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恵みのしずく



2015年8月2日

「再び生かしてください」 詩篇119篇81〜88節(A.K)


作者の苦悩の中での叫びと、信仰の祈りを見つめましょう。

〔1〕苦悩の中からの叫び
作者は、失望の深みに陥った者として語っています。
81〜82節…彼は穴の底で叫んで いますが、そこから神さまが引き上げてくださることを「待ち望んで」、神さまの 「救いを慕って」いると告げています。
82節の「絶え入るばかり」という言葉は、 「ぼろぼろになった」「燃え尽きた」という意味を含んでいるそうです。
そのような 状態が83節では「煙の中の皮袋」とも表現されています。
長い間、煙の中に吊り下げ られ渇ききった、ひびだらけの皮袋のようだというのです。
彼をそういう状態に追いやったのは何だったのでしょうか。
これまで学んだ段落にも出てきた、「高ぶる者」 が85節にも述べられています。
彼らは作者を陥れる「穴を掘」り(85節)、「偽りごと をもって」作者を「迫害し」(86節)、彼を「滅ぼそうとして」いました。(87節)
作者は苦悩して神さまに叫び、問うています。
「いつあなたは私を慰めてくださるので すか。」(82節)、「あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。」「あなたはい つ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。」(84節) 
そして作者はこのよ うな苦悩を味わう中で、「どうか私を助けてください」(86節)とただ主を仰いでいる のです。

〔2〕みことばへの信頼
彼が、失望のどん底でこのように主に願うことができたのは、彼が神さまのみことば に対する信頼を失っていなかったからだとわかります。
83節「私は…あなたのおきて を忘れません」、86節「あなたの仰せはことごとく真実です」、87節「この私は、あ なたの戒めを捨てませんでした」と。彼は82節にあるように、みことばが必ず自分の 慰めとなること、85節の高ぶる者の描写や88節に表されているように、み教えには喜 んで従うべきことを知って、真実のみことばに信頼し、それらを守り続けることに心 を定め生きていたのです。

〔3〕神ご自身への信仰
このように、苦悩の中でもみことばに信頼した彼の確信の根拠が、88節に表されています。
88節の「生かして」とは「再び生かして」という意味です。
この聖句を味わ い、彼が肉体のいのちを伸ばしてくださるようにと言っているのではなく、信仰に輝 き、内なるいのちに「生かしてください」という願いで心を満たしていることを実感 し、私も改めてこの祈りを主におささげしました。
作者はそのことがなされる理由を 「あなたの恵みによって」と述べています。彼の究極の信頼が、みことばを通してご 自身をあらわしてくだる、神さまであったことがわかります。

私たちも、御自分のお約束に真実であってくださる、生ける神さまご自身に信頼を置 いて進ませていただきましょう。

2015年7月26日

「みことばによる希望」  詩篇119篇73〜80節(A.K)


この部分には、「あなたのことばを待ち望みます」(74節)とあるように、みことばに 望みを置く者の信仰が表わされています。きょうは、作者が語る、みことばによる希 望について学ばせていただきましょう。

〔1〕造り主を見上げ続けて
73節…彼は創造主に目を上げ続けています。彼は、自分を造られ、自分について一 番よく知っておられるのは、主ご自身であることを頷いていました。
だから主が仰せ になることは正しく、知恵と知識に富んでいるとわかり、そのことに希望を置いて 「待ち望む」ことができたのです。
自分の存在が、自らにあるのではなく、神さまの 御手の中にあるということを覚え続けることは重要です。
そうすれば、75節にある ように、私たちの人生の「悩み」の日を、主がその御真実のゆえに、ご目的をもって設けられたときであると認識し、現実にではなく、主を目を上げて通ることができるからです。
私の造り主が、きょうも私をみことばによって導き、さらに変え続けてく ださることを期待して進みましょう。

〔2〕惑わす人々が居る中で
作者は、「高ぶる者ども」がいることを78節で述べています。
前の段落の69節で は、彼らは作者を「偽りで塗り固めました」と言われていましたが、ここでは、「偽 りごとをもって私を曲げた」と語られています。
これは、「偽りを用いて私を迷わせ ようとした」ということです。
神さまのみことばに従う事を意図的に退けた「高ぶる 者」たちは、正しく歩もうとする者のそばに来て、その耳に偽りを吹き込んでいるのです。
創世記3章で、偽りをもってエバに言い寄った蛇の言葉を思い出します。
(創 世記3:1〜5) 蛇は、「本当に神さまがそのような事を言われたなんて、信じら れませんよね」とささやいたのです。
この言葉にエバは惑わされて罪を犯してしまい ましたが、詩篇の作者はサタンの惑わしに負けませんでした。
「高ぶる者」たちは、 作者の心をみことばからそらすことに成功しなかったのです。
その理由は、彼が主の 「戒めに思いを潜め」たからでした。
主はみことばをもって私たちに、サタンの策略 に対する警戒を与えてくださるので、私たちは望みつつ勝つことができるのです。

〔3〕聴き従うことを求めて
「悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください」(73節)と まず祈った作者は、続いて、「あなたのさばきは正しい」(75節)、「あなたのみお しえは私の喜び」(77)と確信をもって述べています。
そして80節…神さまのおき てのうちに、責められるところのない者となることを求めて歩もうとしています。
神 さまは、悩みの炉で私たちを精錬してくださり、さらにみことばの光の中できよい者 へと成長させてくださるという望みがここに輝いています。

みことばに望みを置いて進みましょう。

2015年7月19日

「苦しみを幸せと呼べる人」  詩篇119篇65〜72節(A.K)


作者は71節で、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言ってい ますが、彼がそのように、苦しみを幸せと呼ぶことができたのはなぜでしょうか。

〔1〕みことばの確かさを経験した
第一に、彼が「しあわせ」と言えたのは、みことばの確かさを経験したからだとわか ります。
65節にあるように、作者は、試練の中で、日頃から語られていたみことばどおりに、主が自分に良くしてくださることを体験したのです。
彼が、みことばの中 に表され、ご自身によって約束されている、主のいつくしみ深さを知ったことが、6 8節にも「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます」と語られています。
これらは、苦難の中でこそ切実に味わうことのできたみことばの確かさです。
私たちにも、平穏であると感じる日々よりも試みの時に、さらに強く深く、みことば に支えられ守られ、主ご自身からの慰めや励まし、力をいただいた経験があります。
ですから私たちは「苦しみに会ったことは…しあわせでした」と言うことができるのです。

〔2〕みことばを守る生活を選んだ
また、彼が「しあわせ」と証しすることができたのは、みことばの確かさを知った 後、みことばに聴き従う生活を選び取るようになったからでしょう。
66節で彼は、 神さまから教えられることを念願し、それは自分がみことばに信頼しているからだと 語っています。
また67節には、彼が苦しみに会って、ようやく心の目を開かれ、そ れまでの自らの生活を省み、その愚かさを悔い、「しかし、今は」と言って、みこと ばへの全き信頼と服従の歩みに踏み出したことが告白されています。
そしてこの決心 と実践は、みことばを軽んじて「高ぶる者」たちの中にあっても揺るがないと証しさ れています。
苦難は彼に、みことばへの従順を教えたので、彼はそれを「しあわせ」 と言ったのです。

〔3〕みことばに従う喜びを知った
また、彼が口にした「しあわせ」は、みことばに従う歩みを続けるという、最上の喜 びを言い表した言葉です。
彼は「高ぶる者」の思いを描写し、「しかし、私はあなた のみおしえを喜んでいます」と宣言して、72節では、それが何にも匹敵せず、代え 難い喜びであることを、「あなた」と繰り返して神さまに申し上げ、主を賛美しています。
私たちは苦難の真ん中に置かれ、暗く深い穴に落ち込むときに、そこで神さま にまみえる体験をします。
ですから苦しみのどん底は、私たちの人生の大切な転換期 であり、霊的成長の点で不可欠な場所とも言えるでしょう。
作者のように苦境を通るときも、主と主のみことばだけに頼って歩む人生のすばらしさを知り、「私にとってしあわせ」と告白する者とならせていただきましょう。
神さ まは、私たちのこのような経験と証しを喜んでくださる御方です。

2015年7月12日

「主と私の関係」  詩篇119篇57〜64節(A.K)


この部分には、作者の祈りの土台となっている、彼と神さまとの関係が表わされてい ます。
それらを読み取り、主と私の関係を見つめ、恵みを思い巡らしましょう。

〔1〕主との約束に立って
57,58節…これらの節には、作者と神さまとの関係が、相互の約束に立っている ものだということが示されています。
まず57節に「私は、あなたのことばを守ると 申しました」とあるように、彼が「みことばを守ります」と、神さまに約束したこと がわかります。
そして58節で「みことばのとおりに」、つまり「神さまの御約束の とおりに」と彼が祈っているように、神さまも彼を憐れむというお約束を与えていて くださったのです。

〔2〕主に向いたときから
続いて彼は、そのような神さまとの恵みの関係が、新しく始められたときの経験を 語っています。
59,60節…その転機は、彼が「自分の道を顧み」たときだったと 述べられています。
そして彼は、みことばのほうへと自分の「足を向けた」のでした。
心や考えが主に向けられただけではなく、彼が「足を向けた」と言っているよう に、彼の進む方向が、みことばへと転換されたという経験と証しは重要です。
また、彼は「急いで、ためらわずに」信仰を行動に移し、みことばに生きる在り方を選んだ と語っています。
彼の決意がこの即刻の応答に反映されていると感じます。
8歳で即位したヨシヤ王が26歳のとき、生涯で始めてみことばに接したときの記事を思い出 します。
→U列王記23:2,3 まさにヨシヤ王は「ためらわずに」、自ら神さま のさとしに足を向け、実行する生涯を生きることを誓ったのです。
私たちも、神さま と繋げられた経験を持ち、その時から、みことばに従う信仰の歩みを始めさせていた だき、主との関係を深められながら進んでいることを感謝致しましょう。

〔3〕み教えに支えられて
しかし、作者は、信仰の道が決してが平坦でないことを語っています。
61節…ここ に、罠を仕掛けるように、作者を陥れようとする者の存在が語られています。
けれども彼は、「私は、あなたのみおしえを忘れませんでした」と言って、主との関係に よって、お約束に支えられたことを証ししています。
62,63節…そして彼は、そ の苦しみが恵みの体験に変えられたことを頷いて、そのような日には「感謝する」と 言い、さらに、神の家族たちとの聖なる交わりがあることを喜んでいます。
そうして、彼の心と祈りの言葉は、神さまの満ち溢れる「恵み」へと向けられています。 (64節)

私たちも、主と近く歩み、みことばに生きる恵みに前進させていただきましょう。

2015年7月5日

「みことばに思いを寄せる人」 詩篇119篇49〜56節(A.K)


みことばに思いを寄せる人が、確かに得るものについて、知らせていただきましょう。

〔1〕希望を持つ
49節…彼は、神さまが自分に語られたみことばを思いつつ、神さまご自身に、それ を「思い出してください」と願っています。
この祈りは、彼が続いて述べているとお り、彼のみことばへの信頼と希望が言い表されている告白です。
他の節を読むと、彼 は苦悩と孤独の中に置かれていたとわかります。
そのような状況でありながら、彼が 「待ち望むようにされた」つまり「私は希望を持っています」と主に申し上げることができたのは、みことばを思うことによってでした。
このように、みことばに心を置 く者の希望は、闇の中にこそ輝くのです。

〔2〕慰めを得る
また、「みことばに思いを寄せる人」は「慰めを得る」ことが証しされています。
作者を悩ませていた人たちが多数だったことが、「高ぶる者ども」(51節)、「みおし えを捨てる悪者ども」(53節)という表現でわかります。
高ぶる者たちが、数を頼り として強い態度で、ひとりぼっちの作者をあざけっているのです。
しかし、その苦悩 の中に居るにも拘わらず、彼は慰めを得ていると繰り返し(50,52節)、みことば によって生かされている(50節)と語っています。
彼はなぜ、このような穏やかな在 り方を保つことができたのでしょうか。
それは、彼が、神さまの「とこしえからの定 めを思い出し」(52節)と言っているように、みことばに思いを寄せることにより、 主が「とこしえから」すべてを握っておられることを頷き、広く永遠を見る視野をも 与えられたからでしょう。
苦境に直面している彼が、その憂うるべき現実の中で慰め を与えられ、忍耐をもって生きることができるのは、彼がみことばに心を置いている からだと教えられます。

〔3〕歌って進む
また、「みことばに思いを寄せる人」は、歌いつつ進む者となることが表されています。
54節の「私の旅の家」や、51節の「それない」という言葉は、彼の人生の歩 みを表している言葉です。また55節の「私は、夜には、あなたの御名を思い出し」 という部分は、「一日が終わると、私はあなたに心を留め」とも訳されています。
こ れらのうちに、彼の生涯の一日一日が、みことばに密着して綴られていること、そし てそれを「守っている」という彼の在り方が証しされています。
彼は常にみことばに 心を寄せ、従う日々の喜びを、「私の歌」となったと証言しているのです。

みことばに思いを寄せ、真実に守り従う幸いを日々に体験し、歌いつつ歩む者となら せていただきましょう。

2015年6月28日

「こうして私は」  詩篇119篇41〜48節(A.K)


この部分には、みことばを通してもたらされる助け、導きへの渇きと願いが歌われて います。作者はまず、41節…と祈っています。
この「救い」とは、光の中を歩む者 が、聖霊によって知らされ直面する、罪の力からの日々の救いのことです。
この区分 には、「こうして、私は」というような表現が繰り返されていますので、それに続く 作者の告白と祈りから学びましょう。

〔1〕罪の力に勝利を得る
まず、42節…この「こうして」は、「そうすれば」という意味です。
みことばに よって救いがもたらされるなら、「そしる者」…「神さまの仰せを拒絶し、私たちの 信頼に疑いを挟ませようとするサタンの攻撃、誘惑」に対して確信をもって答え、勝 つことができる、という告白です。

〔2〕常にみおしえを守る
44節にも「こうして私は」という表現があります。
43〜44節…作者は自らの口 に、神さまのみことばが与えられ続けることを願い、そうして、主に従うべく解放さ れたので、神さまの前にこのような告白をすることができました。
「守りましょう」 とは、やってみよう、試してみようというような意味ではなく、死に至るまで、みことばの前に敬虔な態度をもって服従の道を歩みます、という かたい決意と誓いです。

〔3〕広やかに歩いていく
45節…ここでは、「そうして私は」と言って、作者は「広やかに歩いて行く」と述 べています。「求める」とは、知らせていただきたいという願いや目的、行動を意味 しています。
私たちは、神さまのおことばに強制や束縛を感じながらではなく、自由 を満喫しながら求め守ることができるのです。
まさに、みことばに誠実に向き合うこ とは「広やかに歩く」生き方で、これはキリスト者の特権です。
それは、自分が何者 で、どれほど主に愛されているか、どこに向かって進んでいるかを知っている神の子 の自由だからです。
私たちは、パウロが述べているように、キリストによって解放さ れた者です。→ガラテヤ5:1

また、46節…神さまのおことばは、証しにおいて私たちに大胆さを与えてくれます。
世界中の多くのホテルは、客室の引き出しに聖書を入れていますが、ある伝道者 が泊まったホテルでは、人目を引くロビーのテーブルに置いてあったそうです。
それから部屋に入ると、引き出しではなく机の上に、しかも開いた状態で置かれていたと いうのです。
開かれた聖書を見ながら、その先生は自分自身に問いかけたそうです。
「私の心には、他の人が読めるようにいつも聖書が開かれているだろうか。私の日頃 の行ないは、私がみことばを大切にしていることを、はっきり示すものだろうか」 と。私たちはどうでしょうか。
47〜48節…これらすべてが、みことばに対する作者の心からの応答です。

私たちも、彼のようにみことばを慕い、お応えしながら進みましょう。

2015年6月21日

「あなたの道」   詩篇119篇33〜40節(A.K)


作者は「道」という言葉を繰り返しながら、祈りをささげています。彼が願っている ことを読み取り、信仰の歩みについて学びましょう。

〔1〕教えてください
33節…主と繋げられた者は、神さまの道を教えられる必要を強く覚えます。
それこそが成長、成熟への道であることを知るからです。
作者は、神さまが 御自身の「おきての道」を教えてくださるなら、自分はそれを「終わりまで」守ると 決心しています。
34節…また、「おきての道」を聞かせていただくだけでなく、それを理解させてく ださいと願っています。
みことばに対する悟りを与えていただき、神さまが示してく ださったことに「心を尽くして」従う者とならせていただきたいです。
「どのように 歩んだらよいかを教えてください。そうすれば、私はずっとそのとおりにいたします。」という願いと決意をもって、「教えてください」と祈りましょう。

〔2〕踏み行かせてください
35節…作者は、みこころの道を歩むために、自分がどれほど弱く無力な者であるか をわきまえていたのでしょう。
彼は、自分の信仰の決意に信頼を置いていたのではなく、ただ神さま御自身に信頼を置いているのです。
それで、その道を教え悟らせてい ただくだけでなく、そこを実際に「踏み行かせて」くださるのも、神さまであると頷 きながら、このように求めているのです。
そして、この願いの理由として、「私はそ の道を喜んでいますから」と言っています。
私たちもみことばに示される道の喜びを 体験しながら、さらにそこを踏み行かせていただくことを願い求めて行きましょう。

〔3〕生かしてください
37節の「生かしてください」という祈りは、40節にもささげられています。
この「生かして」という言葉に、彼が、日毎に新しく与えられる神さまの恵みと支え導き を必要としていることが表されています。
私たちも、彼のように、日々に祈らなけれ ばなりません。
私たちの心や目が「不正な利得」や「むなしいもの」に奪われることがなく、見るべ き御方とその道にむけられ続けるように。
35節…リビングバイブルの、「私に正しい道を歩ませてください。私は、それがど れほど喜ばしいことか、よく存じていますから。」という訳が心に響きました。
神さまの御教えに示されている道は、私たちにとって喜びであることを「私はよく知っています」と頷き告白し続け、その道は40節にあるように慕わしいものであることを 歌いながら進む信仰者となりたいものです。

2015年6月14日

「みことばのとおりに私を」 詩篇119篇25〜32節(A.K)


悲しみの中からの信仰の祈りを支えていることについて学びましょう。

〔1〕神さまの御約束
作者は悲しみ中にいました。彼は、「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」 (25節)、「私のたましいは悲しみのために涙を流しています」(28節)と叫んでい ます。
そして彼は、生かされること、教えられること、主による支え、主の憐れみを 求めて祈っています。
特に「あなたのみことばのとおりに私を生かしてください」 (25節)、「みことばのとおりに私を堅く支えてください」(28節)、「あなたのみ おしえのとおりに、私をあわれんでください」(29節)と、いのちを与えてくださる という、神さまの御約束に土台を置いて祈っています。
「主のみおしえは完全で、た ましいを生き返らせ」(詩篇19:7)や、「いのちの泉はあなたにあり」(詩篇3 6:9)との聖句が心に響きます。
彼の祈りは主と主のみことばのうちにある「いのち」の約束に立っての祈りです。

〔2〕偽りの道の告白
「私は私の道を申し上げました」(26節)と、彼は神さまの前に心を開き、本当の自 分についてお話したと言っています。
彼が発見し、告白した自分の心の姿は、29節 にあるように「偽りの道」でした。
そして彼はその自覚に立って、心から神さまの道 に従う者と変えられたいと願い、「あなたのおきてを私に教えてください」(26 節)、「あなたの戒めの道を私に悟らせてください」(27節)、「私を堅く支えてく ださい」(30節)と求めているのです。
神さまに求める祈りは、このように自分を見つめ、心砕かれた者が語る「私の道」に ついての正直な告白とともにささげられるものです。

〔3〕御旨を選ぶ決意
30節で作者は、「偽りの道」を拒絶し、「真実の道」を選びとり、みことばを自分 の前に置くという決意を表明しています。
神さまのみことばは、このように、私たち を真実な道へと回復してくださるのです。
そして、彼は31節のように祈って、その ような生き方の正しさと恵みを信じ、その喜びを主ご自身が証明してくださることを 願っています。
こうして彼は信仰によって力を得、32節でさらに「あなたの仰せの 道を走ります」と決意を述べ、神さまが「心を広くしてくださる」という恵みを先取 りしています。
これは、神さまの道に従うほどに、私たちが、みことばに全信頼を寄 せる確かさを悟り、体験させていただくことができるという証しです。
御旨を選ぶと心に定め、主に告げる祈り手の勝利の姿を知らされます。

御約束に立ち、主に私の心を明け渡し、御旨に従う決意をもった祈りをささげる者と ならせていただきましょう。

2015年6月7日

「私たちの自覚と祈り」 詩篇119篇17〜24節(A.K)


