、恵みの大きさを味わい喜ぶ者でありたいです。
「聖霊が臨まれるとき」 (A・K)                2010/05/23

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、
あなたがたは力を受けます。
そして・・地の果てにまで、わたしの証人となります。
                (使徒1:8)

ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。
ご昇天前に、主がお約束して下さった聖霊が、祈り待ち望んでいた弟子たちの上に降られたことを記念する喜ばしい日です。
弟子たちは、聖霊によって力に満ちて大胆に語る者となり、その福音を受け入れて信仰者たちが生まれ、教会が誕生した日でもありあます。
上記のお約束どおり、彼らは、イエス・キリストの福音を「力」として、まず自分が経験し、 「地の果てにまで」主の証人とされました。私たちが罪からきよめられ、キリストご自身を力強く証しする者となる素晴らしいお約束が、 聖霊によって実現したのです。
この記念の朝、皆が、全的な献身と信仰によって、このような主の力を経験し、ペンテコステの喜びに溢れることができますように。
祝福をお祈りいたします。
「ダビデは知った」 (A・K)                2010/05/16

ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、
ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を
盛んにされたのを知った。
                (Uサムエル5:12)

「イスラエルの王として立て」られるこの時まで、ダビデは長い試練と 忍耐の年月を過ごしてきました。
少年の頃のサムエルによって油注ぎを受けてから、このことが実現するまでに、 神様は彼に長い苦難の道のりを辿らせなさいました。
彼がそこで、神様の深い御意図を知り、委ねて従う訓練を受け、み恵みを 体験したことが、上記の「知った」という聖句の中に、表されているように思います。
ようやく王位に着いたとき、彼はそれが、自分の知恵や能力によってではなく、神様の みこころによるということを、謙遜に頷きました。
主が彼の王国を盛んにされたのは、神様が宝の民として愛されたイスラエルを堅立するためで あったことを、ダビデは理解していたのです。
このとき、彼は主の導きの確かさをさらに実感し、より深く主と交わり、従いたいと決意したことでしょう。
私たちのためにも、主のご栄光が表される最善の道が備えられています。
主のお心を知り、導きの御手に身を委ねて歩む者とならせていただきましょう。
「母の日のはじまり」 (A・K)                2010/05/09

あなたの父と母を喜ばせ、あなたをうんだ母を楽しませよ。
                (箴言23:25)

アメリカのバージニア州のウェブスターという町の教会に、長年、子 どもの教育のために奉仕した先生がいました。
クララ・ジャービスというその婦人が、ある日曜の朝、 子どもたちに十戒の中の「あなたの父と母を敬いなさい」について語ったあとで、 「皆さんも、お母さんの大きな 愛に対して、心から感謝を表わす方法を考えてみてください」と言い ました。
この話を彼女の娘アンナが聞いていて、母の言葉を深く心に 留めていました。
その後ジャービスは亡くなり、追悼会が行われたとき、 アンナは母への感謝をこめて、たくさんのカーネーションで教会を飾り ました。
彼女の心づかいは、人々に深い感動を与え、やがてクリスチャ ンで、当時、百貨店王と言われていたジョン・ワナメーカーの耳に入り、 彼のデパートで「母の日」を記念する催しが始められました。
これが全米に広がり、1908年、当時の大統領によって、国の記念日として定め られ、日本でも、1923年から祝われるようになりました。
きょうも、神さまの恵みを感謝し、お母さんへの敬愛と 感謝を表わしましょう。
また、母である方は、神さまの 愛を信じ伝える母、祈りの母となられますように。
「王のしたことは民を満足させた」 (A・K)                2010/04/25

王のしたことはすべて、民を満足させた。・・・すなわち・・・
アブネルを殺したのは、王から出たことばではないことを知った。
                (Uサムエル3:36、37)

ダビデと契約を結んだ元サウルの将軍アブネルの暗殺を、ダビデの 部下ヨアブが企てます。
しかし、ダビデはそのことを知りませんでした。(26節)
ヨアブがアブネルを密かに呼び出して殺したことを聞いたダビデは、 「私にも私の王国にも、主の前に罪はない」と言い、アブネルの死を 悼み悲しみました。
そのようなダビデの姿を見て、人々がうなずき、 この件について、ダビデに非がなく、これが王から出たものでないと認 めるに至ったことが記されています。
常に主の前に、また人々の前に、 真実な心、正しい態度をもって尽くそうとするこの王にこそ、民の心が 引き寄せられていったことを感じます。
「ダビデは主に伺って」 (A・K)                2010/04/18