119篇17〜24節は、この詩篇の3番目の区分で、ギメルという文字から始まる 言葉で綴られていて、「人生の目的」について歌われています。

〔1〕私はしもべ…「私の目を開いてください」
作者は、17節と23節で、神さまとの関係を表して、自分を「しもべ」と言ってい ます。
そして、彼は、しもべとして、主のみことばを「守るようにしてください」と 祈り、18節の願いを告げています。
みことばに示されている「奇しいこと」を知っ ても、神さまが私たちの目を開いてくださらなければ、私たちはそれが御力によるも のだとわかりません。
Tコリント2:11〜16…ここに書かれている「主に向く」 とは、「悔い改める」ということです。
神さまのみことばは、神さまの前に謙り、御 自身から霊的な理解力を与えていただかなければ、わかることができないのです。
2 3節でも、彼は「しもべ」として、「みことばに思いを潜めます」と告白していま す。
これは、「みことばを深く味わう」という意味です。
良いしもべは主人の声に耳 を澄まし、その表情やしぐさなどを一心に見つめて、主人の言葉と心に従おうとするものです。
ここで彼は、「君主たちが…私に敵対して語り合っても」と言って、その ような目に見える現実にではなく、どんなときにも自分のまなざしと心を主と主のこ とばに向け、深く味わい知ろうとすることを選び取ります、と表明しているのです。
私たちも、しもべとして、主のみことばを正しく理解し、深く味わい従う者とならせ ていただきましょう。

〔2〕私は旅人…「あなたの仰せを私に隠さないでください」
また作者は、自分のことを「旅人」と言っています。(19節) 続く節から、彼が、 みことばを守ることを、その旅路の目的と捉えていることがわかります。
現代の私た ちのように、交通機関や時刻表、地図やナビ、特徴的な建物などを頼りに進む旅とは 違い、当時の旅人は、行けども行けども、あまり変化のない景色の中、正しい方向を 見つけて進まなければなりませんでした。
目印は、星や太陽、航海なら陸地や島な ど、動かない大きなものでした。
また、険しい道をゆく途中で迷ってしまえば、それ は即座に死を覚悟しなければならない厳しい旅だったでしょう。
詩篇の作者は、そのような旅路を思いながら、自分の人生を旅と考えて、その道であらゆる危険から自分 を守り導く、ただ一つの道しるべは、主のみことばであると歌っているのです。
そして、「…あなたの仰せを私に隠さないでください。」というこの祈りは、みことばの 道からそれてしまうこと、その導きを求めずに歩もうとすることが、どれほど危険で 恐ろしいかを知っている者の祈りです。
私たちも、この自覚と切望を自分のものとさ せていただきましょう。

〔3〕私はみことばを喜ぶ者…「あなたのさとしは私の喜び」
最後に24節で、作者は神さまのみことばを「喜び」と表現し、それこそが自分の相 談相手だと言っています。
彼は、みことばを語ってくださる主との交わりを愛すると 告白し、そのような関係にあり続けるよう、心から願っていることが読み取れます。

みことばの前に、このような自覚を持ち、祈りをささげる者となりましょう。

2015年5月31日

「人はどのようにして」  詩篇119篇9〜16節(A.K)


9節で作者は私たちにとってとても大切な問いを投げかけています。
「どのように して若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか」と。
ここに「若い人」とあるのは、心の潔めを求めるのに理想的なときを示しているそうです。
そして彼は、この問 いに明確な答えを見いだし、そのような者であり続けるための求めと決意を告げています。
それらについて学び、私たちも倣わせていただきましょう。

〔1〕神のことばを信じる
彼は同じ9節で、すぐに自分の問いに対する答えを語っていますが、まず「あなたの ことば」と言っています。
そこに示されているのは神さまのみことばが、けがれから私たちを分離して、御旨の中へ導いてくださるということです。
当然ながら、私たちが「きよく」あるために、またそれを願うには、神さまのみことばの力への全面的な 信頼が不可欠であることが示されているのです。

〔2〕神のことばを蓄える
このように、神さまのことばの力を確信して、作者はこう宣言しています。
10節…彼は神さま御自身を「尋ね求める」という決意表明とともに、そのことを自 分に可能とさせてくださる神さまの恵みを願っています。
続いて彼は、心に定め励ん でいることを述べています。
11節…全能の神さまのみことばが私たちの中に「たく わえられる」ということは、何と不思議なことでしょうか。
それは、知性の中にでは なく、心のうちに蓄えられるものです。
その営みは、私たちがみことばを、ただ自分の思考の対象やなすべきことの手がかりにするというものではなく、みことばを心に 宿らせ、みことば自体が私たちの心と生活の中で息づき、躍動するようになることで す。
それは例えば、愛する人に言われた言葉や教えが、自然に私たちの心の奥深くに とどまって、私たちを動かしたり制したりするのと似ているように思います。
神さまのみことばを蓄えることによって、私たちは罪を犯すことから守られるのです。
イエスさまは、そのことを「みことばにとどまる」と言われ、そうであるなら私たちは主 の弟子であると語ってくださいました。(ヨハネ8:31)
主の教えを蓄え、私たちが その中にとどまって生きるとき、みことばによって、きよい歩みに導いていただくこ とができるのです。

〔3〕神のことばを楽しむ
そのような者の心は主を賛美し、さらに主の教えを求めます。
12節…そして、喜び の証しへと進んでいきます。
作者は神さまのことばを、13節「御口の決めたこ と」、14節「さとし」、15節「戒め、道」、16節「おきて」と表現し、これを 「忘れません」と言っています。
神さまのみことばについて重い圧力を感じたり、束 縛感や恐怖心をもってそう言っているのではありません。
彼は自分の「くちびる」 で、語らずにはいられないほど、みことばを愛し、「どんな宝よりも、楽しんで」そ れに思いを巡らして生きているのです。
自分の生活に輝いているみことばを、「喜 びと」していると歌っています。
私たちも神さまの仰せを、このように片時も忘れな い者となれること感謝いたしましょう。

私たちをきよめるみことばの力を信じ、心に蓄え、喜び楽しみ、恵みを日々新たに経 験させていただきましょう。

2015年5月24日

「みことばによる幸い」  詩篇119篇1〜8節(A.K)


最も長い詩篇で、いろは歌のように、8節ずつがへブル語のアルファベットの文字で 歌い始められ、順に綴られている知恵の詩篇です。神さまのみことばに対する心から の愛が歌われています。第一の区分から、「みことばによる幸い」について学びま しょう。

〔1〕主の道を行く者とされる
みことばによって、私たちにもたらされる幸いは、まず「主の道を行く者とされる」 ということです。
この詩篇全体にも多くでてくる「道」という言葉が、1〜5節にも 繰り返されています。
また、「行く」、「歩む」、「尋ね求める」というように、その道を進む、そこに生きるということが表されています。
神さまと、そのみことばを 求めて歩むとき、みことばは、私たちを責められるところのない正しい者として保っ てくださいます。
そしてその祝福は、私たちの実際的な服従と、「心を尽くして主を 尋ね求める」という内面的な愛とに伴って与えられると語られているのです。

〔2〕自らの恥を取り除かれる
また、3〜6節で、神さまのみことばによって主の道を行く私たちが、不正を犯すこ とから守られると記されています。
真実で偽りのない神さまは、4節のように、私た ちが「堅く守るべき戒めを仰せつけられ」ました。
しかし、作者は、自分の力ではそ れを守ることができないと自覚していました。
それで彼は5節のような祈りをささげ ているのです。
神さまは、みことばをお聞きしようとする者の心に、このような全き 服従への切望を与えてくださるのです。
そして、作者は6節のように、恥を取り除か れるという幸いを述べています。
私たちにとって、神さまの教えは鏡のようです。
そ こに私たちの本当の心の姿が映し出されます。
神さまは、私たちを悔い改め、明け渡 しへと導いてくださるため、この鏡によって私たちの罪けがれを見せつけられます。
しかし、それを知って柔らかく素直にお従いするとき、私たちは「恥じることがな い」者としていただくのです。

〔3〕感謝と決意を与えられる
第三に、みことばによって、私たちは感謝の賛美と信仰の決意を与えられることがわ かります。
7節に描写されているのは、単にみことばの学びが楽しいということではなく、みことばに聴き従い、自分の経験としてその実現を知った者のうちに 与えられる喜びのことでしょう。
それが私たちの主への「感謝」という応答となるの です。その喜びと感謝の日々が重ねられてゆくほどに、そして、みことばに従うたび に、私たちのうちには、8節のように「あなたのおきてを守ります」という主への誓 いが生まれてくるのです。
作者は、この誓いとともに「どうか私を、見捨てないでく ださい」と、神さまの御力によらなければその誓いが果たせないと、主に憐れみを求 めています。

みことばに生きる幸いを体験する者であらせていただきましょう。

2015年5月17日

「主に感謝しよう」  詩篇118篇(A.K)


この詩篇は主に感謝をもって歌うようにとの勧めで始まり、また締め括られていま す。(1,29節)
私たちがどのような方に感謝をおささげするように語られている のかを区分にそって、知らせていただきましょう。

〔1〕私の力である主に
1〜4節に繰り返されていることの主題は、主の絶えることのない契約の愛と恵みです。
私たちを愛してくださった方が、「まことに」慈しみ深く「とこしえまで」変わらずに恵み深い御方であることを、「言え」と繰り返し命じられています。
それから作者は、この神さまを自分の力として体験した証しを述べています。
5節…苦しみの うちから呼び求めた叫びを神さまがお聞き下さり、答え、広い所に置いてくださった こと。
「広い所」とは、何の妨げもない、安定し、安心できる場所です。
6,7節… 主が自分の味方であられること。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵 対できるでしょう。」(ローマ8:31)と いう聖句が心に響いてきます。
8,9節…主に身を避け、信頼する確かさ。
10〜1 3節…自分を取り囲む者たちを断ち切り、打ち倒せるということ。
それは、主の助け によったと。このように、私たちの感謝は、漠然と主が力ある方だからというのでは なく、実際に私に触れ、引き上げ、抱え助け出してくださった御力を、直に体験した 者としての賛美なのです。

〔2〕私の歌である主に
15節の「正しい者の幕屋」とは、「正しい者が住むところ」という意味です。
「喜 びと救いの声」は私たち自身から溢れ出て、17節にあるように、私たちは「主のみ わざを」証しする歌を歌うのです。
19、20節に「門」という表現が出てきます。
これらは「神殿の門」を指していて、そこから主の民は賛美をするために入ります。

〔3〕私の救いである主に
最後の21節からの部分には、救い主イエスさまのことが語られています。
私たち は、主が「救いとなられた」ことを感謝し、歌うのです。
22,23節は、キリスト をその時代が拒絶したことと、その後にイエスさまが高くあげられたことを示すため に、新約聖書で4回引用されています。(マタイ21:42,マルコ12:10,1 1、ルカ20:17,Tペテロ2:7) ある訳では「家を建てる者たちの捨てた 石、それが今や、その建物の力となり、誇るところとなった」と訳されています。
この奇しいお働きによって、敗北から勝利を、死からいのちをもたらされた御方が、そ の救いを私のものとしてくださった恵みを味わい、感謝の歌を歌うのです。

ルターは、この詩篇を「私の詩篇」と呼び、「皇帝、王、賢者たちからも助けを得ら れなかったとき、私はこの詩篇に助けられた。」と告白しています。
私たちもこの詩 篇を「私の詩篇」として、私の力、歌、救いである主に心からの感謝をおささげ致し ましょう。

2015年5月10日

「祈る人は生きる」  詩篇116篇(A.K)


「主の御名を呼び求める」ということを繰り返し述べている(4、13、17節)よう に、作者は「祈る人」でした。
その彼の証しと感謝の詩篇から、「祈る人が生きると ころ」ついて知らせていただきましょう。

〔1〕主への愛に
まず、祈る者は主への愛に生きることが語られています。
作者は、主を愛するという 宣言で始め、そしてその理由を神さまが祈りを聞いてくださるからだと述べています。
1〜2節…そして彼は、その御方を生きる限り呼び求めるという祈りの中に、 ずっと身を置こうということを決意しているのです。
3〜4節…彼の心は苦しみと悲 しみを持っていました。
ある注解書には、これは罪の悲しみであると言及されていま した。
どうしようもない失意に沈んでいた彼は、そのどん底での叫びを聞いて、自分 に関わってくださった主の愛、主のあわれみ(5節)、主の救い(6節)を経験して、そ の御方を愛する愛の中に生きる者とされたのです。

〔2〕全き憩いに
次に、彼は「全き憩いの中に」生きる者とされたことがわかります。
7節…祈りのう ちに、彼は神さまの豊かなお扱いによって助け出され、彼のたましいは全き憩いに与 る幸いを経験しました。
そのことを作者は、「主が良くしてくださった」と表現しています。
そして、その良くしてくださったこととは、8節です。
この証しは、私たち のものです。
私たちはしばしば問題課題の中で、見えない敵の手に陥りそうになるこ とがあるかもしれません。
しかし主が私に「良くしてくださった」という体験をこの 胸に刻まれているので、自らのたましいに、いつでもはっきりと「全きいこいに戻 れ」と言い、静かに神さまの御前に心の軌道修正をさせていただくことができるのです。

〔3〕感謝の中に
この詩篇の中で、作者は大切な問いかけをしています。
12節…そして彼は自分でそ の問い答えています。
それは第一に、1節の「主を愛する」こと。
第二に、16節で 彼が自分を「しもべ」「はしための子」と表現しているように、「神さまにお仕えす ること」、そして3番目に17節や19節に語られているように、自分のすべてを明 け渡して「主に感謝する」ことであると、彼は告白しています。
このように、祈りは 私たちをさらに信仰に進ませ、感謝の中に生きるよう導くものなのです。

神さまに良くしていただいたことに愛の応答をし、恵みを歌いつつ生きる、「祈る 人」とならせていただきましょう。

2015年5月3日

「「主への信頼」    詩篇115篇(A.K)


偶像礼拝の虚しさを語り、生ける神さまのすばらしさと、この方に信頼する幸いを 歌っている115篇から、神さまに信頼する幸いについて学ばせていただきましょ う。

〔1〕信頼せよとの勧告
9〜10節に「主に信頼せよ」と繰り返されています。
これらは作者が呼びかけてい る勧告であるとともに、神さまからの御命令の言葉です。
なぜなら、その一つ一つ に、神さま御自身が信頼の理由、信頼できる保証としてここに語られているからで す。
9節にも、10節にも、11節にも「主に信頼せよ。この方こそわれらの助け、 また盾である」と。「主に信頼せよ。」と命じられる御方は、助けであり、盾のよう に保護してくださる方、どんな時にも信頼して大丈夫な御方なのです。
114篇で は、神さまがイスラエルをエジプトの地から連れ出された方として描かれています。
それは、神さまが不可能を可能にする御方であるしるしです。
そしてこの詩篇では、 「私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる」(3節)と、主が その最善で間違いのない御心を行なわれる方だと歌われています。
また、15節には 「天と地を造られた方」と語られています。
私たちはこの御方を見上げ、へりくだる 態度をもって、信頼を寄せるよう命じられているのです。
しかし、そのことを、規律 や教科書のように学び、受け取って、ただ頭の理解で信頼すべきだと知り、神さまは 信頼に値する御方であるとわかる以上に、私たちの心にどれくらいはっきりと、「信 頼せよ」というこの勧告が響いているでしょうか。
問題、悩み、課題、悲しみを抱え た私を丸ごと抱きしめておられる、神さまの直接の語りかけとして、近くに聞こえて いるでしょうか。
そして、その御声に幼子のように素直にうなずき、お応えして、御 腕にゆだね寄りかかっている者でしょうか。

〔2〕信頼する者の祝福
このように信頼する者が与えられる祝福が約束されています。
12節…その祝福の理 由は、神さまがその民を御心に留めておられるからです。
13節…「小さな者も、大 いなる者も」とあります。すべての者を位や状態に関係なく、主は御自身に信頼する 民を助け、守り、恵んで下さるのです。
14節の「主が…ふやしてくださる」という 祝福は、捕囚から帰還して生きるために必死に闘っていたような小さな群れにとっ て、必要な大きな励ましだったでしょう。
15節…そして、神さまは「天と地を造ら れた主」であるという宣言は、主が、御自分が約束されたことを豊かに成し得てくだ さる御方であることを保証している言葉です。
私たちも、主に信頼しこの祝福のお約 束に縋り、力を得て進ませていただきましょう。

〔3〕信頼する者の特権
この詩篇も神さまへの賛美で締めくくられています。
18節…この最後の節の賛美を 味わい、二つの特権について教えられました。
一つは主に信頼する心の在り方をもっ て生きるなら、そのすべての経験、問題課題は恵みに変わり、賛美が生まれ、私たち は歌う者とされるという特権です。
もう一つは、どんなときにも主に信頼する者は 「主をほめたたえよう」という現在的な信仰の決意をもって進むことができるよう強められるという特権です。
この「しかし」は、前の節の「沈黙に下る者は主をほめた たえることがない」を受けての「しかし、私たちは」ですが、どのような中にあって も、「しかし、私たちは…主をほめたたえよう」と言い、実際に歌いながら歩むこと ができるのが、主に信頼する者であることをも表していると感じます。

主に信頼する者であらせていただきましょう。

2015年4月26日

「ほめたたえよ」    詩篇113篇(A.K)


113篇から118篇は、過越しの祭り、仮庵の祭り、五旬節、などの祭りの期間 に、会堂で用いられる特別な詩篇でした。詩篇113篇には、短く単純な言葉の中 に、素晴らしい神さまのお姿が描き出されています。私たちがほめたたえる神さまに ついて知らせていただきましょう。

〔1〕主の御名
「主の御名」をほめたたえるということが、1〜3節の各節に繰り返されています。
古代では特に、名前というものはその人の人格そのものを示すととらえられていたそ うです。
神さまは、御自身の名を明らかにされるため、民に啓示されました。(→出 エジプト記3:13〜14,6:2〜3)
「今よりとこしえまで」また、「日の上る所から沈む所まで」、「主の御名をほめた たえる」ことは、いつも、世界中のどこででも神さまご自身をほめたたえることです。
私たちは、このような、広やかな賛美を心と唇に持っている者なのです。

〔2〕偉大な方
そして、私たちが主をほめたたえる理由が記されています。
それは神さまの偉大さです。
4〜5節…主はあらゆるものを超えて、高い所におられる方です。
けれどもすば らしいことは、6節にあるように、このような偉大な御方が、「身を低くして」私た ちに関心を寄せてくださることです。

〔3〕あわれみ
さらに作者は、神さまのあわれみを示しています。
6節の「身を低くして」という表 現から、ピリピ人への手紙の御言葉を思い起こしました。(→ピリピ2:6〜8)
主 は、罪深い私たちのほうへ身をかがめ、そのむごたらしい十字架にまで降りてくださ いました。
ヘブル2:17には、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなけ ればなりませんでした。」とも書かれています。
そして7〜8節のように、このキリストの御業によって私たちは、救い出され、引き上げられたのです。
7節の「貧しい人」は「必要に迫られている人」、「あくた」は「全くの堕落の中」という意味です。
私たちの本当の必要を知ってくださり、絶望の淵から救い上げてくださった御方 を心からほめたたえましょう。

作者は、再び「ハレルヤ」と、この詩篇を閉じています。
私たちも常に、喜びをもっ て主を仰ぎ感謝して賛美を続けさせていただきましょう。

2015年4月19日

「悪い知らせを恐れず」  詩篇112篇(A.K)


この詩篇は111篇と一対といわれている知恵の詩篇です。
111篇では、主が信頼 に値する御方であることが歌われ、112篇では、その御方を畏れる者が信頼に値す ると語られています。
きょうは特に7・8節に目をとめさせてただきたいと思いま す。

〔1〕心を恐れさせる事
携帯電話が普及する前のこと、ある集まりで多くの聴衆に向かって語っていた人が、 「みなさん、もし今、係員がこの部屋に入ってきてあなたの名を大きな声で呼び、 『○○さん、お電話がかかっています。』と言ったら、あなたはその電話の内容を、 良い知らせだと思いますか。
それとも悪い知らせだと予感しますか。」と問いかけ、 続いてこう話したそうです。
「大多数の人は、悪い知らせではないか…と感じるで しょう。この現象は、一般的に人は悪い知らせを漠然と恐れているという一例です。」と。
聖書は、クリスチャンになったなら一切、「悪い知らせ」を受ける事はない、とは語っていません。
私たちの心を恐れさせ得る出来事、「悪い知らせ」は事実 あるのです。

〔2〕揺るがされない人
しかしそのような知らせがもたらされたとき、人によって違う対応をすることが示さ れています。
それを聞いて恐れるか、それとも恐れないか、様々な反応の仕方がある のですが、作者は、「悪い知らせ」に揺るがされない人がいることを語っています。
さて、この詩篇には、神さまを知っている者の特権と幸いが綴られています。
1節で 「幸いなことよ。主をおそれ、その仰せを大いに喜ぶ人」と呼ばれているその人の内 面と心の在り方について、この短い詩の中に、多くの表現をもって表されていますの で、拾い上げてみてみましょう。
2,3節で「直ぐな人」、4節で「情け深く、人に は貸し、自分のことを公正に取り行なう」、6節で「正しい者」、7節で「主に信 頼」、8節で「心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしない」、9節で 「惜しみなく分け与え」ると言われています。