・・・すると主は彼に、「上って行け」と仰せられた。
・・・主は、「ヘブロンへ」と仰せられた。
                (Uサムエル2:1)

サウルの死後、自分はユダに上って行くべきかと尋ねたダビデに 神さまは上記のように答えられました。
サウルがいなくなり、まさにダビデの時代がやってきたというときでしたが、 彼は自分の考えで先走ることなく、神さまに、どのような踏み出しを すべきかをお開きしました。
彼の姿から、どんなときにも、主の前こ座して、その導きを仰ぐこ との大切さを学ぶことができます。
ダビデは、この「主に伺う」姿勢を、試練や孤独の中で 身につけたのではないでしょうか。
みこころを祈り求めるとき、主は明確な導きを与えてくださいます。
そして、そのお言葉に従うなら、私たちは確信と平安のうちに歩を 進めることができるのです。
主のお導きがなくては、進むことができ ない者であるこという白覚を持ち、謙遜な態度で、主のお言葉に耳を 候ける者でありたいです。
「サウルのために、この哀歌を」 (A・K)                2010/04/11

ダビデは、サウルのため・・・ヨナタンのために、この哀歌を作り・・・
                (Uサムエル1:17)

ダビデは、サウル王とヨナタンの死、さらにイスラエルの敗北の報告 を聞きました。 長い年月、サウルに追われ、身も心も休まる間のない 辛い生活を余儀なくされたダビデにとって、サウルの死の報は、その苦 しみの日々の終わりを告げるものでした。また同時に、ダビデは王位に 着く時を迎えたわけですが、彼は、安堵や喜びを表わしたのではなく、 哀しみの歌を歌いました。
その哀歌には、神さまに立てられたサウル王の尊厳、彼の業績への 賞賛、そして、ヨナタンへの友情と感謝の思いが悲しみとともに綴られ ています。ダビデが、親友ヨナタンを失ったことについてだけでなく、 自分のいのちを狙う敵であったサウル王の死を、これほどまでに悼み 悲しむことができたのはなぜでしょうか。
ダビデがサウルのために作った「この哀歌」を味わうとき、彼が主の 前に自分自身を明け渡し、主の愛に満たされていたことを感じます。
「あなたの王が あなたのところに」 (A・K)                2010/03/28

見よ。あなたの王が あなたのところに来られる。
柔和で、ろばの子に乗って・・・。
              (マタイ21:5)

都に入られたイエス様を、人々は大喜びで迎えました。
病気を治し、死人を生き返らせるほどの偉大な力を持つ御方なら、きっと強い王様になって、 自分たちをローマの支配から解放して下さると思ったからです。
しかし彼らは、わずか五日後には「イエスは私たちの王ではない!十字架につけろ!」と 叫んだのでした。
そして、彼らの要求どおりになりました。イエス様の頭上には、「これはユダヤの王」という 罪状書きが掲げられました。
十字架を取り囲んで、あざける人々には、イエス様が彼らを、悪魔の支配から解き放って下さる 「真の王」であることがわからなかったのです。
そのような彼らのために、そして、すべての人々のために、主は、「彼らをお赦しください・・」と 祈られました。
あなたは、この王を、あなたの心にお迎えしましたか。
受難週からイースターを記念するこの節季、「あなたの王があなたのところに来られる。」という 御言葉が、お一人一人のうちに確かにされる時となりますように。
「逸れることのないように」 (A・K)                2010/02/28

こうして、その日サウルと彼の三人の息子、道具持ち
それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。
              (Tサムエル31:6)

イスラエルの初代の王として神に選ばれたサウルは恵まれた環境、美しい容姿を与えられ、 謙虚さや忠実さを持った人物でした。
しかし、この章に記されている彼の最期はあまりにも哀れです。
彼の死は、前掲のみことばのように、家族や部下たちを巻き込み、イスラエルが 異教の民に敗北する要因にもなりました。
これについて、T歴代誌10:13には、「サウルは主に逆らった、 みずからの不信の罪のために死んだ」と記されています。
神様への信頼と服従が次第に崩れ、このような結末に至った彼の生涯 を見るとき、主に全面的に信頼し聞き従う信仰の道から、 逸れることのないようにと教えられます。
「彼の神、主によって」 (A・K)                2010/02/21

ダビデは非常に悲しんだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで
心を悩まし、ダビデを打ち殺そうと言い出したからである。
しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
              (Tサムエル30:6)