〔3〕主に信頼するから
そして7,8節に注目すると、このような人が、「悪い知らせ」に直面しつつも、 「恐れず」また「心は揺るがない」理由が、「主に信頼して」という一言で表されて いるのです。
そこには、2つのことが意味されているでしょう。まず、すべてを支配 しておられる神さまが、いつも変わらずにその人の「主」であられるということ、そ してもう一つは、その御方に彼が「信頼している」ことです。
主がおられるとわかっ ているのと、主に信頼を寄せるのとは全く違います。「悪い知らせ」といわなければならないような出来事や事態に置かれることこそは、私たちの信仰の試金石であり、 信仰を活かして働かせる機会として主が与えてくださった時なのではないでしょう か。
そして、「恐れず」また、「心は揺るがない」という事実は、実は解決の第一段 階、真の解決と勝利のための、不可欠な準備であると思います。
つまり「主に信頼す る」ということは、まず、そのような主がおられることに目を上げ、その御方に問題 を持っていくことで、具体的にそれは、心からの注ぎ出した祈りを開始することです。

私たちも、恐れず心揺るがされず、主に信頼して、主のお応えと解決を待つ幸いな者 とならせていただきましょう。

2015年4月12日

「知恵の初め」  詩篇111篇(A.K)


この詩篇は112篇と一対であるといわれている知恵の詩篇で、序文的部分とみられています。
神さまをほめたたえ、主が信頼に値する御方であることが歌われています。

〔1〕正しい知識
まず、主への感謝で始まっています。…1,2節
この「尋ね求められる」という語 は、英語では、「学ばれる」という言葉が使われています。
主のみわざが、それを喜 ぶ人々に「学ばれている」と訳されているのです。3〜6節…
作者は、出エジプトの みわざ、荒野の旅を主が守ってくださったこと、相続地を与えてくださったことを思 い返しているのでしょう。
主の御業を見つめ、深く知り覚えることは、すばらしいと 語られています。
今の時代、神さまについてではなく、人の心や体、そこに潜む意識 や表わされた行動などについて、分析・追究することばかりが好まれているように思 います。
それらは、苦しむどなたかに寄り添い支えたり、愛する人を理解する助けと なって改善へと導く手段となることは大いにあると思いますが、人間を調べるという 一面だけに傾くなら、そこに本当の解決はなく、やがて限界や虚しさに至るでしょう。
今こそ私たちは、神さまについての正しい知識を求めることが重要だと感じます。
なぜなら、主を尋ね求め、主ご自身を知る知識を与えられ、この御方に信頼を寄 せることができたら、感謝と賛美、喜びが湧き起こると、聖書に約束、また証しされ ているからです。

〔2〕信仰の実践
御手のわざを思い、作者は、そこに主のあらゆるご性質を学びとって列挙しています。7〜9節…
「真実、公正、確かさ」、それらの「無限の保有・継続、まことと正 しさ」、「契約の永遠の確かさ、御名の聖さ」を彼は歌っています。
そして彼は語り ます。10節…この「明察」とは原語では「理解、判断、行動」という意味を有する そうです。
正しく物事を把握し、正確に知り、その理解を踏まえた上で、鋭い洞察と 判断をもってすべてを見通し、慎重に、しかし大胆に信仰の実践をすることができる 「明察」を、どのようにして得るのかが、 この節には明確に示されています。
主を畏れ、主の御前に真剣に求めるなら神さまが 与えて下さるのです。
「これを行なう人はみな」と記されていることは、私たちに とって大きな希望です。

神さまのみわざを覚え、主の御前に聖なるおそれをもって、御声に耳を傾け、一歩一 歩従い続ける者とならせていただきましょう。

2015年3月22日

「揺るぎない信頼」  詩篇108篇(A.K)


108篇は、57篇・61篇の二つの詩篇の後半が合わさったものになっています。
この構成によって改めて、ダビデの親しい主との交わりを知ることができます。
ダビ デはまず、「私の心はゆるぎません」といって、神さまをほめたたえています。(1 〜3節)
きょうは、このダビデの揺るぎない信頼を支えていたことについて知らせて いただきましょう。

〔1〕愛されていると自覚して
6節でダビデは、自分のことを「あなたの愛する者」と言っています。
神さまに無条 件で愛されていることを、ダビデは屈託なく信じることができていたのです。
使徒ヨ ハネも、福音書の中で、自らを「イエスの愛されたあの弟子(ヨハネ21:7)」と 言っています。
福音書でも手紙の中でも、主の愛を語り伝えた彼は「愛の使徒」と呼 ばれています。
私たちは主の愛の深さを知り、その御愛がいつの日も、この小さい私 に向けられているという自信を持っている者でしょうか。
試練や苦悩の中に置かれた ときこそ、「あなたの愛する者」を「救ってください」と、そこでも神さまのご愛が 変わらないことに信頼を置いて祈らせていただきましょぅ。

〔2〕主の恵みと真実を歌って
4節…ダビデの信頼を支えていたものが、主の「恵みとまこと」を思い、歌うことに あったとわかります。
神さまが「恵みとまこと」に満ちておられる方であるとの理解 が、私たちの信仰の中核にあるなら、私たちはいつでも信頼を失わずに進むことがで きるのです。

〔3〕御力による勝利を信じて
また、ダビデの信頼を支えていたものは、「御力による勝利を信じる」ことだと知ら されます。
神さまに祈ったとき、7節で、「神は聖所から告げられた」とダビデは 言っています。
ここから9節に出てくるシェケム、ギルアデ、マナセ、エフライム、 ユダは、イスラエルの地名です。
それらはすべて「わたしの」ものだと主が仰せに なったのを彼は聞きました。
さらに神さまはダビデに、敵(モアブ、エドム、ペリシ テ)に対する勝利のお約束も聞かせてくださいました。
それでダビデは、さらに神さ まが戦ってくださることを堅く信じ、祈りました。
10〜12節…彼は、人の手によ る救いの虚しさを訴え、神さま御自身の助けを切望しています。
ダビデはただ神さま への信頼によってゴリヤテを倒した(Tサムエル17:47)、あの少年の日から、 「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(Uサムエル8:14)とあ るように、神さまによる勝利を重ねてきました。
それら実際の戦いの勝利を通して、 彼は、神さまの御力と信仰の勝利を経験したのです。
そのことが13節に表されてい ます。これはダビデの頭の理解や悟りの言葉ではなく、信仰の原理です。
私たちもすべてのことの先頭に、神さまを置かせていただき、自分の力でなく神さまの力で戦 い、主の勝利を体験する者とならせていただきましょう。
申命記31:8「 主ご自身があなたの先に進まれる。
主があなたとともにおられる。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいては ならない。」

私たちを愛してくださる神さまへの深い信頼を歌いつつあらわし、主の恵みと御真実 を見つめ、勝利の確信をもって進ませていただきましょう。

2015年3月15日

「心に留め、恵みを悟りなさい」  詩篇107篇(A.K)


この篇の内容は、神さまの救いを経験した者の感謝です。
人生のあらゆる局面で、私 たちを苦悩から解放してくださる、神さまの恵みが讃えられています。
43節の勧告 に注目し、主の御業を「心に留め」、その中で教えられた恵みを「悟る」ことについ て学びましょう。

〔1〕絶望
まず、4〜5節には、「荒野での飢え渇き」と苦しみが記されています。
次の段落1 0〜12節には、「鉄のかせ」の苦悩、17〜19節には、「死の門に近づく」人々 の苦しみの姿があります。
続いて23〜27節には「嵐の海での遭難」について書か れています。
どの苦難にも、恐怖と成すすべのない絶望が表わされています。
そし て、その中で12節や25節に見出されるように、試練にも主の御心があることを作 者は理解しています。

〔2〕祈り
このよう苦しみの中で、人々がしたことが繰り返し書かれています。
それは、6,1 3,19,28節にある、「この苦しみのときに…主に向かって叫ぶ」という祈りで した。
それらは切迫した真剣な、そして神さまだけにしか、すがることができないとわかった者の悔恨と信頼の叫びでした。
まさに、祈ること以外に、もう何も残されて いない状況での叫びです。
本来、人間は霊的に造られています。
祈ることが自然で喜 びであるはずなのに、それを忘れてしまうほど、人は傲慢で自分の力を過信してしま う者でしょう。
その高慢を打ち砕くために、神さまはしばしば、困難な状況をおゆる しになり、私たちが、「この苦しみのときに、主に向かって叫ぶ」ようにされるのです。

〔3〕救い
「彼らが主に向かって叫ぶと」という4回の記述に続いて、4回とも、「主は彼らを 苦悩から救い出された(救われた)」と、救出の記録があります。
そしてその救いは、 導きと続く歩みへと繋げられていることがわかります。
7節には「彼らをまっすぐな 道に導き」、14節「連れ出し」、20節「穴から助け出し」、30節「望む港に導 かれた」とあるからです。
滅び、破滅から免れたというだけでなく、みこころの最善 のコースに導かれ、至らせてくださる方の導きの手があることが読み取れます。

〔4〕感謝
他にも4回繰り返されていることがあります。
それは「感謝せよ」ということです。
8,15,21,31節…これらに命じられている感謝すべきことは、神さまご自身 の「恵み」と「奇しいわざ」に関してです。
恵み深く、憐れみに富む御方が、私たち の主であることを覚え、心から感謝しましょう。
またすべてのことに、神さまの奇し いわざを知り、その充分なご干渉を数える者でありたいと思います。
それは、43節 で命じられている「心に留め、主の恵みを悟る」ことに繋がるでしょう。
神さま御業を深く思い巡らし、記憶に留めること、そして、それをただ並べて挙げるだけではな く、それらが、私の体験となり、神さまの事実であると深い感謝をもって悟ることだ と、作者は歌い上げているのです。

2015年3月8日

 「それでも主は」  詩篇106篇(A.K)


二種類の「しかし」と「それでも」という接続詞に目を留めつつ学びましょう。

〔1〕神さまの「しかし」
まず、8節には、神さまの「しかし」があります。
イスラエルの民の不平不満は、エ ジプトから脱出したすぐあとから始まりました。
彼らが紅海のほとりに至ると、エジ プトの追手が押し寄せてきました。
その時、彼らはモーセに、「エジプトには墓がな いので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか…」(出エジ プト14:11〜12)と言いました。
彼らはエジプトでの苦役、そこから救い出し てくださった主のみこころ、それまでの経緯などを顧み、心に留めることができず に、目先の状況だけを見てモーセに楯突き、不遜にも神さまに対して不満を爆発させ たのです。
しかしそのような愚かで不真実な人の行ないを覆ってくださる、神さまの 「しかし」があります。
そして、それは「ご自分の力を知らせる」ためであったと記 されています。

〔2〕背く者の「しかし」
一方、13節には、その神さまの恩寵をないがしろにする、人の「しかし」が出てき ます。
ここに「忘れた」とあり、21節にも「忘れた」が出てきます。
私たち人間 が、どれほど恵みを悟るのに遅く、忘れるのに早い者であるかを思い知らされる言葉です。
イスラエルの民は、荒野の旅で叫びました。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す…」(民数11:4〜5)と。
彼らは子どものように、また衝動的に、自分たちの欲望を噴出させました。
また21節の時の問 題は、偶像礼拝でした。民は金の子牛を造り、真の神さまと置き換えるような愚かな 罪に走りました。
神さまの栄光を、目に見える像に変えられるはずもないのに、神さ まのご臨在を感じられなくなった彼らは、主を忘れ、目に見えるものにすがったのでした。

〔3〕「それでも」の赦し
民の反逆の歴史を切々と綴る中で、作者は、「それでも」という言葉を用いて、神さ まの憐れみ深さについてまとめ上げています。
主が数々の士師をイスラエルの中に起 こされた時代、民は苦しいと主に叫び、救いがもたらされて平穏を取り戻すとまた罪 に陥りました。
それで神さまが彼らを敵のなすがままにされると、また苦しんで主に 叫ぶ…というように、上がったり落ちたりのような状態を繰り返していました。
44 節…しかし、何度も主に逆らい、失敗する民に対して、「それでも」主は「彼らの叫 びを聞かれ」、「苦しみに目を留められ」ました。
ご自身のご契約のゆえに、またそ の豊かな恵みによって憐れみを注いでくださるというのです。
同じ失敗を繰り返すと、自分でさえも自分を見放したくなることがあるでしょう。
しかし神さまは、その ような私たちに、「それでも」とおっしゃる御方です。弱く苦しむ私たちに御目を留 め、近づいてもう一度…と励ましてくださる、見放すことのない愛をもっていてくだ さる主を覚えましょう。
この方の憐れみ深さによって、私たちはきょうも生きてゆけ るのです。
「けれども」と言ってくださる赦し、主の圧倒的な恵みに、真実をもって お応えする者とならせていただきましょう。

2015年3月1日

 「御業を思い起こしなさい」  詩篇105(A.K)


この詩篇は、ダビデ王が様々な失敗や苦労を越えて、御臨在の象徴である契約の箱を 都に運び入れたときの感謝の歌であることがわかります。
(内容がT歴代誌16:8 〜22とほぼ同じであることから。) 
きょうは、5節に命じられている。「御業を 思い起こす」ということを学びましょう。
この「思い起こせ」とは、注意して、意図 的にしっかりと、詳細に思い出しなさいということです。
そしてそれは、すべてのこ との中に神さまの主権を見出し、御手が置かれ、動かされていたことを認め、その恵 みを私たちの現在の力とさせていただくという信仰の営みです。

〔1〕出エジプトの御業
ダビデがこれを歌った時、彼が「御業」として顧みたことの中心は、彼の時代から 400年以上も前の、出エジプトの出来事です。
彼は、それを最近、自分の身に起きた 出来事のように思い出して、自分が今、置かれていることへの応え、課題と取り組む 力として受けています。
ダビデが顧みているのは――数が少なく流浪の時代があった こと(12〜13節)。
エジプトに売られたヨセフ(17,21節)。エジプトで圧迫されていたイスラエルがモーセとアロンによって救出されたこと(25,26節)。
十の災い(28-36 節)。出エジプトのときに与えられた金銀(37節)。
神さまが民を火の柱・雲の柱で守 られたこと(39節)。
食物と水の供給(40,41節)。約束の地カナン(44節)。――でし た。
ダビデは、苦境から救い出してくださった神さま、その御業が、人の思いを越 えた奇しいものであった事を思い起こしているのです。

〔2〕約束の成就の御業
出エジプトの御業は、「贖いの御業」です。
神さまは、イスラエルの民を救い出し て、約束の地へと導いてくださいました。
42節に「アブラハムへの聖なることば を、覚えておられたからである」とある通りです。
最後の節には、神さまがここまで 主の民を祝し導かれた理由と目的が記されています。
それは、「主のおきてを守り、 教えを守るため」です。
これは、イスラエル民族に限定して語られている言葉ではあ りません。
イエスさまも弟子たちにおっしゃいました。(ヨハネ15:10)
贖い のお約束の成就、主の御業によって、私たちは「みおしえを守る」者とされたのです。

〔3〕主の十字架の御業
現在、私たちが「思い起こすべき御業」とは何でしょう。
それは主の十字架、私のた めになされた、キリストの贖いの御業です。
歴史上の時間で表すなら、それは、2千 年も前の出来事ですが、主の十字架の御業を現在的に、自分ものとして思い起こす時 に、私たちは贖いの恵みに潤されます。
聖餐式に与るときだけでなく、日々に主の十 字架を思い見て、今の自分の心に置き、感謝をささげ、豊かな力を得て進ませていた だきましょう。

2015年2月22日

 「主を喜ぶことは」  詩篇104篇(A.K)


主をほめ歌う作者の願いと祈りが込められている34節から、主を喜ぶということに ついて知らせていただきましょう。

〔1〕神さまを思うこと
私たちの喜び、それはまず、「神さまを思うこと」だとわかります。
文語では、神さ まを思う「わが思いは楽しみ深からん」となっています。
作者の創造主を讃える賛美 は、個人から始まり、大自然、世界、そして天体にまでも広がっています。
私たちの 神さまがどれほど偉大な御方か、豊かな恵みを思い続け、自分がその御支配のもと、 御手の中にあると覚えることは、私たちの霊的な楽しみを深くすると示されているのです。

〔2〕御心にかなうこと
また、作者は自分の心の思いが、みこころにかなうように、と願いつつ、「私自身 は、主を喜びます」と言っています。
私たち人は、自分が愛するものを喜びます。
言 い換えると、私たちが、自分が喜びと感じることを見つめていく時、わかってくるの は自分自身が何を大切に思い、何を愛しているかです。
そのように自分の心を直視し たとき、そこに「主を喜ぶ」ことと一致しない、自己中心的な考えや願望が見出され たら、それを御前に持ち出し、「みこころにかないますように」と、明け渡す祈りの 営みをさせていただきましょう。
みことばの光のもとで、聖霊に探り、調べていただ き、神さまの「みこころ」を知り、そのように造り変えられていくことへの切願を持 ち続け、この調整を繰り返しながら成長させていただく歩みこそ、私たちが主を喜ぶ ということです。

主が造られたすばらしい創造物を見て主をほめたたえ、主を思い、きょうも私が「み こころにかないますように」と願い祈りつつ進ませていただきましょう。

2015年2月15日

 「わがたましいよ」  詩篇103篇(A.K)


〔1〕主をほめたたえよ
ダビデはまず1,2節で「わがたましいよ」と自分に呼びかけています。
3〜5節で は「あなた」という二人称が使われていますが、これも、ダビデが自分に語っている言葉と見ることができます。彼はこの詩篇の中でずっと、「主をほめたたえよ」と語 り続けています。
1節では「わがうちにあるすべてのものよ」と、自分の心のすべてをもって讃美する、そうしていきたいという彼の思いが綴られているのです。

〔2〕恵みを数え覚えよ
また彼は、恵みを顧み覚えるように、と語っています。
彼が数えた「主の良くしてく ださったこと」は、3〜5節に記されています。まず「赦し」です。
彼は32篇で 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。
主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」と歌っています。
次に「いや し」です。これは肉体的と霊的な癒しの意味があります。
主がご自分の身に傷を受け られたので、私たちは癒されたという預言がイザヤ書53章にあります。
加えてその癒しは、私たちが罪から離れ、義のために生きるようになる事だとTペテロ2:24 に記されています。
ダビデは「贖い」の恵みも数えています。また「穴から贖い」と あります。
この「穴」は、「滅び」とも訳すことができます。旧約聖書で「穴」は、 しばしば死者が行く陰府と同じ意味で用いられます。
神さまが私たちを永遠の滅びか ら救い出し、ご自分のものとしてくださったこと、危険や滅びからの救いが、「穴か ら」という言い方で示されているのです。
次は「恵みとあわれみとのかんむり」です。
憐れみによって、私たちは受けなければいけない神さまの裁きを免れるのです。
その祝福が、受けるに値しない私たちにもたらされることが恵みです。
エペソ1章に は、私たちが恵みを受けることによって、神さまの栄光がほめたたえられる、とあり ます。私たちは、神さまにとってご自身の恵みの冠なのです。
5つ目は、「一生を良 いもので満たされる」です。主は、私たちに満ち足りた心を与えてくださいます。そ れは私たちが、すべての願望と必要を主から満たされ続けるからです。
それから、 「若さが新しくされる」と語られています。
ダビデは年を重ねた弱さを自覚していた のでしょう。
しかし、彼は「若さが…新しくなる」事を神さまに期待し、それがなさ れたと感謝しています。
彼はそれを「鷲のように」と表現しています。聖書には、鷲 が色々なたとえで出てきます。
パレスチナ地方で勇壮な生き物の代表と思われていたようです。
鷲は強さ、大きさ、長寿、美しさ、巣を作る岩場や飛翔距離が高いこと、 獲物に対する目の鋭さや襲い掛かる時の素早さなどがすぐれています。
また、羽根が 毎年抜け変わるということが、特に「更新」というイメージに合うので、「鷲のよう に新しくなる」という言葉を用いたのでしょう。

〔3〕全能者をおそれよ
ダビデがすでにこの祝福を受け取っている秘訣は、17節にあると思います。
「主の恵み」は全能の神さまの中にあるのです。
関連した聖句はイザヤ40章にもあります が、そこでイザヤは「主を待ち望む者は」と語っています。
神さまは、私たちの人生 の細やかな点に至るまでご存知で、弱さ、悩み、課題を抱える私たちに寄り添ってくださるお方です。
そして、ご自身が力強いお方であるだけでなく、その力を私たちに 分け与えてくださるのです。
「主をおそれる者」、「主を待ち望む者」とは、弱さを 自覚し、告白し、主だけに依り頼む者です。
この力の更新は一時的に元気を回復する ことではなく、主に繋がって、その御力をいただくことです。

ダビデが自分のたましいに呼びかけた信仰を、私たちのものとさせていただきましょ う。

2015年2月8日

 「窮地からの脱出」  詩篇102篇(A.K)

作者の祈りと体験に、学ばせていただきましょう。

〔1〕嘆きを言い表して
彼はまず、自分の嘆きを神さまに告げるため、神さまを懸命に呼び、速やかなお応え を願っています。(1〜2節)
彼は苦しみと悩みがあり(2節)、うちしおれ(4節)、 敵のあざけりとそしりを浴びていました。(8節)
彼が必死に言葉にした苦境が様々 な表現で描かれ、苦しい現実とともに、彼が神さまの前に全く無防備になって自分を 投げ出している様子が読み取れます。
これは、神さまが受け止めてくださる方であることを信じきっている者だけができる祈りです。
私たちも彼のように、「私の叫び が、あなたに届きますように」、「御顔を隠さないでください」、「耳を傾けてくだ さい」、「呼ぶときに答えてください」と叫びながら、今の自分を御前に持ってゆき、注ぎ出した祈りをささげる者となりたいです。