ダビデと仲間の者たちは、町も家族も失い、泣くカさえ尽きてしまい ました。
しかも、ダビデは皆と同じ悩みだけでなく、リーグーとしての 孤独、ついには命の危険へと追いやられていました。
そのようなダビデが「しかレ‥奮い立った。」と記されています。
このみことばの「彼の神、主によって」という言葉のうちに、ダビデが知って いた幸いが見出されます。
ダビデのように、すべての助けが断たれてしまったときにも、恵みに よって支えてくださる神様を、「私の神」として知っている者は幸いです。
自分の限界や弱さ、神様の強さを知って、自らの力によるのではなく、 御力におすがりする者を、主は立たせてくださるからです。
「砕かれた悔いた心で」 (A・K)                2010/02/14

サウルは主に伺ったが、・・答えてくださらなかった。
              (Tサムエル28:6)

サウルはペリシテの大軍を見て、非常に不安になり、助けを求めて祈りましたが、
神様はお答えになりませんでした。
この時サウルが、まずしなければならなかったのは、御声に聞き従わなかった罪(18節)を
悔いて、主の御手に陥ることでした。
しかし彼は自覚している罪を放置し、こともあろうに霊媒女を頼っていきました。
当然、彼がそこで得たものは、更に増してゆく恐怖でした。
主の語りかけに耳をかさず、度々の悔い改めのチャンスに応じなかった者が、
内外からの恐怖にさいなまれ乱れていく様が、この章に哀しく記されています。
砕かれた悔いた心で近づく者を、決して拒まれることのない、
愛と憐れみに満ちた御方がおられることをおぼえましょう。
そして、いつまでも御声を聞き分け従いつつ、自由と平安の道を辿る者でありたいです。
「ほかに道はない」 (A・K)                2010/01/31

ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって
滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。・・』

サウルに追われながら生活していたダビデは、将来に大きな不安を覚え、
上記のような決断をしました。
これまで苦境の中を何度も、信仰によって誘惑に打ち勝ってきたダビデでしたが、
この箇所では神様を見失ったような状態に陥っています。
ダビデは、サウルによって滅ぼされるという恐れに心を占められてしまい、
「ほかに道はない」と、ペリシテ人の島に逃げました。
彼は主に祈ることもなく、自分勝手な判断や理解によって動き始めてしまったのです。
ダビデは、神様だけに信頼し従おうと努めることを忘れ、
敵国の王アキシュの許に身を寄せて、彼の信用を得るために力を尽くします。
一時的には恐れから逃れたように感じたとしても、ダビデの心に平安は戻らず、
内なる葛藤を味わい続けたことと思います。
どのようなときにも主を見上げ、主に信頼して従う道以外に、私たちの進むべき道は
ないことを忘れない者でありたいです。
「生きておられる主の前に」 (A・K)                2010/01/24

主は生きておられる。
・・・私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、
主の前に絶対にできないことだ。
(Tサムエル26:10・11)

ハキラの丘に隠れているダビデを追って、サウルは荒野に下って来ました。
それを知らたダビデが、サウルが陣をしいている場所に出て行ったとき、 サウルは地に槍を立てて寝ていました。
この状況を見て、ダビデと共にいたアビシャイは、サウルを打つ絶好の機会だと考えましたが、 ダビデは上記のように語り、サウルに手を下すことを許しませんでした。
『主は生きておられる。』というダビデの言葉に、常こ主に対する敬虔さを 貫く信仰者の姿を見ることができます。
彼は、主による油注ぎの重大さを知って、それを軽んじる罪から飛び退くことを選びとりました。
すべてが主の御手の中にあると頷き、委ねることを選択したのでした。
「生きておられる」「主の前に」歩む者として、みここを悟り、より頼む者 に最善をもってお応えくださる方に従う道を進ませていただきましょう。
「神様のストップサイン」 (A・K)                2010/01/17

きょう、あなたを私に会わせるために送って下さった
イスラエルの神、主がほめたたえられますように。
このしもべが悪を行うのを引き止めて下さった
主が、ほめたたえられますように。(Tサムエル25:32・39)