〔2〕御座に目を上げて
苦悩の中にあるとき、ともすると私たちの意識は自分に集中してしまいます。
作者も、「私」、「私」と繰り返していますが、彼は、11節までの、暗く湿っているよ うな苦境の訴えにピリオドをうっています。
そして12節の「しかし、主よ」という言葉で、彼は祈りの中で立ち上がり、窮地から脱出したと言えると思います。
それは 置かれていた現状が好転したからではなく、彼が問題や自分から目を離して、御座に ついておられる方に意識と信仰の目を向けたからです。
サムエル記のハンナの祈りを 思い出します。2節「早く答えてください」と祈り始めた彼ですが、祈りの応えが現 実に目に見える前に、応えてくださる御方ご自身を見上げることができました。
そし て彼は、自分の祈りが聞き入れられていることを確信したのです。

〔3〕約束を信じ委ねて
作者は主に目を上げたあと、「窮した者」である自分の祈りを顧みてくださる主の御 約束を語っています。
しおれていた心が、祈りによって確信に満たされ、神さまのお 約束を本気でとらえることができるようになったのです。
「祈りをないがしろにされ ない」主を信じることができた彼は、とこしえに変わらない神さまに信頼し、その御 方に委ね、窮地で苦しみ続けていることから脱出することができました。

私たちも彼の祈りにならい、このような脱出を経験する者となりましょう。

2015年2月1日

 「聖さを求めて」  詩篇101篇(A.K)

101篇から、聖さを求めて生きるダビデの願いと教えを学ばせていただきましょう。

〔1〕全き道に心を留める
1節でダビデはまず神さまの「恵みとさばき」を覚え、主のあわれみを実感して賛美 しています。
そして、聖く生きたいという願いをもって、「全き道に目を留めます」 と語っています。(2節)
この「全き」とは、神さまのご品性を表すときにも用いら れる言葉で、「責められるところがない」「傷のない」という意味です。
ですから、人が神さまに似る可能性を表しているのです。
ダビデは、そのために自分が心してい ることについて、「私は正しい心で、自分の家の中を歩みます」と述べています。
彼は自分の家において、主のように正しい者でありたいと強く願っていました。
彼 は罪を犯した経験を持っていました。
バテ・シェバとの姦淫、彼女の夫ウリヤを殺し た罪は、まさに彼が「自分の家」、自分の国で犯したことでした。
その事実は、彼の 心から離れなかったはずですから、彼は、自分の力では「全き道」を「正しい心で」 歩くことができないと自覚していたでしょう。
しかし同時に、悔いた心をもって主の 前に出、神さまの「恵みとさばき」を体験していたので、このような願いを宣言する ことができたのです。
私たちも、主にあって、ダビデのような願いと決意を明らかにしつつ進みましょう。

〔2〕卑しい事を遠ざける
ダビデはさらに生活の中での聖さを求め、自分の在り方の決意を語ります。
3〜5節 …彼はまず、「私の目の前に卑しいことを置きません」と言っています。
「卑しい」 とは「無価値」という意味です。
また彼は、「曲がったわざを憎み」、悪を退けて行 こうと心に定めています。
彼は、詩篇16:8で「私は私の前に主を置いた。主が私 の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と言っています。
私たちを「全き 道」からそらせるような無価値なこと、自分の目につまずきとなるようなものを目の前に置かず、主とみこころだけを見つめましょう。

〔3〕真実な者に目を注ぐ
ダビデは7,8節で、「欺く者」「偽りを語る者」「悪者」に対して、王としての力と権威を向けることを語っていますが、6節にあるように、自分の目が、「真実な人 たちに注がれ」ると言っています。
自分自身の心の願いと同じく、聖きを愛する人た ちを見きわめ、彼らに配慮して治める、穏やかな王の姿が読み取れます。
ピリピ4: 8のお言葉が心に通います。
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべて の正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこ と、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

聖きを求め、全き道を生きる願いと決意をもって、見るべき御方、心に留めるべきこ とを見つめながら前進しましょう。

2015年1月25日

 「主を愛する者は」  詩篇97篇(A.K)

この詩篇から、主を愛するということについて学ばせていただきましょう。

私たちが愛する御方は、王なる主です。(1節) そして、前半に記されているよう に、世界を裁く方、栄光に満ちた「すぐれて高い方」(9節)です。まずこれらの大い なる主の姿が語られたあと、小さい者へと視点が移されてゆきます。10節で照らし 出されているのは、「主を愛する者たち」です。そして、「主を愛する」とはどうい うことかを示しつつ勧告して締め括られています。私たちは「主を愛する者」とし て、どのように生きるべきでしょうか。

〔1〕悪を憎む
第一に、「悪を憎め」と命じられています。
イエスさまが、この世にお生まれくださったご目的は、「私たちを…罪から救ってく ださる」(マタイ1:21)ためでした。
また、十字架で死なれた目的も「私たちが罪 を離れ、義のために生きるため」(Tペテロ2:24)でした。「主を愛する」とは、 まず、神さまの憎みなさる悪を、私たちも心から憎み、忌み嫌うことでしょう。
そしてそれは、主と交わり、主のご性質に与ることによって持ち得る姿勢です。
「悪を憎め」という命令が、信仰者に対する呼びかけであることを覚えつつ、悪を憎み、退け続けることができる力を主に祈り求めましょう。

〔2〕光と喜びを知る
11節から、さらに「主を愛する者」の在り方が読み取れます。
神さまは、私たちのために、「光」と「喜び」を「種」のように蒔いていてくださいます。
私たちは、あらゆることの中にそれらを見つけ、受け取らせていただくのです。
「種」にはいのちの輝きがあります。
そしてやがて芽を出し、成長し、実を結びます。
そして私たちはその結実を刈り取ることができるのです。
「光」は、聖さと関 わりがあります。
いつも聖い御方を意識し、「光」に従って、主を畏れかしこむ生活 したいと思います。
この詩篇の最初と最後に、「喜べ」と命じられています。(1, 12節)
「喜び」が、主を愛する者に与えられた賜物、力、特権であるので、私たち はこの命令に応えさせていただくことができるのです。
そして、このような「喜び」 は、私たちが「主を愛する者」であるというしるしとなるでしょう。
主が蒔いてくだ さった「光」と「喜び」を、自分のものとして体験し、生きる者とならせていただき ましょう。

2015年1月18日

 「確かに主は来られる」  詩篇96篇(A.K)

「確かな主の来臨と統治」を見つめつつ綴られているこの詩篇で命じられていること を学びましょう。

〔1〕主に歌え
1,2節に、確かに来られる神さまを待ち望む者に、まず、「歌え」という命令があ ります。
それは「新しい歌」と言われています。私たちの心と生涯を変えてくださっ た主を喜び讃える歌です。
40篇でダビデは、「主は、私の口に、新しい歌、われら の神への賛美を授けられた」と述べています。
「新しい歌」を歌える者ではなかった 私たちの口に、賛美を授けて下さった神さまのご愛と憐れみを感謝しつつ、ほめ歌を 歌い続けましょう。

〔2〕御救いを告げよ
2節の終わりから3節には、「御救いを告げよ」と命じられています。
神さまがどのようにして私たちを救ってくださったかを人々に語ることが勧められているのです。
救われた私たちは皆、私たちのいるところから福音を発信し、伝える使命をいただい ているのです。
私たちの主は大いなる方です。
そして、主は創造者、その御座に着い ておられる御方です。
このように、永遠の領域をご自分のものとして統べ治めておら れる恵みを、告げ知らせましょう。

〔3〕主にささげよ
7〜9節には「ささげよ」と繰り返し、神さまに御名の栄光をおささげすることが命 じられています。
それは、確かに主が来られ、世界をその義によって裁かれるからで す。(13節)
パウロは、常に議論にふけっていたアテネの人々に、「神は、お立てに なったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられる…そ して、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべて の人にお与えになったのです。」(使徒17:31)と語りました。
生きておられる 主の力と権能の前にひれ伏し、献身をもって、主を拝する者であらせていただきま しょう。

2015年1月11日

 「讃美をもって御前に」   詩篇95篇(A.K)

「礼拝」と訳されているへブル語は、「身をかがめる、ひれ伏して拝む」という意味 です。聖日だけではなく、私たちの日常生活も礼拝の態度で貫くことを望みながら、 礼拝について読み取らせていただきましょう。

〔1〕礼拝するべき方を認識して
私たちが、御前にひれ伏し拝する主はどのような御方でしょうか。
1節に「主」と書 かれています。これは、「契約を守られる方」ということです。
また「私たちの救い の岩」とあります。
堅固な信頼すべき御方が「私たち」の神さまであることを認識して、礼拝をおささげしましょう。
3節には「大いなる神」、「大いなる王」とあります。
永遠の力なる方、支配者である王がここに示されています。
また、4〜6節に書 かれている主は創造者なる御方です。
私たちは造られた者として礼拝をするのです。
7節には「牧者」としての神さまが表わされています。
群を知り、護り、導き、羊の ために命を捨ててくださる御方です。
各々にとって神さまはどのような御方でしょ う。
この大いなる方を認識させていただきましょう。
主を認めることは、私たちを愛 し私たちのために最大の代価さえ惜しみなく払ってくださった神さまのご愛に応答 し、純粋な愛をささげる礼拝に繋がるからです。

〔2〕自分自身のすがたを認めて
礼拝とはまた、私たちが自分自身の本当の姿を認めることでもあります。
生ける神さ まの前に立たせていただくとき、私たちは自分がどれほど小さく、弱く、愚かである かを知らされます。
しかしそのような無価値な自分が、ただ恵みと憐れみによって、 神さまと父と子の関係に入らせていただいていることを、礼拝によって確認し感謝さ せていただくのです。
7〜11節には出エジプトの民の不服従の悲劇と、私たちが御前にひれ伏すとき、み ことばを聞くこと、そして、そのおことばに信頼をもって服従すべきことが語られています。
礼拝は服従に直結するものだと教えられていることを知らされます。
私たち にとって、みことばは、いつも心地よいとは限りません。
親や教師の叱咤・忠告のよ うに、心や耳に痛みを感じるように響くときもあります。しかし、その背後にある愛 が確かであることを覚えましょう。
私たちの父なる神さまのみこころは、すべての人 が救われて真理を悟ることですから、痛く聞こえるみことばにも、愛が込められてい るはずです。
そのように信じてみことばを受け取ることが「信仰」です。
このような 信仰の謙遜をもつ、礼拝者となりましょう。

〔3〕喜びと感謝の讃美をもって
どのように礼拝すべきかが、具体的に教えられています。
それは1,2節に「喜び叫 ぼう」と繰り返し勧められている、「感謝の歌」「讃美の歌」を歌うことです。
私た ち信仰者はこのように歌う理由と原動力を与えられているからです。
そして、その歌 は、順境のときだけでなく、獄中のパウロやシラスのように、失意と試練の中でさえも可能となる礼拝なのです。

2014年12月28日

 「宝の箱をあけて」   マタイ2章1節〜12節(A.K)

博士たちの姿から、私たちが御前に常にとらせていただきたい姿勢について学びま しょう。

〔1〕望みをもって求める心
博士たちは、学問・見聞など知識を駆使して、そこに自分たちの希望と期待を集中さ せ、都にやって来ました。
2節に表わされている希求の心が、彼らの前に道を開き、 彼らの足を強めたのでしょう。
王、宗教家、そして博士たちが同じ事実を知っていな がら、博士たちだけが主への礼拝に至ったのは、彼らが自分の主として幼子にお会い する事を切に願い求めたからです。
私たちが、忙しい日々の生活の中で祈りの時間を 持ちたいと願うとき、次々とさしはさまってくる事柄の中で、集会を守ることを勝ち 取りたいと祈るとき、肉体の疲れを感じながら1章でも1行でも聖書を読みたいと願 うとき、その心からの求めに応え、主は道を開いて下さるのです。
ヘロデの存在さえ も用いて、博士たちを救い主の御前へと進ませられた主は、マイナスと感じられるこ とをも、御自身とまみえる足がかりとしてくださる御方です。
博士たちの求めは曖昧 でなく、救い主誕生の確信に基づく焦点の合ったものでした。
私たちの生活は主を求 める心によって綴られているでしょうか。
応えられた喜びに溢れているでしょうか。

〔2〕理解を与えられた心
黄金は最も価値高い金属で、王である方へのささげもの、乳香は礼拝の儀式に用いら れていた偉大な祭司へのささげもの、そして没薬も価値高く、遺体の腐敗防止のため に使われたものでした。
博士たちは幼子を見ながら、救い主としてのイエスさまの死 を見ることができ、その葬りの備えとして没薬をささげたのです。
この三種類の贈り 物のどれも、小さい子どもの前に並べられるには一見、相応しくないものばかりです。
しかし、彼らはそれを携えて来ました。それは、イエスさまが何のために来られたか、すなわち、神であるのに人となり、すべての人を救うために死なれ、神と人と の仲介者となってくださるために来られたことを知っていたからです。
彼らは学識あ る人々だったと思われますが、頭の理解ではなく、主のご降誕を心で理解していたと言えます。
彼らは神さまから与えられた御子なる方を心で知り、喜んでこれらの宝を 主にささげたのです。

〔3〕主にすべてをささげる心 「ひれ伏して」という言葉は、彼らの献身の心を表わしています。
幼子の前に高い身 分の彼らがひれ伏したのです。
博士たちは愛と尊敬をもって、自らを神の前に投げ出す動作を喜びに満ちて行ないました。
私たちにとって、クリスマスの喜びは、何で しょう。
それは、主が私たちに与えて下さった愛です。
その愛を感謝して受け、主の 前にひれ伏す者でありたいです。
私たちの心という宝の箱を開けて、神さまの前に私 自身をすべてささげ、なお近づかせていただきましょう。
博士たちがささげた宝は、価値ある品々でしたが、主が喜びお受け下さったのは、主の前にひれ伏した彼らの心 そのものでした。
最良のささげものは高価な物や、価値あると思われる華やかな業で はなく、私自身と、小さな私の精一杯の主へ愛と感謝なのです。

2014年12月21日

 「私たちの幸い」   詩篇94篇(A.K)

〔1〕戒めと平安
詩篇には、何度も、「幸いな人」のことが記されています。
それらは、表面的な事柄 ではなく、神さまとの関係についての「幸い」です。
この詩篇にも、「なんと幸いな ことでしょう」という言葉があります。
12節…ここでは、「幸いな人」とは、神さ まに「戒められ」「教えられる」人だと示されています。
この節の前には、神さまを 認めず横柄に語り、信仰者を迫害する悪者の存在に苦悩する、作者の主への訴えと御自身による裁きを願う叫びが記されています。
しかし彼は、すべてをご覧になっている神さまについて語り、その中で幸いを知っていることを頷きつつ、こう語っている のです。
彼は、自分を見つめ、知っていてくださる神さまが、語りかけ、教え、戒め てくださることを実感しながら、この「幸い」を歌っています。
神さまを知らず、罪を自覚していない人は、自分自身が王様で、したいように行なうことや自分が思う通 りに物事が進むことが幸せだと思いますが、それは本当の幸いではありません。
神さまに自分のすべてを支配していただき、戒められ、正されていくことが幸せなのです。
神さまのおことばは、「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と書いてある通りです。
みことばと主の語りかけから、自分の間違いや足りなさを聖霊によって明らかしていただき、誤りのない確かな道へと導かれていくことを喜び望む心には、「平安」がもたらされると、ここに約束されています。
私たちがこのように従 い歩む時、キリストの平和が私の心の裁決者であってくださることに、安らぎと心地 よさを感じながら前進できるのです。

〔2〕支えと慰め
17〜19節…ここには、幸いな人が知る「支え」と「慰め」のことが記されています。
ハドソン・テイラーは、中国内地伝道団の創設者で、すばらしい働き人でした。
しか し、1900年に起きた残忍な義和団事件で、仲間の宣教師たちが何百人も殺害されると、精神的に大きな打撃を受け、健康を損なっていきました。
そして人生の終わり に近づいたとき、彼はこう言ったそうです。
「私は弱ってしまってもう働けません。 聖書を読むことも、祈ることさえもできません。ただ神の御腕に子どものように抱か れて横たわり、頼りきることしかできないのです」と。
哀しみや孤独、苦難のただ中 で私たちにできることは何でしょうか。
それは、ただ神さまの御腕の静かに抱かれる ということです。
そのとき18節にあるように、神さまのいつくしみが私たちを支えます。
そして続いて19節に書かれているように、主の慰めを受け、愛されている実感の中で、私たちの悲しみは喜びにかわるのです。
この週も、「幸いな」人として歩ませていただきましょう。

2014年12月14日

 「感謝するのは良い」     詩篇92篇(A.K)

安息日の礼拝のときに歌われたこの詩の最初のところに、「主に感謝するのは、良いことです」とあります。
きょうは、ここにまず「良い」と宣言されている「主に感謝 する」ということについて、思いを巡らしましょう。

〔1〕恵みを言い表すこと
それは、「恵みを言い表すこと」です。2節に「朝に恵みを言い表す」と記されています。
私たちは朝を迎えたとき、その日が自分にとって、家族にとって、周りの人々にとって、地域や社会にとって、どんな日となるのかを知りません。
これは安息日の うたですが、週の最初の朝に、そこから始まる7日間の歩みについて、予定や願いを 持っていても、実際にはその1週間に、自分がどのようなところに置かれ、何と取り 組み、どんなことと向き合うようになるかを知っているわけではありません。
しか し、そのような「朝」に、神さまの「恵みを言い表す」ことは良いことだと、みことばは語っています。
それは、何もわからなくても、あるいはどうしていいかわからな い時でも、ただ恵み深い神さまに信頼して、「恵みを言い表す」ことが私たちを立た せ、歩ませる確信となるということでしょう。
信仰者はこのように、神さまが恵み深 い御方であることを知っているから大丈夫…と恵みを先取りすることができるのです。

〔2〕真実を言い表すこと
続いて同じ2節に、「夜ごとにあなたの真実を言い表すこと」と記されています。
神 さまの恵みを信じて綴られていく日々、毎日迎える夜に、私たちはその日知らせていただいた神さまの御真実の体験を顧み、過ごしてきた事柄の中に、主のご真実を数え ることができます。
そして、それが「主に感謝する」ということです。

〔3〕御手の業を歌うこと
1節にも、「あなたの御名にほめ歌を歌う」とありますが、4節以降の節からも、「主に感謝する」とは、「歌うこと」だと読み取れます。
4節の「喜び歌う」とは 「勝ち誇る」という意味のことばが使われているそうです。
私たちの毎日に、問題課 題、困難が横たわっていたとしても、私たちは主にあって、「どんな境遇にあっても 満ち足りる」(ピリピ4:11)という経験をさせていただきながら、その勝利を歌う ことができるのです。
神さまとの語らいである祈りの中で「主に感謝する」という幸いな営みを続ける者の祝福が、12〜15節に歌い上げられています。
今週も、「主に感謝」して、このよ うな祝福を知るものとならせていただきましょう。

2014年12月7日

 「隠れ場に住む者」     詩篇91篇(A.K)

この詩篇は「いと高き方の隠れ場に住む」という言葉で始まります。
「隠れ場」と は、至聖所を暗示した言葉で、つまり神さまとの交流、そして神さまによる保護を示 します。

〔1〕神さまへの信頼
作者は、「私は主に申しあげよう」と、大胆な信仰の勇気と決意をもって2節のよう に言っています。
全体を読むと、困難から逃れるために成すすべのない状況に、作者が置かれていた事がわかります。
それは、殺りくと恐怖と病とわざわいの現状だっ たのです。
そのような中で、「私は主に申しあげよう」と、彼が祈りのために自分を 鼓舞することができたのは、彼が告白しているとおり、神さまへの信頼があったからです。
そして3節から続いて、彼が神さまによる救出とまもりを信じ切っていること にも、彼の信頼が溢れています。

〔2〕神さまのまもり
彼が確信し、うたっている神さまのまもりを読み取りましょう。
1節…「隠れ場に住む」「陰に宿る」、2・9節…「避け所」、3節…「わなから」 「恐ろしい疫病から」、4節…「羽でおおわれる」「身を避ける」「大盾」「とり で」 5節…「恐怖」「矢」も恐れない、6・10節…「疫病・えやみ」も「滅び」も、7 節…殺りくの中でも、9節…「住まい」、10節…「わざわい」がふりかからない、 11節…「すべての道で守られる」、12節…「ささえ」「足が」打ち当たらない。
これらは、内面の安らかな守りであり、外敵からの守りです。

〔3〕神さまのお応え
これらの彼の信頼と確信の祈りに対する、神さまの速やかな祈りのお応えが14〜1 6節にあります。
それは、「助け出そう」「高く上げよう」「答えよう」「ともにい て」「救い、誉れを与えよう」「いのちで満ちたらせ」「救いを見せよう」というも のです。
そしてそれらの理由と条件を、神さまは「彼がわたしを愛しているから」 「わたしの名を知っているから」「わたしを呼び求めれば」と語り、約束しておられます。
どのような危険に直面しても、神さまに信頼する者に主は応えてくださるのです。

「隠れ場に住む者」…信仰のあり方を、最も適切に、そして深く言い表しているこの 言葉を心に留め、私たちも、神さまとの深い愛の交わりの中に日々を過ごさせていた だき、勝利を体験して進みましょう。

2014年11月16日

 「祈る神の人は」     詩篇90篇(A.K)

神の人モーセがその心に捕え、抱えながら祈ったことについて学ばせていただきま しょう。

〔1〕神さまへのおそれを表明した
1〜2節…モーセは、イスラエルの民の指導者として立てられた人でした。
彼の指導 と引率によりエジプトを出て、約束の地に向かったイスラエルの民でしたが、やがて彼らの不信仰によって、荒野をさまようことになりました。
主はこう仰せられまし た。「一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。
この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。」(民数 記14:35) 
つまりその日々は、「死を待つ40年間」と言わなければならな い、神さまからの厳しいお扱いの期間となったのです。
この詩篇は、モーセの晩年の 作であるために、辛酸をなめたそれらの日々が深く刻まれているように、非常に味わ い深いものとなっています。
モーセはこの祈りの中で畏敬の念をこめて、自分が経験 的に知った神さまの永遠性について、まず述べているのです。

〔2〕人のはかなさを自覚していた
また、モーセは、人生の無常を見せつけられていました。
永遠の神さまの前に人の存 在や生涯を置くとき、その儚さの事実が浮き彫りにされます。
モーセは3節以降で、 「移ろい」「消え」「沈み」「終わる」「過ぎ去り」「飛び去る」という言葉を用い て、人間が持つ罪ゆえのもろさ、弱さを述べています。
しかし人の有限性を見つめて 嘆くだけでなく、モーセがそれらを背負いながら、へりくだりをもって神さまに目を 上げたことが、とても自然に発せられている12節の「それゆえ」という言葉と続く 祈りに表されていると思います。

〔3〕願うべきことを臆せず告げた
彼は、神さまに願うべきことを知っていました。
それは、神さまを畏れて生きるため に求めなければならないことでした。
2020年に東京オリンピックが開催されます。
この大会のために建設事業など直接的な準備をしている人々は、もう今から開催 日とそこに至る過程を考え、あと何年何か月ということを強く意識しているでしょ う。
やがて開催の年になったなら、日本中がカウントダウンを始めるかもしれません。
私たちが自分の残りの日々を、ただ数として数えただけでも、自分の人生が時限 付きであることを知らされます。
そして、その限りある地上での日々を無駄に過ごしてはならないと感じるでしょう。
モーセは「正しく数えることを」と願いました。
ある外国の伝道者が、ある年にこの詩篇を読んだ時、その日から自分が80歳になるまでの日数を計算しました。
そして1日の終わりにその数から1を差し引いていくよう にしました。
減っていく数字を見て彼は毎晩、明日も主に従い、主のために精一杯生 きようと思ったそうです。
このように神さまのために…と日々を大切に重ねながら生 きる人生は、価値高いものです。
モーセも失ったものを数えるのでなく、「自分の日 を正しく数えることを教えてください」と祈りました。
これは欽定訳では「われわれ が知恵に心をあてはめることができるように」と訳されています。
また、「どうか優 先順位をまちがえない者にしてください」と言う祈りだと書かれていた本もありました。
神さまが私たちを愛し導き、ご自身に似る者へと造りかえようとしてくださる 日々の、どの瞬間にも意味があり、価値があることを思いながら、毎日をこの祈りを もって進む者となりたいと思いました。
また彼は、主の赦しと恵み(13節)、続い て、主にある喜びと楽しみ(14,15節)を求めています。
神さまの恵みの充分さを 実感しながら、その恵みによって喜び楽しむようにしてくださいと祈ったのです。
それから、栄光と主の恵みによる祝福(16,17節)を願っています。
モーセは、「私 たちの手のわざを…」と祈りました。
手のわざとは、幕屋の建造と関連していたので はないかと言われています。
主の恵みをお伝えする働き、教会のたてあげのため、私 たちの手の業を…と祈る心を与えていただきましょう。

自分の生涯を、神さまとの交わり、生命の交流である祈りによって重ね、天に望みを 置きつつ神さまに信頼して生き抜きたいと願っている、モーセの祈りに私たちも心を 合わせましょう。

2014年11月9日

 「神さまの御真実」  詩篇89篇(A.K)

この詩篇には、嘆願の祈りが綴られています。

〔1〕ダビデに語られた契約

ダビデ王朝が終わろうとしているときにダビデに誓われた神さまのご契約の真実に信頼する祈りがささげられています。
これまで、いくつかの神さまの契約が与えられて 時代が続いてきました。
ノア、アブラハム、モーセの契約…そしてダビデに対する契 約です。神さまはダビデに、彼の世継ぎの子が王として君臨するという約束を与えら れました。(Uサムエル7:12〜17)
詩篇の作者は、1〜4節で「とこしえ」とい う言葉を繰り返してこの契約を覚え、祈りをささげているのです。

〔2〕変わる事のない御真実

この詩篇の中では9回も「真実」(1,2,5,8,24,28,33,37,49 節)という言葉が使われています。
神さまが真実であられるという事実は、聖書全体 が示す真理であり、それは神さまご自身の御性質です。
「私たちは真実でなくても、 彼は常に真実である。彼はご自身を否むことができないからである。」(Uテモテ 2:13)と書かれている通りです。
作者は5から18節で、神さまが主権者であり、 そのご支配の中で民が喜び叫んでいることを讃美しています。
そして19節からダビ デが王として立てられ、勇士として戦いに勝利する姿が描かれています。
24・25 節には、神さまの「真実」によって、彼が治める国が広がることが語られています。
続く26・27節に、神さまとダビデとの関係が示されていることは、父なる神さま と御子イエスさまの関係をも表している言葉です。
そして28節、この恵みの契約が 永遠のものであり、決して破棄されることのないことを歌っています。
神さまがご自 身の語られたおことばに忠実な御方であるので、私たちはみことばに全幅の信頼を置 くことができるのです。
神さまのご真実のゆえに、どのようなみことばにも、畏敬と 希望をもって従い、みことばの中に真の慰めと励ましを受けるのです。
29から34 節でダビデは、みことぱが永遠に不変であることを語っています。
しかし35節以下 は、雰囲気が一変して、哀しみ苦しみの現状が綴られています。
これまで確信に満ち て歌われていたことは何だったのかと思われるほど、37節までの言葉を否定するような表現が続いています。
作者が目に見える現状と、神さまの真実な約束とのはざまで葛藤している様子が感じられます。
しかし49節にまた、彼は主のご真実を持ち出 しています。
そして最後の節で、彼は讃美をもってこの祈りを終えています。
彼が、 神さまのお約束を信じがたいような中で、再び、神さまの御真実が変わらないことに 目を上げた姿が読み取れます。

神さまのお約束を握り、主のご真実に根拠を置いて信じ祈る者となりましょう。

2014年10月26日

 「主よ 私に答えてください」  詩篇86篇(A.K)

〔1〕自分を知っている者の嘆願
ダビデは、いくつもの願いを神さまに祈り、その一つ一つに理由を申し上げています。
まず、祈りを聞いてくださるよう願っています。(1節)
その理由を、「悩み…貧 しい」からだと言っています。
これは、経済的な貧困よりも、心のうちの悩みや重苦 しさを言い表す言葉だそうです。
イエスさまは弟子たちに、「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人のものだから」(マタイ5:3)とおっしゃいました。
このような意味の、「心の貧しさ」の自覚を持つ人は、神さまに向くことができるので幸いです。
次に、「たましいを守ってください」(2節)と祈っています。
自分の内側、感情や知性や意志が、悪い者に影響されたり侵されたりしないように、心を守ってくだ さいという願いです。
そしてその理由として「神を恐れる者です」と言っています。
いつも自分の前に主を置き、主の御存在を意識して過ごすことが、たましいが守られ る要素だとわかります。
また、続いて「救ってください」と願っています。
そしてその根拠を、自分が持っている、神さまへの「信頼」だと述べています。
王の法令に背いても主に祈ることをやめず、日に三度ひざまずいたダニエルが獅子の穴に投げ込ま れた記事を思い出します。
結果、獅子はダニエルを襲わず、彼の命は救われました。
その理由について聖書は、「彼が神に信頼していたからである。」(ダニエル6:2 3)と語っています。
ダビデの願いの4つ目は、「あわれんでください」(3節)です。
彼はその理由を、「一日中、呼ばわっていますから」と言っています。
主に憐れみを求めた人は、聖書の色々な所に登場します。
その人たちは皆、主に触れていただ く以外に解決のない自分の問題を知り、主に呼ばわっています。また、彼らは、そう して主のもとに近づく資格さえないと自覚し、御前に進み出るのを許されること自体 が「あわれみ」であると知っている人々です。
「あわれんでください」というのは、自分を知っている者の信仰の姿であると思います。
主のあわれみがなかったら、私た ちは日々を生きることも、足を進めることもできないからです。
5つ目の願いは、「たましいを喜ばせてください」(4節)で、理由は、「あなたを仰いでいますから」 というものです。
彼は自分を知り、その現状に心を悩ませていましたが、神さまに目 を上げ、主を見つめていたので、この願いを告げることができたのです。

〔2〕神様を捉えている者の信頼
そしてダビデは、自分のこれらの願いの基となっている、彼が理解し、信じていた神 さまの御性質について述べています。
ダビデが捉えていた神さまは、「いつくしみ深 く、赦しに富み…恵み豊か」な御方でした。(5節)
彼にとって、主はただ一人、 「大いなる方」でした。(8,10節)
また彼は、恵み深く、自分を贖い出してくだ さった方として主を歌っています。(13節)
ダビデは、敵の存在と高ぶり、攻撃が迫 る状況にあって、主のご性質を思い出して、心を強められながら祈っているのです。 (15節)
彼が捉えていたように、神さまを大いなる方、そして、親しく近く自分の 贖い主として信頼するなら、私たちは、今を恵みによって支えていただき、敵からの 圧迫にも耐えることができ、神さまによる助けを確信して祈ることができるのです。

〔3〕心から主に求めるべきこと
なお2つの祈りの言葉に目を留めて、私たちが心から主に求めるべきことを学びま しょう。
苦難から救われることを祈る中で、ダビデは「あなたの道」と「あなたの真 理」を教えてくださいと願っています。(11節)
彼は、自分を悩みの炉で練り、主 の道を教えようとしておられる御心を悟り、このように願っているのです。
主からの 訓練を受ける日々を、ただ主を仰いで真実に歩もうとする者は、神さまの聖さの中で 生きたいと強く願うようになります。
彼が「私の心を一つにしてください」と祈ったように、私たちも、私たちを聖めと成熟に導くこの願いを、主に告げる者とならせていただきましょう。
最後にダビデは、「いつくしみのしるし」を求めています。(1 7節)
彼は、王でありましたが、その王座からではなく、追い詰められた苦境のた だ中、主の前にひれ伏したその場所で、御臨在の恵みに満たされた経験を持っていた と思います。
彼はその恵みの経験を、「いつくしみのしるし」と歌いながら、さら に、主に求めているのでしょう。
自分を知り、主を捉え、御心の中に心を定めて生きる事を願う祈り手とならせていた だきましょう。

2014年10月19日

 「私たちの神よ」  詩篇85篇(A.K)

この詩篇には、バビロン捕囚から捕囚の民が帰還した後に、困難の中から、霊的復興 を求めた祈りが記されています。

〔1〕あなたの赦しを
1〜3節…作者はまず、バビロンに捕え移されたのは、イスラエルの民の咎のためで あったことを述懐しつつ、「あなたは…赦し」と、神さまの恵みと憐れみを感謝して 歌っています。

〔2〕あなたの救いを
4,7節…神さまの恵みにより捕囚の身から解かれたものの、国は荒廃していまし た。
ネヘミヤ1:3に「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常 な困難の中にあり、またそしりを受けています。
そのうえ、エルサレムの城壁はくず され、その門は火で焼き払われたままです。」とあるように、民は、物理的には戻り ましたが、霊的にはまだ回復していなかったのです。
ですから、彼らの切なる祈り は、国の再建、たましいの霊的な復興でした。
それで作者は、「あなたの救いを」と 祈っているのです。

〔3〕あなたの仰せを
8節…主の御怒りをやめ、生き返らせてくださいという祈りのあとで、作者は神さま 御自身のみことばを待ち望む、信頼と期待の姿勢をとっています。
この節から、彼の 心が主を愛する思いに満たされていたことがわかります。
祈りの中で、神さまに願い などを告げることと共に、神さまの仰せを聞くことは、私たちにとって重要です。
なぜなら、「信仰は聞くこと から始まり」(ローマ1:17)とあるように、主の語りかけによってこそ、私たちは御旨を正しく知り、養いを受け、健全なクリスチャン生涯を送ることができるからで す。
祈りの中で、自分の願いを申し上げるだけでなく、主の語りかけに耳を傾ける者 となりましょう。
それから、作者は、神さまの義に目を留め、この義なる御方に希望 を置いて祈っています。
そしてそれが、恵みと平和に結びついた義であることを意識 しています。
主の義は、彼らに罪の裁きを下し、彼らを罰しましたが、主は彼らを恵 みのゆえに赦してくださいました。
そして平和がもたらされたのです。このような神 さまの「義と愛」は、まさにイエスさまの十字架にあらわされました。

それは、罪の 赦しと回復を実現した義です。彼はこのように祈りながら、神さまの恵みとまこと、 義と平和を求め、そこを歩む決意を表明しています。

「私たちの神」の赦しを感謝し、主の救いとみことばを求め、祈りつつ進みましょ う。

2014年10月12日

 「主の大庭を慕う者」  詩篇84篇(A.K)

84篇から、神さまを慕う者の幸いについて、知らせていただきましょう。

〔1〕神さまの家に住む人
「幸いなこと」という表現を新改訳聖書の詩篇の中で数えてみたら25箇所ありました。
区分ごとに「なんと幸いなことでしょう」という言葉が4と5と12節に出てき ますから、そのうちの3回がこの詩篇にあるわけです。
まず、その一つ目、「なんと 幸いなこと」は、「神さまの家に住む人」であるという1〜4節を見ていきましょ う。
ここには、作者が神さまのおられる所をどんなに慕っているか、そしてそのよう に神さまを求める者への祝福が記されています。
信仰の喜びとは、ここに書かれてい るように、個人的・人格的に神さまを知って生きることだと思います。
人生の価値、 祝福の生涯の鍵は、真の神さまの御臨在をどのような思いで、どのように経験したか によるのではないでしょうか。
この詩篇で「あなたの家に住む人」とうたわれている のは、ヨハネ15:5でイエスさまが「わたしにとどまる者」とおっしゃっている、 主とのいのちの繋がりをもって生きる人の事です。
この詩篇から聞こえる、主を恋い 慕う調べは、主との絶えない交流を続けることこそが、私たちの生涯の祝福の源であ ることを伝えています。(→詩篇65:4)

〔2〕心に大路を持った人
次の区分、5〜8節には、「心に大路を持った人」の幸いがうたわれています。
神殿 礼拝のためにシオンに向かうことは、ユダヤ人の喜びでした。
いくつかの家族が一緒 に旅をし、野営をして進むうちに、礼拝者の群れは次第に大きくなっていったそうです。
彼らは、道を歩きながら一斉に賛美し、礼拝の時を待ち望み慕いながら、ともに神の宮を目指して進んで行ったのです。
5節の「大路」とは、何の妨げもなく自由に 行き来できる道のことです。
彼らが神殿へと歌いながら進んで行ったように、主に向 かう道を心の中にしっかりと持つことが、幸いな生活を送る秘訣と言えるでしょう。
そして、このような人々の信仰と希望と喜びは、6,7節にあるように、涙の谷を泉 の湧くところに変え、力ある前進をもたらすと証しされています。
「初めの雨」と は、やわらかく静かな秋の雨を表わし、それは種まきの後に降る雨だそうです。(→ ヨエル2:23)
神さまに救われて、心の中に開かれた道をもっていて、歌いつつ御前に進み出る人が、罪の勢力に屈しない勝利の生活を送るという幸いが、ここに綴 られているのです。

〔3〕神さまに信頼する人
三つ目の区分には、神さまに信頼し、その保護の中にいる幸いが、甘美な描写でうた われています。
神さまとともにある一日は、神さまとの出会いと繋がりなく過ごす幾 千日よりも尊いこと、神さまを「太陽」と言って、主を光、暖かさ、いのちの供給者 として、また「盾」つまり、敵対者から保護してくださることを美しく、的確に表現 しています。
このような神さまのもとで、私たちは11節の事実を知ってゆくので す。神さまが与えてくださる「良いもの」とは何でしょうか。
それは「いのちと敬虔 に関するすべてのこと」(Uペテロ1:3)です。
神さまは、私たちが人生の旅路に本当に必要とするものすべてを与えてくださる御方なのです。
そして作者は、神さまを 信頼する者は決して裏切られることはないという確信をもって、最後の節を歌い上げ ています。
神さまは、ご自身に依り頼む者をよく知っておられます。
主に信頼する者の幸いを私たちも味わい進ませていただきましょう。

この詩篇にある幸いのうたを、さらに味わい知り、生涯を通じて歌わせていただきま しょう。

2014年10月 5日

 「危機のときにも」 詩篇83篇(A.K)

敵の同盟軍がイスラエルを滅ぼそうとして来襲したとき(U歴代20:1)の祈りです。
きょうは、危機の中でもどのように祈るべきかを、学ばせていただきましょう。

〔1〕御護りの下にある自覚を持っている
3節で作者は、自分を「あなたの民」、「あなたのかくまわれる者」と呼んでいます。
「あなたのかくまわれる者」とは、「神さまの保護の中に隠される者」という意 味で、そのような自覚と信頼を表した言葉です。
四面楚歌のような状況下でも、「キ リストとともに神のうちに隠されている」者であることを覚えましょう。

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上 にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに 死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるか らです。(コロサイ3:1〜3)

祈り手は、2節で敵を「あなたの敵」、「あなたを憎む者」、5節で「あなたに逆 らって」と言っています。彼らはイスラエルに敵対し、イスラエルを憎むことによっ て、神さま御自身に敵対し、神さまを憎んでいることが表されています。
神さまは御 自身に敵する者を、聖名のために決して放任されないことを想って、主に信頼して祈 りましょう。

〔2〕過去の御業を思い出して祈っている
また作者は、危機の中でも、神さまの過去の御業を思い出して祈っています。
9,1 1節…これらは、士師記7:19〜25,4:4〜24,8:10〜21に記されて いる出来事です。
彼は、御業の中に、神さまが力ある御方であるという事実を一心に見つめて、祈って いるのです。

〔3〕御名が崇められることを願っている
最後の節に、御名が崇められることが切に願われています。
祈りは、試練のただ中で ささげられているにもかかわらず、祈り手の願いは、神さまの栄光に集中されている ことを心に留めたいと思います。
13〜17節には、敵が恥を見るようにということ が祈られていますが、その中にも、「彼らがあなたの御名を慕い求めるように」(1 6節)と願い、18節に至っています。これは、自分の満足や現実的な問題の解決に目を向けた祈りではなく、神さまが全地の至高者であることが人々の知るところとな るようにという、明確な目的をもった祈りであることを覚えましょう。

私たちも、このような自覚を持ち、力ある神さまを知っている経験に立ち、そして御 名が崇められることを願う、きよい動機をもって祈る者とならせていただきましょ う。

2014年9月28日

 「あなたの口を大きくあけよ」  詩篇81篇(A.K)

この詩篇に綴られている主のみこころを知り、祈ることを教えていただきましょう。

〔1〕神さまのご目的を忘れず求めよう
讃美への招きに続いて、5節から主の語りかけがあります。
ここには、神さまがイスラエルの民をエジプトから引き出し、彼らを隷属と苦役から解放されたことが顧みら れています。
これらのことを通して、神さまが生きておられる憐れみ深い御方である ことを知った彼らは、それを決して忘れてはなりませんでした。
そして、この出エジプトの目的は、彼らに、さらに豊かな恵みを豊かに与えてくださることであったという事実を打ち忘れてはならなかったのです。
しかし、彼らは主に背きました。
彼ら が、偶像礼拝に傾いていった理由は、彼らが、唯一まことの神さまを忘れ、この方か ら心離れて、他のもので自分たちを満たそうとしたことでした。
神さまが、ただ御自身だけに心を向けることをお命じになっておられること、そしてこの方が、私たちに 恵みの御計画をお持ちであることを忘れずに祈る者となりましょう。

〔2〕神さまの満たしを信じて求めよう
主は、続けて命じておられます。
10節…神さまは私たちに、ひなが親鳥にむかって 口を大きくあけて餌を要求するように求めなさいとおっしゃっています。
ここに描写 されている「大きく口をあける者」は、神さまから与えられるものでなければ、本当 の満たしがないと知っている祈り手の姿です。
また、求める者の必要をすべてご存知 で最良のものを与えてくださる主を、幼子のような純粋で一途な心を持って見上げている者の姿でしょう。
この節、また16節には、私たちが信頼と期待をもって祈るとき、主がどのように応えてくださるかという御約束が、神さまご自身のおことばに よって記されています。
10節「わたしがそれを満たそう」、16節「わたしは岩の 上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう」と。 私たちがどんなに大胆な求めをさせていただいても、神さまはご自身の御手で、最良 のものをもってお応えくださるのです。
「岩の上の蜜」とは、上質の蜜のことです。
神さまは、私たちの祈りに応え、私たちを喜ばしい蜜で満足させてくださることを信 じて祈りましょう。