ダビデがナバルのもとに十人の若者を遣わし、彼らに物を与えて欲しいと 願いましたが、ナバルは拒絶しました。
ダビデはナバルの侮辱に憤り、彼に報復しようとしましたが、ナバルの妻アピガイルが、逸早く贈り物を 用意し、主人の無礼を詫びて、ダビデの怒りを解きました。
ダビデは怒りに 任せてナバルに手を下そうとした自分をとどめるために、神様がアビガイ ルと出会わせてくださったのだと感謝し、「主がほめたたえられますように」 と言いました。
また、その後ナバルが主に打たれて死んだことを知ったとき にも、「引き止めてくださった主が、はめたたえられますように」と罪から 守ってくださった方に感謝しました。
私たちの日々の生活においても、同様 に神様がストップサインを下さることがあります。
気静かな御声を敏感に聞き 取り、感謝をもってお従いする者でありたいです。
「主を畏れる者の選択」 (A・K)                2010/01/10

私が主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に・・・
手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。
彼は主に油そそがれた方だから。(Tサムエル24:6)

ダビデがエン・ゲディにいることを知って追いかけて来たサウルが、道端の ほら穴に立ち寄ったとき、ダビデと部下はその奥に座っていました。ダビデ にとって、それは、サウルを容易く倒せるという予想外の状況であり、信仰 を試されるときとなりました。今こそサウルを打つ時だと部下に勧められる ままに、ダビデはサウルの上着のすそを切りました。
しかし、そのことを後悔し、サウルに手を下さないという決断とともに、 部下に語ったのが上記の聖句です。
自分が置かれた状況が、神が下さった絶好の機会だと主張するこ とも、祈りの応えだと思い込むこともできたでしょう。
しかしダビデは、現状ではなく神様ご自身を見上げ、主に油注がれた方に手を下すことは、主に逆 らうことであると考えました。
すべてを裁かれる方を畏れ、委ね従う事を選び取ったのでした。
私たちも、日々のあらゆる場面で、ダビデのように主を 畏れる者の選択をさせていただきたいものです。
「クリスマス」 (A・K)                2009/12/20

布にくるまって飼葉おけに寝ておられる みどりご…
これが、あなたがたのためのしるしです(ルカ2:11:12)

クリスマスおめでとうございます。
今から9年前のクリスマスの日、私は病院のベッドの上にいま した。
一人ばっちのクリスマス‥・夜が更けていくにつれて、とても 寂しい気持ちになりました。
そんなとき、「♪まぶねの中に 産声 あげ‥・貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」
という讃美歌が心に響いてきました。「赤ちゃんとなって飼葉おけ に寝ておられる…人の悲しみや悩みをすべて体験された…十字架 で死なれた イエスさまを見なさい」という歌詞の意味を 静かこ 味わうと、心が慰められあたたかくなりました。
皆さんはこ存知でしょうか?イエスさまがお生まれになった 時代の飼葉おけは、四角い石をくりぬいたものだったそうです。
冷たい石のベッドに、イエスさまは寝ておられたのです。
聖書には、それが「あなたがたのためのしるしです」と書かれています。
この「しるし」はイエスさまが、私たちのために辿ってくださった愛の ご生涯の始まりと、その日々を示しています。
飼葉おけは、神である方が人となってこの世に来てくださったことの「しるし」
イエスさまが私のすべてを知ってくださり、何よりもつらい罪の 苦しみを私の代わりに受け、私を赦すためにいのちさえ差し出し てくださった救い主であることの「しるし」なのです。
今年のクリスマス、飼葉おけのイエスさまを、そして、そこに あらわされた神さまの愛のしるしを見つめ、喜ぶときとなります ように。祝福をお祈りいたします。
「御名による力づけ」 (A・K)                2009/12/13

『サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て
 神の御名によって、ダビデを力づけた。
       (Tサムエル23:16)
21から23章には、度々ダビデの手恐れ」が記されています。
孤独と恐れの中で流浪の旅を続けるダビデを訪問し、
力づけたのは、彼の友ヨナタンでした。
ヨナタンはダビデにとって激励が、一番必要と思われる
タイミングで現われ、彼に言葉をかけました。
それは、自分の存在や優しさなどを強調する慰めや
励ましではなく、相手が神様のうちに力を見出すことが
できるような激励でした。
試練の中で、神様に目を上げさせ、主ご自身に
カを見出すことができるよう力づけてくれる友を
持ったダビデは幸いでした。
私たちも、互いに、そのような存在となることが
できる者でありたいです。
友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17)
「私たちは一つ」 (A・K)                2009/11/29