〔3〕神さまのみむねを知って求めよう
すばらしい招きと約束に続いて、民の悲しい事実が語られています。
11〜14節… 神さまは、彼らが不信仰と不服従のために勝利と祝福を得られなかったことを語って おられます。
出エジプトの出来事も回顧されているように、この民は神さまの御力と御業を知らなかったわけではありませんでした。
それなのに主の「声を聞かず…従わ なかった」彼らを、神さまが「しかしわが民は」と呼んでおられることに、御愛と共 に、主の嘆きを感じさせられます。
この部分に、背く者をご覧になっている主のお悲 しみが表されています。
神さまは、私たちに、ご自分のみむねを強いることはなさい ません。
私たちが、主の御愛の導きを知りながら、自分のやりたいことを選び取るな ら、主はそのような私たちをそのままにされる場合があります。
けれども、そのとき にも、私たちを恵もうと待っていてくださる主は、私たちが再び向き直って、主の霊 的祝福を十分に享受させていただくことのできる全き信頼をもって、 熱心に祈る者となるよう、招き続けていてくださるのです。
このような、神さまの御旨を知って、心から主に求める信仰者とならせていただきましょう。

きょうも、私たちが仰ぐ方は、私を罪の中から贖い出してくだった全能の主です。
こ の御方の満たしを信じて祈りましょう。

2014年9月21日

「御顔を照り輝かせてください」  詩篇80篇(A.K)

この詩篇は、敵国の圧制の下に悩んでいる民の叫び、恵みの回復を願う祈りです。
「私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください」と繰り返されている、この祈 りから学ばせていただきましょう。

〔1〕牧者を見上げ、救いを求めて
1,2節…民族的な苦境の中にあって作者は神さまに向かって「イスラエルの牧者 よ」と 呼びかけています。
私たちがお祈りをする時、神さまの前に自分を置き、「牧者」を 見上げて、主ご自身と視線を交わすことができるのは、私たちにとって何という恵み でしょうか。
「ケルビムの上の御座に着いて」とは、幕屋の中にある契約の箱の上のご臨在を表し た言葉です。
神さまは「わたしはそこであなたと会見し…あなたに語ろう」と仰せら れました。
作者は、臨在は暗黒の中の光であることを覚え叫んでいるのです。
3節…ここで最初の「御顔を照り輝かせてください」という祈りが出てきます。
この ように祈ることは、イスラエルが荒野の旅をシナイ山から再開するとき、祭司アロン に主ご自身が命じられたことです。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますよう に。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向 け、あなたに平安を与えられますように。」(民数記6:24〜26)
神の民のため にこのように祈るなら、「わたしは祝福しよう」と神さまは約束されました。
ですか ら、「御顔を照り輝かせてください」というのは、神さまの御愛と善意に満ちた顧み を求め、お約束に基づいた回復と救いを願う祈りなのです。
4〜6節で、彼は苦境を 訴え、そしてまた7節で「御顔を…」と祈っています。
この時、国は荒廃し、敵に嘲 られていました。
そのような、実際的な苦境にもまさって、何よりも彼らは霊的に暗黒といわなければならないような時を過ごしていました。
その中で作者は、神さまと の関係が回復されることを切に祈ったのです。
日の出とともに、闇が吹き払われて、 世界が光といのちに溢れてくるように、神さまが御顔を輝かせてくだされば、暗黒の 時が終わることを信じて、彼は祈りました。
そして、「そうすれば…救われます」 と、主との関係の回復によって、勝利と救いがもたらされることを確信しているので す。

〔2〕農夫なる主の憐れみを求めて 14節…1節で、作者は神さまと民の関係が牧者と羊であると祈りましたが、11節 からは、自分たちを「ぶどうの木」と言っています。
こうして、神さまとの関係を再 確認しながら 憐れみにすがり、心を注ぎ出しています。
彼は、主がイスラエルをエジプトから携え 出し、約束の地に植えてくださったことを想っています。
しかし、彼らは農夫なる御 方のみこころに背き、周りの国々によって切り倒されてしまいました。
そのことを悲 しみながら、彼は、「帰ってきてください。…そして、このぶどうの木を育ててくだ さい」と、あわれみを乞い求めているのです。
イスラエルをぶどうにたとえた祈り は、イザヤ書(5:1〜7,27:2〜6)や、エゼキエル書(17:1〜10)にもあ ります。
18節は、リビングバイブルでは、「もう二度と、私たちは神さまを捨てたりはしません。
私たちを再び生かし、神さまへの信頼を回復させてください。」と訳 されています。
祈り手は、自分たちの罪深さ、弱さを認め、これまでの祝福のすべて が神さまによるものであることを再認識し、告白しながら、あわれみに富む主の前にひれ伏して、回復を祈っています。
そして、この詩篇で三度目の「御顔を照り輝かせ てください」という祈りが、最後の節にあるのです。

これらの祈りが、私たちのものとなりますように。
神さまとの関係を固くされ、全き信頼を置いて、きょうも主を仰ぎましょう。

2014年9月14日

「御名の栄光のために」  詩篇79篇(A.K)

神殿が破壊され、聖所が焼き払われたときにうたわれた詩篇から、「御名の栄光」を 求める祈りを学ばせていただきましょう。

〔1〕私たちの救いの神よ
まず、エルサレムの惨状が訴えられています。
1,2節で、「ご自身のものであ る」、「あなたの聖なる宮」、「あなたのしもべたち」、「あなたの聖徒たち」と言って、神さまのものであるはずの場所が廃墟となっていること、主の民の苦境が語 られています。
5節の神さまの「ねたみ」とは、神さまが贖い出された民に対して、 ご自身への絶対的な忠誠をお求めになる御方であるということを表す、よく用いられる旧約的な表現です。
作者は、エルサレムの悲惨な現状の原因は、民の罪であることを認めながらも、もし迎えられるとするならば、ただ、神さまの「あわれみ」による という理解をもって、主にすがり、祈っているのです。
また6節では、「御名を呼び 求めない王国」バビロンに対する、さばきを願って訴えています。
9節で彼は、「私 たちの救いの神よ」と呼びかけています。
彼の心には13節に祈られているように、 今は、み怒りに触れている自分たちであっても、なおも「あなたの民、あなたの羊」 であるという望みがあったので、あわれみに依り頼み、「私たちの救いの神よ」と叫ぶことができたのでしょう。
イスラエルの民は、度重なる背きの結果として、このような辛い現実に置かれました。
しかし、彼らの不信仰が露呈したこの時に至ってこそ、実質の脆さの自覚とともに、なお目を上げてすがることができるのは、「神さま のあわれみ」だけだと知らされ、主の前にひれ伏す祈りがささげられていることは、 なんという恵みでしょう。
また、そのような砕かれた心から発せられる祈りの力強さ を教えられます。
私たちにとっても、「私たちの救いの神よ」と祈らせていただく御 方がおられることを感謝しましょう。
私たちには、あわれみをかけていただくことに 値するものは何もありません。
しかし、贖いの恵みによって神の子とされ、きょう も、「私たちの救いの神よ」と、御名を呼ぶことができるのです。

〔2〕御名の栄光のために
続いて作者は、9節で「御名の栄光のために…御名のために」と救いを願っています。
真の神さまを知らない異教のバビロンがイスラエルの地に侵入し聖なる宮をけが しました。
聖徒たちは殺され、血が流され、4節や10節にあるように、荒廃したエ ルサレムは周りの国々から、「それは神さまが無能であるからだ」とあざけられています。
そのため彼は、「御名の栄光のために…救い出し」てくださいと祈っています。
自分たちの現状が苦しいからということ以上に神さまが侮られていることを悲しみ、救いを求めているのです。
同じような祈りを、ダニエル書9:17〜19にも見 ることができます。
ダニエルは、神のさばきは正しいです。
しかし、あわれんで、御 名が置かれている所に目を留めてくださいとお願いしたのでした。
神さまは、御名を 御自身で聖く保たれる御方ですが、神の民である私たちも、彼らのように、御名の栄 光があらわされることを祈り願う者とならせていただきましょう。

〔3〕賛美と感謝を誓って
最後に祈り手は、「そうすれば…私たちは」と誓っています。(13節)
この節は文語 では、「さらば我ら…羊は とこしえに汝に感謝しその頌辞(たたえごと)を世々あらわさん」と訳されています。
またこの部分について、ある注解書に、「讃美に身 を渡し切る」告白だと書かれていました。
彼は自分の立場を、「あなたの民」、「あなたの牧場の羊」と明確にして、祈りの具体的な応えより先に、その穏やかに安定し た喜びをとらえて、このような言葉で祈っているのだと感じました。

私たちも、このような頷きをもって祈り、感謝し、うたう者とならせていただきま しょう。

2014年9月7日

「しかし神は、ご自分の民を」  詩篇78篇(A.K)

この詩篇に綴られているイスラエルの歴史とは、不信仰により、神さまへの反逆を繰 り返した民の歴史でした。同時に、悔い改めた民を何度でも赦しておられる、神さま の憐れみが、うたわれています。
民の不信仰の姿と、そのような彼らに示された神さ まの憐れみについて知らせていただきましょう。

〔1〕民の不信仰…「悪い不信仰の心」
出エジプト以来のイスラエルの歴史を見ると、神さまのご寛容とご忍耐にかかわらず、何度も、神さまを試み、欺いて信じない民の記録があります。
8節の「かたくな」とは、聞かない、動かない、飢え渇きをもたない心の姿を表しています。
また、 「心定まらず」とは、神さまに従うということに、心が定まっていないことです。
また、不忠実も危惧されています。
11節には「忘れてしまった」、42節「覚えていなかった」、22節や32節に は、「信頼しなかった」、「信じなかった」とあるように、彼らは神さまの御力を体 験し、知っていたにもかかわらず、神さまに信頼を寄せ続けることをせず、主を侮っ たことが記されています。
このような民の心を、神さまはどのようにご覧になってい たか、41節に表されています。
神さまの御力に信頼しないことは、「イスラエルの 聖なる方を痛め」ることなのです。
へブル3:9〜12には、「悪い不信仰の心」、 「生ける神から離れる者」と語られています。
私たちは、堕罪以来、神から離れた者となり、「悪い不信仰の心」の性質を持つ者となってしまいました。
イスラエルの人々のように、神さまの大いなる救いの御業を自分の体験として知っても、それを忘れ、そこに示された恵みと教訓を生かすことができずに、新たな問題に遭遇するたび につぶやき、神さまへの全き信頼を失ってしまうことはないでしょうか。
「神の力を も、神が敵から贖い出してくださった日も、覚えていなかった」(42節)民の姿に警 戒を学び、信仰に生かす者とさせていだきましょう。

〔2〕主の憐れみ…「彼は英知の手で」
神さまにとって不可能なことは一つもないのですが、深いお考えによって、神さまは、私たちの信仰に応じて御業をなさるという方法をとられることがあります。
それは御業をおこなわれることよりももっと、私たちを造り変えることに、重点を置いていてくださるからでしょう。
この詩篇に、民の不信仰の姿と交互に記されている、神 さまの御業に、そのような神さまの御意図、聖さと憐れみを知ることができます。
神さまは、その義しさをもって、彼らの罪を厳重に示され、背く彼らに触れておられます。
しかし、彼らが主に向くなら、何度も赦してくださる神さまのご忍耐が表されて います。
71,72節に、神さまがアブラハムと交わされた御契約が示されています。
神さまはお約束に忠実なお方です。
私たちは弱く、どのような努力をしたとしても、けがれた心の性質をきよめ、変えることはできません。
しかし、ただ神さまの、 「正しい心」、「英知の手」の御教導によってのみ、それが可能となります。
このお導きに委ね、疑わずに依り頼むなら、この恵みに与り続けることができるのです。
Uペテロ1:4に「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えら れました。
それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを 免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」とあるように、イエスさまのうち に、この恵みのすべてがあることを信じ、お頼りしながら進ませていただきましょ う。

2014年8月31日

「祈りによる回復の過程」  詩篇77篇(A.K)

きょうは、祈りによって再び信仰に立ち上がった作者の言葉から、その回復の過程に ついて学ばせていただきましょう。

〔1〕苦悩の中に沈んでいた
作者は、苦悩の中で神さまに祈っています。
しかし、その悲しみの深さのゆえに、彼 は祈りながらも、自分の思いの中へと沈んでいってしまいました。
1節…彼は、神さまが、祈りを「聞かれる」御方であることを知っていました。
だか らこそ、彼は神さまを呼ぼうとしたのです。
しかし、その困難さが2,3節に記され ています。
彼は、主を尋ね求め、夜も手を挙げて祈り続けました。
神さまのことを思 い出そうと努め、しかし、かえって悩み嘆いて、そのたましいは衰えました。
3〜6 節には、「私」、「自分」という言葉が繰り返されています。
彼は、昔のことを回顧 しても、それを主への信頼に繋げることができず、今は、神さまから見捨てられてし まったのではないかとの不信仰に捕らわれてしまいました。
7〜9節…このような彼 の苦しみは、絶望しそうになるほど長いものであったことが語られています。
神さま を呼んでいても、神さまを思い出していても、なお、問題課題や自分の感情に心が占 められていることがあり得ると教えられます。
そうして、現実に目を留め続けていく うちに、神さまご自身が見えなくなってしまい、祈っているつもりでも、堂々巡りの ように、自分の思想の中を漂い、実は祈りから離れてしまっていたと気づかせられる ことがあります。
作者も、このことについて自分の弱さを認めています。

〔2〕主に向き直ろうとした
祈りにおいて自分の弱さを悟った時、彼は主に向き直ろうとしました。
10節は、 「本篇が暗さと悲しみの経験の描写から、喜びと讃美の描写へと反転する蝶番(ちょ うつがい)である」と言われているように、祈りによって、彼の悲しみが喜びと讃美 にかえられ、彼の信仰が回復されたポイントとなる告白です。
彼は、問題を横に置い て、これまでの神さまの御業を思い起こし、神さまはどういう御方かに思いを向けよ うと決心しました。
10〜12節に、「私は言った」、「私は…思い起こそう」、 「私は…思いを巡らし…考えよう」と、「私は…する」という表現が繰り返されてい ることから、信仰は決意であると頷かされました。 イエスさまが最後の晩餐の時におっしゃった通り、私たちが主ご自身を「思い起こす」ことができるよう、聖霊さまが教え導いて下さいます。(ヨハネ14:26)
神さまに弱い自分を明け渡し、意志的に選び取り、御霊の力をいただいて、主に向き 直って祈る信仰者であらせていただきましょう。

〔3〕主への信頼を告白した
さて、神さまに向き直った祈り手は、苦しみ叫び訴えていたときとは、うって変わっ て、13節以降では、「神よ」、「あなた」と繰り返しながら、主への信頼を告白し ています。
彼は、神さまの特別な保護の下に、イスラエルが紅海を徒歩で渡った大きな御業を思い起こしています。
ここで作者の心に、「道」というイメージが広がり、 賛美が綴られていることに気づかされます。
13節の「あなたの道は聖です」は、 「あなたの道は聖きの中にある」とも訳されているそうです。
肉体の目に見える現実 にではなく、神さまが海を分け、そこに道を設けて民を導かれる大いなる御方である こと、聖なる神さまのみこころのうちにこそ、 最善の道があることを、彼は祈りの過程を通されて、霊の目で見きわめ、賛美してい ます。
これらは、自分の考えや方法、人の力も知恵が及ばないような事態に直面する ときにこそ祈り、その中で大いなる神さまを信仰によってとらえ知り、信頼を寄せる 者の幸いを証ししています。
この回復のプロセスを、明確に体験する幸いな祈り手とならせていただきましょう。

2014年8月24日

「恐るべき偉大な御方」  詩篇76篇(A.K)

詩篇76篇を貫いているテーマは、神さまの恐るべき偉大さです。
神さまを恐れかし こむことは、私たちの信仰生活に欠かせない勝利の条件です。
今日は、この詩篇か ら、恐るべき偉大な御方について知らせていただきましょう。

〔1〕「あなたは輝かしく威厳があり」
まず、神さまが輝かしく威厳があることが描かれています。
1〜2節…「シャレム」とはエルサレムのことです。
アッシリヤがユダを攻めて来 て、エルサレムの町を18万5千人の軍隊が包囲したとき、神さまは、一夜にしてそ の軍勢を滅ぼされました。(U列王記19:20〜35)
この時の様子が、4〜6節に も記されています。
これらから、神さまのご臨在の力強さを知らされます。

〔2〕「あなたは、あなたは、恐ろしい方」
7節…ここでは、「あなたは、あなたは」と繰り返されて、神さまの権限とお力が強 調されていて、心を引き締められるように感じます。
詩篇130:3に「主よ。あな たがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。」とあ るように、神さまがお怒りになるとき、そのさばきの前で立ち続けられる者はひとり もありません。
8〜10節…神さまが、敵に対して天から宣告を下されるとき、地は 恐れて黙している様子が描かれています。
また、神さまが、人の反逆からさえも、栄 光をおうけになる事が記されています。
このように私たちは、神さまが「恐れるべき 方」であることをただ知っているだけでなく、この御方の前に謙って、みことばの光 のうちに生きる決意と刻々の選択、実践をしていかなければならないことを教えられます。
イエスさまもこうおっしゃっています。「からだを殺しても、たましいを殺せ ない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、とも にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

〔3〕「主に誓いを立て、それを果たせ」
11〜12節…最後に、主のご威光に対して、私たちが、主を崇め、心からの礼拝を ささげるべきことが勧められています。
私たちは、主に従い、お仕えし、心を明け渡 して進ませていただく、主を畏れる民でありたいものです。 恐るべき偉大な神さまを知らせていただき、この方を常に意識してみこころのうちを 歩む在り方を、私たちの日常とさせていただきましょう。

2014年8月3日

「定めの時」 詩篇75篇(A.K)

きょうは、詩篇75篇から、神さまの「定めの時」を見つめる祈りについて知らせていただきましょう。

〔1〕裁きをおこなう方がおられる
アサフは、この詩篇を感謝で始めています。(1節)
「御名は、近くにあり」というの は、彼が、神さまがその本質をもって彼に近づいていてくださることを体験した証しと讃美です。
そしてアサフは神さまの奇しいわざを語ってゆきます。
2,7節に、ア サフが、「裁きをおこなう方」として、神さまを知っていることが述べられています。
アサフは、悪を行う人々に対しての、裁きの結果を見たからではなく、ただ「裁 きを行う方」、「裁き主」を見上げて、まず、感謝と祈りをささげていることがわか ります。
私たちが祈るとき、具体的改善や解決がまだ見られない中であっても、その現実にではなく、やがて、正しい裁きをおこなわれる方に信 仰の目を上げる者とならせていただきましょう。
いつでも祈りにおいて、この方に信頼し委 ね、お従いするという態度を喜びつつとりましょう。

〔2〕その時を主が決めておられる
また、アサフは、その裁き主が決めておられる「時」についてうたっています。(2 節)
目に 見える現実に一喜一憂しやすい弱い私たちは、神さまの「時」から目をそらしてしまい易く、その時を待つのが難しいことがあるかもしれません。
しかし彼のように、神 さまのみこころの時を見続けることは大切です。
また、主が裁きを実行される時、どうなるかが記されています。(6,7,10節)
神さまは、すべてを支配される御方、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになるお方であることを思います。 (ヤコブ4:6)
また、、「…神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神 が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」 (Tペテロ5:5,6)の聖句とともに、エジプトの奴隷市場から宰相になったヨセフ のこと、羊飼いからイスラエルの王になったダビデ、捕らわれの少年から王に次ぐ大 臣になったダニエルの信仰の姿が思い起こされます。
8節には、すべての世の勢力、 信仰者を脅かしていた者は無に等しくされ、悪者どもが、その最後の苦い一滴までも 飲み干す、つまり神さまの怒りを ことごとく受けることが預言されています。
神さまの御力は圧倒的なものであること をおぼえましょう。

この詩篇も、讃美で終わっています。裁き主ご自身に目を上げ、この方のご支配に委 ねつつ、「定めの時」をとらえて祈る者とならせていただきましょう。

2014年7月27日

「心に留めてください」    詩篇74篇(A.K)

「信仰は…目に見えないものを確信させるもの」(へブル11:1)です。
この詩篇の作者にとって、目に見える現実は惨憺たるものでした。
しかしその中で、彼は、目に見えない現実である神さまに、信仰の目を上げて、「心に留めてください」と主に 祈っています。
神さまとの関係の回復を求めた、彼の執り成しの祈りに表されている信仰から学びましょう。

〔1〕契約に真実な神さまに縋って
まず、彼は「契約に真実な神さまに縋って」祈っています。
1,2節で作者は、イスラエルの民のことを、「あなたの牧場の羊」、「あなたの会 衆」、 「ご自分のもの」として主の前に述べています。
現状はどんなに深刻であっても、民 は依然として、「あなたのもの」です…との信仰をもって祈っているのです。
「あな たの民」と言われているとき、そこに契約の神さまが表されていることを思います。
イスラエルに与えられた契約は、アブラハムに与えられ、そしてモーセ、ダビデと交 わされた祝福の契約です。
作者は20節でも「契約に目を留めてください」と願って、主ご自身の お約束と契約に訴えているのです。
モーセやネヘミヤも、このような執り成しの祈りをささげました。(出エジプト記32:11〜14,ネヘミヤ9:32〜33)
作者は廃墟となった国を見て、深く悲しみ嘆いています。
そして、その原因が、民の 罪にあることを知っていました。
しかし彼は、ご自分の契約に真実であられる神さま に すがって祈ったのです。
どのような状態になっていても、神さまの「牧場の羊」、 「民」であることに希望を置いて祈らせていただきましょう。
そして、その羊に注が れる、神さまの愛と憐れみに縋って執り成す者となりましょう。

〔2〕主権者である神さまを仰いで
また、作者の目に留まったことは、18節「御名を侮っている」、22節「あなたを そしっている」、23節「あなたに敵対する」という民の悲しい現実でした。
しか し、彼は、主権者である神さまに信仰の目を上げて祈っています。
作者は、力ある御 手をもって イスラエルの民を出エジプトさせてくださった御方、天地の創造主であられる神さまを仰いでいるのです。(12〜17節)
神さまを愛し、主のために生きようと願う者 に とっては、御名が侮られ、汚されていることは大きな悲しみです。
しかし、作者はこ の言い知れない痛みの中で、過去の恵みを思い起こし、すべてに主権を持っておられ る主の事実をとらえて祈っていることがわかります。
神さまがアブラハムを召し出さ れ、 エジプトにいるイスラエルを救い出されて、約束の地に入ったことを思い出す祈りを ささげている彼の執り成しを味わいながら、それが彼らの救いの土台であったことを思いました。
そして、私たちがきょうも生き、信仰の目を上げて祈ることができるのは、私たちの救いの土台、イエスさまの十字架と復活にあると、またしても頷かせていただき感謝しました。

作者は、1節で主に「なぜ、いつまでも拒み」と訴え、11節では、「御手を、引っ 込めておられる」と言っています。
そのような悲しみの現状からさえも、顔を上げ て、「主よ。…心に留めてください」と祈る幸いを、私たちも体験させていただきましょう。

2014年7月20日

「私は、神の聖所に入り」  詩篇73篇(A.K)

この詩篇は、37,49篇と並び、「義人の苦しみ」が主題になっています。
「なぜ、正しく生きようとする者が苦しみ、悪い者が栄えて豊かになり、自由気ままに、 何の心配なく生きているのか」という、いつの時代にも人々の心の中にある質問に、 真正面から取り組まれています。しかし、悲しみの言葉ではなく、まず、素晴らしい告白から始まっています。
「まことに」(1節)と、結局は、神さまご自身の事実に目を向けることができた人の、祈りの結果がまず歌われているのです。
そして2節から は、この確信から迷い出ていた時の自分の思いや、どのような過程を経て、神さまへ の信頼に戻ることが許されたのかが、正直に綴られています。
きょうはこの詩篇から、神さまに近づかせていただく恵みについて知らせていただきましょう。

〔1〕現実に囚われ揺らぐ心
73篇の作者アサフが抱えていた悩みは、悪者の繁栄という現実を見せられているこ とでした。
彼の悪い者についての観察が、十か節にも亘って書かれています。(2〜 12節)
彼は、自分が苦しみながら、真面目に潔く生きようとしていることが空し く、無意味のように感じ始めていき、その信仰に動揺を覚えました。(13〜16節)
そして、「そうではいけない、そんな筈はない」と一生懸命にそのことを思い巡らそ うとすることさえ、「苦役」と感じるほどの悩みとなってしまったことを述べています。
この葛藤は、アサフだけではなく、どの時代の信仰者も通過させられる課題かも しれません。
この世を見つめてしまい、その矛盾に動揺させられ、恵みに目を伏せて しまうなら、ふとサタンの誘いに負けそうになって、アサフのように「足がたわむ」 経験をすることがあるかもしれません。
そのような私たちに、神さまは、17節のお ことばを示していてくださいます。

〔2〕永遠へと転じた目と心
アサフは、苦悩と混乱の中でも、神さまから離れ切ってしまいませんでした。
17節 の彼の証しは、この詩篇の支点となる重要な聖句だと思います。
アサフが、「神の聖所に入って」つまり、神さまに近づいて、彼の心の目を永遠へと転じたからです。
彼 は、悩んでいた自分と自分の考えから目を離し、神さまの御顔を仰いだのです。
神さ まがいつも共にいてくださるお方であることを頭で知っているだけではなく、彼のよ うに、私たちの側で、この御方の「近くにいる」幸いに、意識的に心を転換させていただく、それが「聖所に入る」ということだと教えられました。
そしてアサフが、聖所からで改めて見つめたとき、悪い者たちの姿は一変し、彼は、それまで「繁栄」と 見えていた人々が、「滑りやすい所」に立っているのを知りました。(18〜20節)
私たちの目に、主の御顔が映るとき、全く違う理解と悟り、平安が与えられるので す。
イ讃美歌710番の詩を思い出します。
御顔を仰ぎなさい そのすばらしい御顔に 目を一杯に見開きなさい そうするなら主のすばらしさと恵みの輝きの中で地上のものは不思議なほど光を失うでしょう アサフは主のご臨在の中で、聖所に入る前の自分を、「獣のよう」だったと言ってい ます。(21〜23節)
しかし、彼は、主に手を捕えていただき、その信仰に全き回復 を与えられたと歌っています。
彼は、主の導きを知り、主御自身を望みとする喜びに 回復されています。(24〜26節)そして、「神の近くにいること」それが、アサフ が慕い続ける、最上の喜びとなったことが証しされています。(27,28節)
きょう、私たちと神さまとの関係・距離はどうでしょうか。
神さまに近づく者…「主 の前に座り」、「主に祈り」、「主を想い」、「主のみことばを味わい」、「主に聴 き」、「主と交わり」、「主を待ち望む」者となりましょう。
私たちは多くの問題に 囲まれ試みられ、苦しく困難な時を通過させられるかもしれません。
しかし、その中をくぐり抜けて、アサフのように、「神の聖所に入り」、1節の信仰を告白する者とならせていただきましょう。

2014年7月13日

「キリストの統治」  詩篇72篇(A.K)

きょうはこの詩篇に預言的に表され、私たちに約束されている、「キリストの統治」 について、その恵みを知らせていただきましょう。

〔1〕平和と正義によって

「神よ。あなたの公正を」、「あなたの義を」、「授けてください」(1節)とダビデは、ソロモン王の治世への祝福を祈っています。
彼は王たる者の判断が、神さまの公正や義を反映したものになるようにと願っているのです。
ソロモン自身も、王としての務めを果たすために、「善悪を判断して…聞き分ける心をしもべに与えてくださ い。」(T列王記3:9)と祈りました。
そしてそれは、「あなたの民」、「あなたの 悩む者たち」が正しく統治されるためだと願っています。(2節)エレミヤ23章6 節の、「主は私たちの正義」とあるみことばを思い出します。
また、3,7節には 「平和」がもたらされ、豊かに続くようにと語られています。このところ、<集団的 自衛権>に関することなどで、改めて「平和」とか「戦争」について論じられ、考えられることが多くなっています。
私たちが暮らすこの国と世界について、さらに祈ら なければならないことを強く感じさせられます。
その時、私たちクリスチャンが目を 留め続けるべきことは、この詩篇に表されているように、神さまの「義」によって平 和がもたらされるという約束です。
本当の平和のために必要なものは、主の義ときよさであるということを忘れてはなりません。
そして、その平和の統治は、18節に書 かれているように、「ただ、主ひとり」がおこなわれるのです。
すべてを御手におさ め、奇しい業をおこなわれる主が、みこころのとおりに私たちの信仰生活のすべてを みまもり、平和と幸いを与えて治めてくださるのです。

〔2〕悩む者を救い出して
6節から、刈り取られた牧草地を労わる優しい雨、またそこから新芽が吹くことを促すような潤い、また、青草が茂る頃に降り注ぎ、その地に成長を与える夕立が連想さ れます。そして、ダビデと私たちは、この祈りの世界で、私たちの所に恵みの雨とし ておくだり くださったイエスさまを見、このような豊かな恵みを実感するのです。
11節には、 主のご統治によって、すべての国々がお仕えすることが語られており、そしてそのわけが、 12〜14節に見出せます。
それは、主が、「助けを叫び求める貧しい者」、「助け る人のない悩む者」を救い出される方だから、という理由です。
また、「弱っている者や貧 しい者」、「しいたげと暴虐」にさらされている者を救い、彼らのいのちを贖い出さ れるからだと 記されています。
このように神さまは、私たちを圧制や脅威によってではなく、愛と 恵みによって顧み、救い出すという方法で、統べ治めてくださる真の王なのです。

〔3〕永遠に続くしあわせ
「日と月の続く限り」(5節)、「月のなくなるときまで」(7節)とは、期限ではなく、永遠に続くということを表している言葉です。
また、15〜16節には、その 永遠の幸せは、日々、継続的な喜びであることも表されていると思います。そして、 主の御名がいつまでも続き、すべての国々が主をほめたたえることが歌い上げられています。(17節)
締め括りの頌栄(18〜20節)を味わいながら、作者ダビデのことを考えました。
彼が、このように主の統治を高らかに歌い、望み見、そして信頼をもって委ね祈り終えることができたのは、彼の生涯がいつも順境で穏やかだったからではありません。
むしろ問題課題、試練と苦悩の連続を経験した彼が、その悲しみに留まり続けずに、 「キリストの統治」を、喜ぶ者とされたのは、彼がだだ王なる方を仰ぎ、愛と信頼を もって主と語らい祈り、みこころと導きに従い続けたからにほかなりません。

私たちも、このような神さまのご統治の下に生きる者とされた喜びを感謝しつつ、祈 り進ませていただきましょう。

2014年7月6日

「変わらない神さま」  詩篇71篇(A.K)

作者は、まず、苦悩の中から神さまに助けを求め、また、主への信頼を表明しています。(1〜3節)
祈らないと助けてくださらないので願っているのではなく、彼は、 このようにしてくださる神さまを知っているから祈っているのです。 彼が知ってい た神さまとは、どのような御方でしょうか。

〔1〕生まれたときから
まず、作者は、これまでの日々に目を向けています。
彼は、苦難の中を通り、今も、 苦しみを通っている人であることがわかります。
その中で、彼は、「生まれたときか ら」の神さまのみまもりを思い起こすことによって、恵みを数えています。
そして彼は、神さまは自分にとって、若いころからの「望み、信頼の的」だったと言っています。(5節) 彼の望みはただ神さまにだけ向けられているということです。
彼は、自分の誕生が神さまの御手によるもので、自分のいのちが神さまの御支配 の中にあることを知って、神さまに依り頼んでいました。(6節)
また17節では、 神さまが自分を教え導いてくださる方であると、彼は確信しています。
20節では、 「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに合わせ」なさったと言っています。
これこそ、自分の人生のすべてを神さまに委ねている人の言葉だと感じます。
「再び生き返 らせる」とは、直訳すると、「再度、いのちのある状態にする」ということだそうです。
苦難の中に置かれても、そこに、神さまの御意図があることを頷いて進み、その先にも、必ず、神さまのみこころの最善があって、私たちにはいのちが約束されていることを忘れない者でありたいです。
これらの、理解と頷き、平安は、神さまに贖い 出された(23節)私であるということが土台となっているのです。

〔2〕年老いた今もなお
次に作者は、年老いた自分に、なおも自分が信じているとおり、神さまが変わらない御方であってくださることを見つめ、願っています。
そして10〜13節でまた、現 状の苦しさを述べていますが、14節でそれらを跳ね返して、「しかし」と言い、年老いたことによって、弱められない主への信頼を語り、自分の口に賛美を再び取り戻 し、神さまの「義」を語り、神さまのただしさだけに心を留めようとしています。
「捨てないでください」(18節)と、彼は、決して自分を捨てることはなさらない神 さまに信頼を寄せて、祈っているように思います。

そして、年を重ねた信仰者だから こそできる、次世代に神さまを伝える働きを喜んでいるのです。
ある人が言いました。「年を取って、外面的な強さと美しさが失われていくのは、私たちが、永続する内面の強さと美しさに集中するようになるためです」と。
年老いた作者は、さらに主を想い、主が変わらない恵み豊かな御方であることを集中して知ることができたのでしょう。最後に彼は、さらに高らかに主をほめ歌い、その勝利を確信しています。
神さまが変わらない御方であること、それが信仰者の安心と確信です。
今、現在の私 たちの心が、この「変わらない神さま」から離れることのないように、主を知る者と して、進ませていただきましょう。

2014年6月29日

「極限の苦悩の中での祈り」 詩篇69篇(A.K)

きょうは、苦しみの中で祈る者が見つめていることについて、知らせていただきましょう。

〔1〕「この私は」
ダビデは1〜3節で、苦悩のどん底にある自分の姿を描いています。
4節にある、ダ ビデが「盗まなかった物」は彼の王位のことのようです。
彼はその立場を、自分で獲 得したのではありませんでした。
神さまに選ばれ、主の権威によって王となったのです。
ダビデはまだ少年のときに、王となるための油注ぎを受けました。
しかし、その後も依然として王位にあったサウルに手を下すことから飛びのき、決して王位を人間的な力で得よう とはせず、神さまの主権にお任せしました。
彼はサウルが死んだ後も、サウルについていた者を滅ぼそうとさえしなかったのです。
この時ダビデは、反逆者によって王位 を奪われそうになっていたと思われます。
それで彼は、このような自分の現状と内に ある悲しみ苦しみを見つめ、主に祈っているのです。
また5節にあるように、ダビデ は自分の愚かさを頷き、ありのままで神さまの前で認めています。
彼は、かつて大き な罪、あやまちを犯しました。
バテ・シェバとの姦淫と、その夫ウリヤを殺した罪で す。
12節までのところで、ダビデは非常な苦境に立たされていることを綴ってきました。
水が喉にまで入り、足がかりもなく押し流されるような苦しみの中で、自分に味 方する人は誰一人いないと。
けれども13節で、彼はそのような境遇と苦しみの迫 りくる力を押し 返すように、「しかし主よ」と言っています。
それは、「みこころの時に」と主を見上げ、神さまの愛と最善のみこころに信頼を置くことができたからでしょう。
私たちの信仰の要は、この揺るぎない信頼です。
彼は、神さまがそのご真実によって、みこころの時 が来れば、必ずこの絶望のどん底から高く引き上げて救ってくださると確信していたの です。

〔2〕「あなたを待ち望む者たちが」
5節で、自分の愚かさを神さまの前に持ち出しているダビデは、6,7節で、「あなたを待ち望む者たち」に、目と心を向けています。
彼が大罪を犯したとき、彼にその罪を 指摘したのは、預言者ナタンでしたが、そのときナタンは、「あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせた(Uサム12:14)」と言いました。
ダビデは、ナタンの言葉を思い起こしながら、ここで、「あなたを待ち望む人た ちが、私のために恥を見ないように…あなたを慕い求める人たちが、私のために卑し められないようにしてください。」と祈ったのではないでしょうか。
彼は、ひたすら 彼の周りの、主を慕い求める人々が、神さまへの信頼を失うようなことのないようにと、彼らを思い祈っているのです。

〔3〕「神を尋ね求める者たちよ」
どうしようもない苦しみと、悩みの叫びが綿々と記されているこの詩篇をみてきましたが、この重たく暗い、辛いこの詩篇の中に、輝くような32節の力強い呼びかけがあります。
この、「神を尋ね求める者」というのは、頭で神の存在を論議している人のことではありません。
神さまについて勉強をしている人の事でもありません。
神さまは確かに おられ、神さまは信頼する者を助け、救い出して下さることを心から肯き、知っていて、苦しみの中を通りつつ、神さまの助けを期待し、祈り求めている人のことです。
そして、ダビデは、あなたの祈り、叫びがそのようなものなら、「あなたがたの心を 生かせ」…元気を出しな さい、大丈夫ですよ。と言っているのです。
またこの奨励は、「神を尋ね求める」な ら、実は、神さまのほうから私を探し出してくださる、というお約束であると感じます。
深い嘆きによって始まったダビデの祈りは、神さまへの讃美によって閉じられています。
どんな時も神さまを信じ祈りましょう。

2014年6月22日

「確かな主の御臨在」 詩篇68篇(A.K)

この詩篇には、「神さまおられる」、「住まわれる」というような言葉が何度も出てきます。
きょうは、特に前半から、「確かな主の御臨在」について知らせていただきましょう。

〔1〕御前にあるということ
ダビデは、神さまの御前にあるということについて、語っています。
1〜4節のすべ てに、「御前」という言葉が出て来ます。
ダビデは、まず、「神よ。立ち上がってく ださい。」と、主の御臨在を願いました。
そして、主が来られることによって、恐怖 に包まれ滅びてゆく敵の姿に反して、御前での正しい者たちの喜びについて語ってい ます。
救いに 与った私たちは、このように神さまの御前にあることを、どれほど意識し、喜んでい るでしょうか。

〔2〕日々に御臨在を覚えて
7〜14節で、ダビデは、出エジプトの出来事を回顧して、神さまの民に対する導きと守りを語っています。
神さまは、イスラエルの民をエジプトから救い出し、彼らの荒野の旅を、昼は雲の柱、夜は火の柱によって守り導かれました。
ダビデは過去の出来事を顧みて、そこに主の御臨在の事実が確かであったことを歌っているのです。
そ して歴史の中や、過ぎてきた日々の中だけではなく、今も、これからも、神さまの御臨在の事実があることを頷いて、彼は神さまの「住まい」があり、主がそこに「おら れる」と述べています。
15節の「バシャンの山」は、イスラエルとレバノン、シリ アの国境にあるイスラエルで一番高い山、ヘルモン山のことです。
16節の、「神がその住まいとして望まれたあの山」とは、シオンの山のことです。
詩篇132:13,14をご覧下さ い。シオンの山は770mほどの小高い丘ぐらいの小山です。
しかし高い山々が、こ の小さな山を「ねたみ見る」と書かれています。
それは、「神であられる主がそこに 住まわれる」からです。
神さまの御臨在の場所には、「神のいくさ車」が数知れず備えられ、神さまの聖さが満ちているからです。
ダビデは、私たちにとっての最大の祝福は、聖なる御臨在あることを、このように美しく歌っているのです。
ジョン・ウェスレーは臨終の時、 「神が私たちと共いて下さる。
これこそが、最も善きこと…。」と言って目を閉じた と言われています。
私たちも、このような、主の御臨在の実感をもって、主に依り頼む者であらせていただきましょう。
ダビデはこの御臨在の事実が、「日々」に明確な ものであることをうたっています。
19節は、別の訳では、「日々、私たちをもろも ろの恩沢でいっぱいになさる方…」と訳されています。
また、へブル語の原文には 「重荷」という言葉は ないと言われています。
つまり、「日々私たちそのものを担われる主」という意味で あり、神さまは私たち自体を、丸ごと全部担ってくださる御方ということです。
イザ ヤ書63:9の御言葉が心に通ってきます。私たちに約束され、実感させていただく ことのできる「日々の御臨在」は、このような主との近しい交わりであり、愛の御方 への信頼であることを覚えましょう。

私たちのすべての日々に、神さまがおられるという、この確かな信頼と喜びの中を進 みましょう。
みことばをもって、ご自身のみこころを示し、私たちを導いてくださる 御方と共に、きょうも歌いつつ歩ませていただきましょう。

2014年6月15日

「御顔を照り輝かせてください」 詩篇67篇(A.K)

きょうは、詩篇67篇から、「御顔を照り輝かせてください」という祈りについて知 らせていただきましょう

〔1〕あわれみ、祝福してくださるように
1節の祈りは、イスラエルの上に神さまの祝福、平安を祈る、祭司的な祈りを背景に しています。
(民数記6:24〜27) 詩篇67:1では、まず、神さまに、「あわれみ」を 請い願っています。
「あわれんでください」と求めるときは、どのような状況でしょ うか。
新約聖書の記事(マルコ10:46〜52)の、盲人バルテマイが、イエスさま に「私を あわれんでください」と叫んだ姿を思いました。
主に向かって、そう言い続けることを 弟子たちにたしなめられながら、けれども彼は、「私をあわれんでください」と叫 び立てたのでした。
そのバルテマイの心と行動を、イエスさまだけは、「あなたの信 仰」と おっしゃいました。
主に触れていただく以外に解決のない自分の問題を知 り、主に祈る者は、「私をあわれんでください」と祈るのです。
また、それは、そう して主のもとに近づく 資格さえない、そのままでは神さまに対面すらできない罪人、けがれた自分が、主の御前に進むことができるのは「あわれみ」であることを知っている者の、へりくだっ た信仰の姿です。
神さまの「あわれみ」がなかったら、私たちは日々を生きることも、足を進めることもできないのです。
次に、「祝福し」てください、という祈りが あります。
受ける価値のない者が、「あわれみ」にすがって、恵みを求めることがで きるのです。