『私たちふたりは、「主が、私とあなた、また私の子孫と
 あなたの子孫との間の証人です。」と言って、
 主の御名によって誓ったのです。』
       (Tサムエル20:42)
19・20章には、ヨナタンとダビデの契約と友情の姿が記されてい ます。
ダビデの名声をねたんだサウル王は、ダビデに殺意を抱くようになり ました。
そのことを父から打ち明けられても、王子ヨナタンのダビデに 対する友情は変わらず、彼はそれまで以上にダビデを思いやり、父の 怒りから友の身を守ろうと努めました。
友である二人だけが解る方法で、ヨナタンか野原に矢を放ち、ダビデ にメッセージを伝えた、20章の記事は感動的です。
サウルは、主がダビデと共におられることを見て、彼を恐れましたが、 ヨナタンは、ダビデが証ししている主の御臨在の故こ、彼を愛したので しょう。
常に、神様がおられることを意識した彼らの友情は、周りの変 化や苦境によって消されるようなものではありませんでした。
私たちも、主にあって繋がれ一つとなり、互いに愛し励まし合う信仰 の友を持ち、その交わりの中で成長させていただきましょう。
「勝利の記録」 (A・K)                2009/11/15

『ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主がともにおられた。』
                  (Tサムエル18:14)
サウル王は、ゴリヤテとの戦いに勝利したダビデを召しかかえました。
また、サウルの子ヨナタンはダビデを愛し、彼と契約を結びました。ダビデ は、どこでも、遣わされる所へ出かけて行き、さらに勝利を収めてゆきます。
そのようなダビデを、サウルは恐れるようになり、彼の命を奪おうと謀りま すが、王の策略はかえって、ダビデを栄えさせることとなります。
このような記事の中に、ダビデの「勝利の記録」が綴られているわけですが、 それを飾るように、「主はダビデとともにおられ」(12節)、「主が彼とともにお られた」(14節)、「主がダビデとともにおられ」(28節)と、主の御同行の事実が 記されていることに気づかされます。神様は、常にダビデと共におられ、彼 を強め、勝利を与えられました。
心から主に信頼し従うとき、同じ主が、私たちをも支え導き、勝利者としてくださるのです。
「主は救い出してくださる」 (A・K)                2009/11/08

ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、
あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」
            (Tサムエル17:37)
ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集しました。
サウルとイスラエル人も集まって、彼らを迎え撃つための備えをしました。
しかしゴリヤテという巨大な敵の出現に意気消沈してしまい、その 挑戦を受けて立つ者はひとりもいませんでした。
折しも、戦場の兄たちを訪ねたダビデは、ゴリヤテが発する神を汚す言葉を聞いて、彼に挑む 決意をしました。
それは無謀な行動のようにさえ見えました。ダビデにとって、よろい もかぶとも剣さえも、身に合わないものでしたが、彼が身につけその 手に握ったのは、使い慣れた石投げと、「万軍の主の励名」そして、「主 は、私を救い出してくださる」という、彼が体験的にに知っていた神様への 信頼でした。
神様がおられ、その方に守られているという平安、「この 戦いは主の戦いだ」(47節)という明確な理解と納得…。
ダビデの手には、目こ見えない強靱な武器と勝利への確信が、握られていたことがわかり ます。
日々の神様との交わりの中で、さらに主を知らせていただき、主の ご臨在とみことばに立って、戦い進む者でありたいです。
「主は心を見る」 (A・K)                2009/10/25

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
            (Tサムエル16:7)
サウルのことで悲しんでいるサムエルに、「エッサイのところに行って わたしが言う人に油を注げ」との、主からの言葉がありました。
サムエルは主に告げられたとおりべツレヘムへ行き、新しい王としてダビデに油を注ぎま した。
このとき、ダビデを選ばれた神様の基準は、彼の心の在り方でした。
私たちは、人や自分を「うわべ」で判断しやすい者です。
けれども神様は、常に私たちの「内側」を見つめておられるのです。
不本意な失敗を経験したり、周りから誤解を受けて悲しさを覚えるようなとき、 神様が私たちの動機や思いを知っていてくださることは、大きな慰めとなります。
また、成功を果たして賞賛を受けるようなときにも、私たちの本当の姿をご存知の主がおられ ると知っているなら、高ぶりから守られることができるでしょう。
神様は、この油注ぎの後も、すぐにはダビデを王座に就かせず、王の道具 持ちとして用いられました。
サウルに仕える日々の中で、ダビデにいくつも の試練や孤独を体験させ、謙遜と主への信頼を学ばせられたことは、まさに、 「心」を見られる神様からの訓練にはかならないと感じます。
私たちの「うわペ」ではなく、「心」を見ていてくださる方の前に、へりくだって歩みましょう。
その中でしか知ることのできない恵みを、主は備えていてくださいます
「聞き従うこと」 (A・K)                2009/10/18

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
            (Tサムエル15:22)
神様は憐れみによって、サウルに回復のチャンスを与えるために、再度、 彼に信仰のテストをされました。
「すべてのものを聖絶(一般的な用途に用いることをせず、神様のために 聖別)せよ」という告示を受けて、アマレクとの戦いに勝利をおさめたサウル でしたが、良いものを惜しみ、つまらない物、値打ちがないと思われる物だ けを聖絶しました。
このように、サウルの服従は全面的なものではありませんでしたが、それ でも彼は、「私は主のことばを守りました」(13節)、「主が私に授けられた使 命の道を進めました」(20節)と自分を正当化したのでした。
結果、彼のこの不信の罪は、イスラエルに大きな災いをもたらす原因となり、何よりも、神 様のお心を悲しませるものとなりました。
冒頭のみことばにあるように、私たちが「聞き従う。こと」を、最良のささげ ものとしてお受けくださる方の語りかけに、きょうも耳を澄ましてみこころ を知らせていただきましよう。
そして、私自身を主の前におささげして、全 面的な服従の態度をとり続ける者でありたいです。
「神が共におられたので」 (A・K)                2009/10/11

「神が共におられたので、あの方は
きょう、これをなさったのです。」
こうして民はナタンを救った・・」
            (Tサムエル14:45)
サウル王の息子ヨナタンは、道具持ちの若者とともに、ペリシテを襲撃し 約20人の敵を倒しました。
その知らせが王に届いて、イスラエル軍は総攻 撃の態勢に入りました。
この時サウル王は、戦いが終わるまで、兵士たちの 飲食を禁じましたが、王子ヨナタンーまその経緯を知らなかったために蜜を口 にしてしまいます。
そのことを知ったサウル王は激怒し、王子を厳しく罰す るように命じました。
そこで、王子ヨナタンの命を救って欲しいと、民が王 に願った言葉の一部が上記の聖句です。
この言葉には、知略に優れたヨナタンヘの感謝や敬意、彼への適切な評価が 表わされていると思います。
人々は、ヨナタンが密かに最前線に出て行ったことが、無謀な恐れ知らずの行動では なく、神様への信頼によるものであったことを理解していたのでしょう。
事実「主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」(6節)という彼自身 の言葉からも、その信仰の姿勢を知ることができます。
私たちが「きょう」行うすべてにも、「主が共におられたので」という理 由と評価が伴うような、信仰による歩みをさせていただきたいものです。
「愚かなこと」 (A・K)                2009/09/27

サムエルはサウルに言った。
「あなたは愚かなことをしたものだ。
あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・」
            (Tサムエル13:13)
この13章でイスラエル人が対峙しているペリシテ軍は、「戦車三万、騎兵 六千、それに海辺の砂のように多い民」でした。(5節)
一方、それと向かい合っているサウル王の軍隊は わずか三千人で、しかも日ごとに恐れをなし て去っていくというありさまでした。
これ以上 少人数になることを恐れた サウル王は、サムエルとの約束を破って供え物を献げる行為をしてしまいま した。
そのことに関するサムエルの叱責に対して、サウルはその理由を叫ん でいます言11,12節)彼が置かれていた状況は、先述のように同情し たくなるようなものではありましたが、彼がとった行動は、王として致命的 な失敗でした。サウルの失敗の原因は、彼が神様以外のもの…現状を回復さ せようとする思いや、自分の考え・羊張を、神様の命令よりも優先したこと にあります。サウル王が、この「愚かなこと」を選び取った結果、恵みを失い、 捨てられてしまった記事は、私たちに警戒を与えています。
どんなときにも、私たちがご自身に望みを置き、その御言葉に誠実に従う 「ことを求めておられる主に、心を向けて歩みましょう。
「よい正しい道を」 (A・K)                2009/09/20

私はあなたがたに正しい道を教えよう。
ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。
主がどれほど偉大なことを
あなたがたにしてくださったかを見分けなさい。
                 (Tサムエル12;23,24)
イスラエルの民が、自分たちを治める王が欲しいと要求したことは、神様 への不信のあらわれでした。預言者サムエルはその罪を指摘しながらも、主 がご自身の御名の故に、民をお捨てにならないことを告げ(22節)、上記の 言葉を語りました。これは、神政政治から王政政治への変化によって、その 舞台から去ることになった彼が、これまで幾度も主を忘れ、主に背いてきた 民に残さなければならない警告でした。
私たちは、主によって救われ、その恵みによって生かされている者であり ながら、ある時には、戦いの激しさ・問題の大きさに押しつぶされそうに なって主を忘れ、またある時には順境の中で、その恵みを忘れてしまい易い 弱い者です。しかし、そのような者にこそ「教えよう」と示されているこの「道」 に目を留めましょう。どんな時にも、これまで主が私にとってどのような御方 であってくださったか、その恵みがどれほどであったかを思い起こし、心を 尽くして主に仕える者でありたいです。その「よい正しい道」を歩む中で、主 はさらに溢れる恵みを体験させてくださるでしょう。
「主が救ってくださったのだから」 (A・K)                2009/09/13

しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。
きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」
                 (Tサムエル11;13)
イスラエルの初めての王として選ばれたサウルは、特別な相応しさがある とは思われない人物でした。油注ぎの後、すぐに行政的な働きを始めたわけ でもなく、周りには、彼を蔑む者たちの存在さえありました。
そのようなサウルに、王としての自覚をもたらすため、神様はアモン人の侵略という 試練を備えられました。アモン人のことを聞いたサウルに聖霊が下り、彼は リーダーシップを発揮し、力強く人々の心をまとめて敵に勝ちました。
この勝利によって人々はサウルを王と認め、彼らは、当初の反対者たちを罰する ために引き渡すよう、預言者に願いました。
その要求を聞いて、サウルは上記のように語ったのです。彼は、勝利を彼め功績と捉える民を退けて、 この勝利が主によるものであることを認め、また反対者に対しても、寛容を 示しています。
ここに、彼のうちにある主への畏れ、絶対的主権への信頼と謙遜を見ることができます。
私にかかわるすべてのことの中に、主のご支配を知らせていただき、その みこころに従う者でありたいです。
「しるしが起こったら」 (A・K)                2009/08/30

このしるしがあなたに起こったら、・・・何でもしなさい。 神があなたとともにおられるからです。・・・神はサウルの心を 変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、 その日に起こった。(Tサムエル10:7,9)
サムエルはサウルに油を注いで、イスラエルの王になることを告げ、 ました。(1節)前章からもわかるように、サウルには自分が選ばれ て当然だというような思いは無かったでしょう。
そのようなサウルに、この油注ぎが主からのものであることを納得 させるために、サムエルはしるしについて語りました。
サウルがそのしるしを体験したとき、彼は、神様がお決めになった ことに従わなければならないと悟り、納得を与えられたことでしょう。
私たちの立場はそれぞれに違いますが、神様は私たちひとりひとり にも、使命を託しておられます。そして、その最善の道を歩むことが できるように、御臨在と御力を知らせ、励まし導いてくださいます。
弱く小さい私たちが、ただ主に依りすがって一歩を踏み出すとき、 主は私たちを用い、その務めを果たさせてくださるのです。
「私は最も小さい」 (A・K)                2009/08/23

私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。(Tサムエル9:6)
この章からイスラエルの最初の王、サウルの物語が始まります。
ある日、父のロバを捜すために出かけたサウルは、神の人サムエル と会いました。それはその前日、主がサムエルに告げられた通りの 出会いでした。サムエルはサウルを食事の席に招き、「イスラエルの すべてが望んでいるものは・・・あなたのもの」と告げたので、サウルは 驚きをもって上記の言葉を返しました。
この聖句だけではなく、この章のサウルの言動には、彼の謙遜と、 そのことによる従順の姿を読み取ることができます。
私たちも、主の前に、「最も小さい」者であることを自覚し遜り、 与えられたことに素直に従って進む者でありたいです。そして、その 中でさらに開かれてゆく恵みの道、主のご計画の実現を体験する者と ならせていただきたいものです。
神は、さらに豊かな恵みを与えて下さいます。・・・『神は、高ぶる者を 退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』(ヤコブ4:6)
「ここまで主が」 (A・K)                2009/08/16

ここまで主が私たちを助けてくださった。(Tサムエル7:12)
ペリシテ人の脅威と略奪に嘆き、イスラエルは主を慕いもとめて いました。苦境の原因が自分たちの罪であることに気づき、悔い改め を迫られた彼らは、サムエルの指導によって、神様との隔たりとなっ ていた偶像を取り除きました。
そして、主の前に集まり、いけにえをささげて主にすがりました。
その最中、またもやペリシテの攻撃に見舞われましたが、主による 勝利を与えられ、彼らは上記聖句の告白に至ったのです。生活の中に 偶像礼拝を取り入れていくことに違和感さえ覚えず、長い間にはそれ をすっかり浸透させてしまっていたイスラエルの罪深さと、そのよう な彼らであっても、拒むことなくその叫びに応えられた、主の憐れみ の深さを感じます。
ただ恵みにより、主に赦され助け出された者であることを覚え、感 謝して進みましょう。
「だれが主の前に」 (A・K)                2009/08/09

だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。(Tサムエル6:20)
ペリシテ人は、イスラエルから戦利品として奪った契約の箱(4: 11)のために、「神の手」によるわざわいを受けました。(5章)
次々と恐ろしい災害に悩まされ、いよいよ神の箱の処置に困った彼 らは、それを返す方法を模索し試みたあげく、国境近くのべテ・シェ メシュに安置しました。ベテ・シェメシュの人々は神の箱を喜び迎え ましたが、その不敬虔な行為のために五万七十人が打たれ、民は狼狽 して、上記の言葉を叫んだのでした。
神様は、罪を自覚せず認めないままや神の箱を迎えようとした彼ら に、厳粛なさばきをくだされました。罪に汚れ、神さまに近づく事 ことのできなかった者をイエス・キリストの十字架による贖い、義 と認めてくださった恵みを思い感謝が溢れます。
『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、 あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、 聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』
(コロサイ書1:22)
「ただ主だけを」 (A・K)                2009/07/26

主の契約の箱を、われわれのところに持って来よう。そうすれば、
それが、われわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。
            (Tサムエル4:3)
これは、敵(ペリシテ)に打ち負かされて戻ってきた民を迎えて、
イスラエルの長老たちが口にした次なる戦略です。
「そうすれば、それが、われわれの真ん中に来て」という表現は、
一見、主による勝利を先取りした借仰の言葉にもみえますが、
決してそうではありません。これは、主ご自身を見上げる事なく、
ただ形式的に神の箱を近くに置きさえすれば、ご臨在を感じること
ができるだろうと考える、彼らの不遜を露呈している言葉ではない
でしょうか。また、「われわれ」と繰り返す彼らは、自己中心的で、
敗因を省みて主の前に出るという謙虚さにも欠けているように思わ
れます。戦術だけでなく、主をおそれるという点でも、「神が陣営
に来た」(7節)と言ったペリシテのほうが、彼らより勝っていたの
かもしれません。
神さまは、このようなイスラエルを再び打たれ(10節)、ご臨在
の象徴として彼らがすがっていた神の箱さえ、敵に奪い去られて
しまいました。
大いなる主ご自身をあがめる礼拝者、ただ主だけを畏れ、ご臨在
のうちに歩む信仰者とならせていただきましょう。
「黙して聞く場所」(A・K)                2009/07/19

主が……「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、
「お話し下さい。しもべは聞いております。」と申し上げた。
            (Tサムエル3:10)
サムエルは、毎日 主の宮で祭司エリの声を聞き、その言葉に従う
ことを教えられていたのでしょう。ある夜、神さまから呼ばれたとき
も、エリの声だと思い、そのたびに彼のもとへ走って行きました。
そして、主が彼を「呼んでおられるということを悟った」(8節)エリ
に教えられ、主からの呼びかけに応えました.
主は何をおっしゃるだろうと、耳を澄ましているサムエルには、
そのお言葉に従う心構えがあったと思います.
祈りの座は、私たちが感謝や賛美、あるいは問題課題、心に抱く
思いを持って行き、それらを主に告げるところです。しかし同時に、
主からの語りかけをいただくために、黙して聞く場所でもあります。
きょうも そこへ行き、「お話しください」と 主に申し上げ、服従
の備えをもって 静かな御声を待ち望みましょう。
「主に仕えていくと」(A・K)                2009/07/12

一方、少年サムエルは ますます成長し、主にも人にも愛された
                           (Tサムエル2:26)
ハンナは、「主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくだ
さいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。」
(1:27,28)と言って、サムエルをエリのところへ連れて行き
ました。幼いサムエルは、「一生涯、主に渡されたもの」(1:28)と
して、主の宮での生活を始めました。
この章には、エリの息子たちの邪悪な行状と対比させるかのよう
に、サムエルの成長ぶりが記されています。
サムエルは「主に仕え」(18節)、「主のみもとで」(21節)、「主に
も、人にも愛され」(26節)て成長していきました.
みそばに身を置き続ける者を、主は御訓練くださり、その愛の中
で養い育ててくださいます。きょうも純粋な心をもって主に近づき、
お仕えする者とならせていただきましょう。