〔2〕御顔を照り輝かしてくださるように
そして、「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように」との祈りが続きます。
詩篇には「御顔」という言葉が30回以上も出てくるそうですが、約半分はこの箇所 のように、「御顔を照り輝かす」という言い方で、神さまご嘉納と祝福を表します。
そして他の半分は、「御顔を隠す」というように反対の意味を表現しています。
太陽 が常に照り輝いているように、主の恵みは変わりませんが、私たちのうちに、罪・け がれという かげりが生じると、それらが神さまとの関係を遮断してしまいます。
そのことを「御顔が隠れる」と言い、あわれみによって罪が除かれるとき、「御顔が向 けられ、照り輝く」と描写されているのです。
「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように」というこの祈りは、私たちが 神さまの祝福を受ける者として相応しい状態にしていただけるようにという願いです。

〔3〕民が主を畏れ、ほめたたえるように
そして、その祝福が、受けた者だけにとどまらず、全ての民への祝福となって、溢れ 出るようにという、スケールの大きなお祈りへと展開されています。
3節以降には、 すべての民が主を畏れ、喜び、ほめたたえるということが願いつつ歌われています。
私たち信仰者が、主との親しい関係を持っていることは、全ての人のさんびに繋がると信じて祈られているのです。
すべての国々がやがて、キリストに服従することを、 私は、どれほど信じ切って祈っているだろうか、と問われる思いがしました。この神の国の到来を思いながら、励ませていただきたいものです。
「御顔を照り輝かせてくださるように」という、1節とそれに続く祈りを私たちの祈 りとして進ませていただきましょう。

2014年6月8日

「救い出された者は」 詩篇66篇(A.K)

きょうは、詩篇66篇から、「救い出された者」が知ることについて、学びましょ う。

〔1〕恵みを証しする
1〜4節で作者は、神さまを畏れ、その御名、御力を讃美しています。
3節の「恐ろ しい」とは、悪いことを意味しているのではなく、私たちの考えが及びもつかないほどの御力をもって御業をなさる神さまへの畏れが表されている言葉です。
その御業について、恵みを回顧し、5,6節に語られています。
「神は海を変えて、かわいた地 とされた」とは、出エジプトのとき、モーセ率いるイスラエルの民が紅海をわたった 出来事、「川の中を歩いて渡る」とは、ヨシュアと民のヨルダン渡河の出来事です。
このような奇跡だけでなく、作者は、神さまが自分のたましいにも奇しい御業をな さってくださったことを述べています。
そして、作者は、知らせていただいた神さまを讃美し、喜び、証詞するようにと、 2,6,8,16節で呼びかけています。
私たちひとりひとりが神さまによって救われ、変えられた経験をもっています。
このように「救い出された者は」、「神が私の たましいになさったことを語」る、という務めがあるのです。

〔2〕試練をうなずく
私たちは試練に置かれることがあります。
しかしその中で、私たちを愛し、救い出してくださった、「精錬者」である神さまは、私たちの信仰を純化してくださることが10節に 示されています。
昔の人々は、金を精錬し、純粋になったかどうかを、そこに自分の顔を映して確かめたそうです。
同じように、神さまは私たちを、ご自身の御姿をうつす者に 変えることを目的として、私たちを試みられ、お扱いくださる御方です。
このようなメッセージを読んだことがあります。
「純化の過程は苦しいものかもしれませんが、 私たちが それによって崩れてしまうことはありません。私たちをきよめてくださる御方は、炉 のそばにいて、その火に気を配っておられるからです。」
私たちに忍耐することを学ばせ、信仰を成長させ、練りきよめてくださるために、神さまが試練をお与えくださるとき、それが、長くあまりにもつらく感じることがあるかもしれません。
しかし、その間中、決して私から離れず、私をお捨てにならない主の御思いと御手のあることを信じる者は幸いです。
神さまが私たちを置いてくださるところがどのような場所であっても、そこで、私自身に注がれている神さまのご愛を知り、試練をもうなずいて、あてはまら せていただきましょう。

〔3〕自由を実感する
12節の「豊かな所」へ「連れ出された」という表現に、神さまの御手によって、自由の世界へ入れられたことが描写されています。
1節から12節までは「私たち」が 主語ですが、13節からは、「私」が主語にかわり、作者が苦しみの中で、主に叫 び、誓い、そして応えられた経験が語られています。
そして、心に与えられた静かな 喜びを、作者は最後に歌っているのです。
これらの節に、神さまと自分のたましいに かげりなく、主を仰ぐ者には、主との豊かな自由な交わりの実感があることが綴られています。
そして、その喜びが「心に留められた」という言葉に込められています。
この詩篇にうたわれている喜びと確信を私のものとして、進ませていただきましょ う。

2014年6月1日

「あなたに満ち足ります」  詩篇65篇(A.K)

神さまご自身に満ち足りているダビデの詩から、その信仰を学ばせていただきましょう。

〔1〕祈りを聞かれる方
1節に「静けさ」という言葉があります。神さまに向かう心が与えられ、このような静けさの中に入れていただくこと、つまり「祈り」を知っている者は幸いです。
2節 には、祈りの場は私たちの側から進んでいく場所であることが語られています。
そして神さまが、「祈り を聞かれる方」であるというのは、過去だけでなく、今現在も「聞かれる方」である ということを示しています。
「肉なる者」とは、弱く、もろく、罪深く、祈りを必要 とする者のことです。
神さまはこのような私たちが必要とする御方です。
3節には、 神さまが咎に圧倒されている者を赦して迎えてくださる方であると記されています。
ダビデは、姦淫・殺人の罪を犯したことがありました。この節には、罪人であった自 分、弱い自分を認める祈りと、悔い改めの告白、そして、赦された確信がうたわれています。
そしてその経験によって、次の節の「幸い」が実感されるのです。
祈り手の喜び、私たちの幸いとはなんでしょう。
祈りによって、求めや願いを口にし、実際的 に答えが与えられ、解決されるということにまさって、神さまとの交わりにあるとい うことをダビデは歌っています。
この詩篇には、「あなた」が多く出てきます。
それ は、ダビデにとって、神さまが人格的な近しい御方で、目に見えないこの御方を、彼 が心の目ではっきりととらえながら、祈っていることを表していると感じます。
私たちは、このような「祈りを 聞かれる方」を、その方を見上げる静かな祈りの世界を知っているでしょうか。

〔2〕訪れてくださる方
5節で「恐ろしい事柄をもって」と言われていることは、すべての目撃者に恐れをいだかせるほどのなさり方で、神さまが私たちの敵を打ち滅ぼされるということでしょ う。
義なる神さまが行われる厳格なさばきは、誰にでもこの御方を畏れる事を教える はずです。
私たちが祈る時、自分に必要なものが何かを、必ずしも知っているわけで はありません。
神さまからの答えが 来たとき、その厳粛さに恐れおののくということがあるかもしれません。
けれども、 その中で、私たちに最善しかなさらない主の愛と恵み深さをも体験させていただくこ とができるのです。
この段落に記されている、すべてを支え治めておられる方が、小さな私たちを顧み、私たちのもとを訪れ、私たちに介入してくださるということに心を留めましょう。
神 の御子イエスさまは私たちの歴史に介入してくださいました。
私たちが主を知り救われ、こうして教会に集っていることも、主がひとりひとりに触れてくださった事実が あったからこそです。
8節について、ある本に、ここに描かれている日の出の喜びと日没の感謝があり続けるように、主はご自分のうちに喜びを見出す者に、喜びを与え ることをやめたりなさらない。と書いてありました。

9節に「主が訪れてくださる」とあります。神さまは、私たちを顧み、私たちを訪れてくださる方です。また、10〜12節には、恵みのしたたりについて触れられています。
恵みの雨が通った地は、肥沃にされます。これまでの道のりを振り返り、そこに神さまの恵みの跡のしたたりをとらえる者でありたいです。
そのとき、私たちに喜 びと賛美がわいてくる、と聖書は語っています。
このように主の恵みの豊かさに繋が り、主の愛に包囲されているという実感を 持っている者は、祈りの中で、私に訪れてくださる神さまを知ります。
私が過ぎてきた日々にも、また今現在にも、そしてこれからにも、平安と喜び、増し加えられる豊かな恵みの実りを見て、主を賛美することができるでしょう。

動きの多い中にあっても、この詩篇に語られているような静かな、しかし確かな主との交わりの豊かさを味わい、神さまご自身に満ちたりる者でありたいです。
恵みの主 を体験して、ここに歌い上げられているような静かな感謝の賛美に溢れて、また、次 の時へと歩みを進めさせていただきましょう。

2014年5月25日

「何を見つめて生きるのか」 詩篇64篇(A.K)

この詩篇には、「悪をおこなう者ども」の中に置かれているダビデの苦しい現状が訴えられています。
しかし、それが祈りの中で、やがて9節の「こうして」に続く勝利 へと導かれていることを思いながら、私たち信仰者が「何を見つめて生きるのか」と いうことについて、思い巡らしたいと思います。

〔1〕神さまと自分の関係を
第一に、神さまと自分の関係を注視するということが表されています。
まずダビデ は、神さまが、嘆く者の声を聞いて、自分の命を守ってくださる方であることをとらえて祈っています。
そして敵に囲まれている現状を述べ、「かくまってください」と 願っています。
ダビデは、悪い者の「舌」は「剣のよう」だと言い、また「苦いこと ばの矢」であると言っています。
これは、剣や弓矢で襲われる経験などない現代の私 たちにも、よくわかる痛みです。
ダビデにとって、彼らの中傷、言葉の攻撃が大きな 悲しみであったことが、うかがわれます。
そしてダビデは、「悪…不法を行う者」た ちは、神さまを畏れず、平気で自分を害すること、悪い計略をはかり、陥れ苦しめよ うとしていること、それを神さまさえも見破ることができないと考えていることを語 り、敵の心が神さまから離れ、隔たりをもっていると見抜いています。
その中でダビデは、自分をはじめとする信仰者を、4節「全き人」、10節「正しい者」、「心の 直ぐな人」と呼んでいます。
これは彼が高ぶって、自分を完璧な人間と言っているのではなく、神さまに対して真っ直ぐに心を向けている人でありたいという彼の信仰の 姿勢の表れだと感じました。
ダビデは、自分が見つめている関心事は、神さまとの関 係がどうであるかということだけであり、それが、苦難の中での忍耐と勝利の鍵であ ることを示しているのです。

〔2〕神さまの御手の動きを
二番目に、彼が見つめているものは、「神さまの御手の動き」であることかわかりま す。
悪者は工夫し、自ら考えぬいた計画が抜け目のないものであることを喜び、自分 たちの知恵と手のわざを見つめて過信しています。
しかし、ダビデが注目していたの は、彼らの手ではなく、神さまの御手の動きでした。
7節で彼は、神さまが悪者を倒 される様子を、その速さをも描きながら、明確に知って語っています。
先聖日の午後 の聖書の学び会は、福音書の最終回でした。四つの書の最後の部分を読み、イエスさ まについて、マタイが「王」として、マルコが「しもべ」、ルカが「人の子」、ヨハ ネが「神の御子」として、それぞれの強調点を貫いて締めくくっていることを味わ い、恵みをいただきました。
私たちが見つめる神さまの手は、権威に満ちた王の手、 静かに働くしもべの手、痛みも病も知り尽くした人の手、御子の愛による暖かな手… どのような御手でしょうか。
問題課題の中で、事態がどんなに深刻になっていくとき も、敵や自分が取ることのできる人間的な手立てに目を奪われるのではなく、神さま のなさる方法やタイミングをも含んだ、御手とその動きを一心に見つめる者でありた いです。

〔3〕神さまが下さる結果を
また、ダビデは、神さまが成されることの結末を見つめていました。
8節に、悪しき 者の厳粛な結末が記されています。
そのさばきは、見るものに畏れと敬虔の念を起こ します。
そして、最後に歌い上げられているように、正しい者はますます神さまに信頼し、主を喜ぶ勝利を得ることかできるのです。
常に祈りのうちに、主と私の関係、主のなさることとその結果を、信仰の目をもって 見つめながら、歩ませていただきましょう。

2014年5月18日

「私のたましいはあなたに渇き」 詩篇63篇(A.K)

ダビデはこの詩篇で、「渇き」ともに、正反対ともいえる「満ち足りる」ということばを綴っています。
彼の祈りから、信仰者の「渇き」と「満足」について、知らせて いただきましょう。

〔1〕ダビデの渇き
ダビデがアブシャロムから逃げるために、エルサレムを離れて向かったのは荒野でし たから、その場所で、彼は肉体の激しい渇きを覚えたことでしょう。
また、肉体だけ でなく、彼はたましいの渇きをも感じて主に訴えています。
1節にあるように、ダビデはしばしば神さまのことを「私の神」と呼びます。
彼はいつも、自分にとって個人的な、親密な御方である主を見上げて祈っているのです。
そ して「あなたを切に求めます」、「あなたに渇き」、「あなたを慕って気を失うばか り」、2節では、「あなたを仰ぎ見て」、6節「あなたを思い出し」、「あなたを思 い」、8節では、「あなたにすがり」と、その渇きの激しさを語っています。
それは、神さまご自身を必要とし、主との交わりを渇望している姿です。
私たちのたましいの求めは、彼のように切実なものでしょうか。
自分の内に、このような求めを確か に知り、主に申し上げているでしょうか。
ダビデのように、「私の神」、「私はあな たに」、「私はあなたを」と祈る者となりましょう。

〔2〕信仰者の満足
自らの渇きの訴え、主を求めるダビデは、祈りのうちに自分の願いが見事に応えられているのを実感していると思います。
彼のその「満足」を読み取りましょう。 私は自分の聖書の、表題の「荒野にいたとき」という言葉と、2節の「こうして聖所 で」という言葉をマークして線でつないであります。
「荒野」に居ながらにして、 「こうして聖所で」と言える、ダビデの信仰に感動したときに書き込んだものです。
まさに、信仰者が祈るとき、荒野は聖所となり、そこは苦難と孤独の場所ではなく、神さまと一対一で豊かな交流を許される所とかわるのです。
また、2節の「仰ぎ見 て」という神さまとの距離が、4節で「祈り」つまり「お話をし」、8節では「すが り」、「あなたの右の手は私をささえて」というように、どんどん近づいていっていることが見出せます。
私たちは祈りの中で、このような主との近しい交わりに与り、 満ち足りる者とされるのです。
さらにその満足は、外側に流れ出るものであることがわかります。
3,4,5,7,11節で、彼は繰り返して、主にほめ歌を歌っていま す。
その賛美は5節のように、豊かに「満ち足り…溢れる」ものでした。
また彼はそ の歌を、主の御翼の陰に隠れ、身を委ねながら歌っていることが7節に記されています。
そして、ダビデはそこから敵のほうを見ています。
9〜11節の客観的な表現か ら、彼が現実に翻弄されることなく、ゆったりと主の御手の中に憩っていることが感 じられます。
ダビデの詩に綴られている「渇き」と「満足」を、主との交わりの中で、私の告白、 賛美とさせていただきましょう。

2014年5月11日

「沈黙の中に」  詩篇62篇(A.K)

この詩篇の中にうたわれているダビデの沈黙の姿と証しから、「黙ってただ神を」と いう信仰について学ばせていただきましょう。

〔1〕守りの確かさと敵の儚さを見る
ダビデが苦しみの中で取ったのは、「黙って、ただ神を待ち望む」という姿勢でし た。
自分で自分を守ろうとするのではなく、また敵に対抗をせず、沈黙することを選びま した。
そうしたことで、変わらない現状の中で、彼が体験した守りの確かさがうたわ れています。
2節の「ゆるがされない」よりも、6節の「ゆるがされることはない」は、「奪われ ない」「打倒されることはない」という、さらに強い意味だそうです。
また、彼が沈 黙の中に目にしたものは、彼らの儚さでした。ダビデは、自分の敵が、非常に危うい ところに立っているのを見ました。
そして、最後の12節でダビデは、彼が見た神さ まの彼らへのさばきを述べています。
沈黙の中で、ダビデは自分が主の確かな守りに 囲まれていることと、敵の最後を見たのでした。

〔2〕救いの足音と神さまの声を聞く
スポルジョン師の「ダビデの宝庫」という本を読んでいましたら、この詩篇につい て、 美しい表現がありました。
「信仰者は沈黙すべきことを学んでいるので、救いのやっ て来る足音を聞き取ることができます。
私たちの救いは、何らかのより劣った源から 来ることは決してありません。」と。
信仰者は静まって、「救いの足音」を聞くので す。また5節に「私の望みは神から来る」とあるように、自分の希望の泉が、神さま であることを知り、それが湧き溢れる音を彼は聞きました。
また、ダビデは、自分が 心を注ぎ出して祈り、 より頼んだ神さまからのお応えとして、「力」を実感しています。
彼は、沈黙によって主の声を聞いたと言っています。
彼は、神さまが一度、告げられ た みこころを聞き分け、さらに黙して、そのおことばを思い、反芻してしっかりと受け 止め、「力」も「恵み」も神さまのものであることを確信したのです。

〔3〕主に信頼することの幸いを知る
彼は、8,10節を人々に向けた言い方で語っています。
ここに、彼が、沈黙の中で見聞きし、体験的に知った幸いは、「どんなときにも」に も 通用することが保証されています。
「どんなときにも」とは、例外な時がないという ことです。神さまは、逆境の中も、順境のときにも、神さまに信頼することの幸いを うたう 彼の言葉の中に、それが私たちの歩みの、祝福の鍵となり続けることをお約束くだ さっていることを覚えましょう。
私たちも、ダビデのように、主の前で黙することを学びつつ、祈りの生活を進ませて いただきましょう。

2014年5月4日

「祈ることができる幸い」  詩篇61篇(A.K)

患難の中から主への信頼をもって祈られているこの詩から、「祈ることができる幸 い」について知らせていただきましょう。

〔1〕衰え果てたときにも望みをもって
「衰え果てる」という言葉は「圧倒される」という意味にも訳されるそうです。
作者 は、どうすることもできない圧倒された状況に取り囲まれて、まず、神さまに祈り叫 びました。
1,2節で彼が自分の祈りについて、「叫び」、「呼ばわり」と、苦悩の 中から行き着いた、激しいものであることを表していると思います。
クリスチャンの 恵みは、いつでも神さまに祈れる事です。心が弱り衰え果て、地の果てにいるような 状況でも、愛する天の神さまに心を向けて、親しくその御名を呼ぶことができます。
そして神さまは、私たちの足りない言葉にも耳を傾け、お心に留めて下さいます。
主 は、私たちの呼ぶ声や、叫びを聞き流しにはなさらない御方です。どのような境遇に 置かれていても、そこから主に、叫ぶことができる幸いを覚えましょう。
ここで第一に願われているのは、「私を導いてください」ということでした。
彼は 「私の及び難いほどの高い岩の上に」と祈っています。3,4節から、彼の望みは、 問題課題から離れるということではなく、力尽き果てたような状況の中で、高き所に おられる主ご自身へと、自分を「導いてください」という祈りであることがわかります。
私たちは、喜びのときも、悲しみ苦しみのときも、感謝や願いをもって、神さま に祈ります。特に、問題課題に直面するたびに、私たちは神さまにおすがりして祈り ます。
しかし私たちの心が、その現状に占められてしまうあまりに、困難の原因や実 状が改善されたり、解消されたりすることばかりを求めてしまい易いのではないでしょうか。
そうではなくて、この詩篇の作者のように、まず神さま ご自身のもとへと、私を引き上げ、憩わせていただくことに望みを置く祈り手となら せていただきたいものです。
衰え果てたとき、このような望みをもって祈るなら、私 たちはパウロが言っているような体験をさせていただくことができるのです。
「…私 たちは…耐えられないほどの圧迫を受け…心の中で死を覚悟しました。
これは、もは や自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでし た」(Uコリント1:8,9) 私たちが、主ご自身を求めて祈るなら、今、直面して いる問題課題は、神さまご自身をさらに知らせていただく好機となるでしょう。

〔2〕願ったことへの主の応えを知って
続いて作者は、主の応えを受け取っています。(5節)
彼のように、神さまのお応え を信じる者は、それを先立って受け取り、さらに、その祝福が続くことを信じ大胆に 願うことができるのです。
そして、祈りのうちに、彼は賛美する者とされています。
管弦楽や吹奏楽など複数の楽器で演奏をするとき、まず、チューニングをします。
こ の詩篇を読みながら、ふと、その 光景を思いました。
現実を見て、ぶれそうになるとき、「祈り」へと私たちの心を調 律する ように合わせ、曇りなくはっきりとみこころを見させていただくなら、私たちは美し い賛美を奏でる者へと変えられていくでしょう。

2014年4月27日

「神によって…の条件」  詩篇60篇(A.K)

きょうは、詩篇60篇より、神さまによる勝利の秘訣について学びましょう。

「神によって」という時には、いくつかのことが前提条件となります。そして、それらは同時に、
信じる者の特権でもあることを覚えながら、思い巡らしましょう。

〔1〕主との正しい関係をもつ
神による勝利の条件は、第一に、神さまとの正しい人格的な関係をもつということで す。
まず、ダビデは、彼らが味わった敗北について述べています。
もちろん彼は、それま でに勝利をも経験した勇士でした。
しかし、彼は、それは神さまが勝たせてくださっ たのだということ、また、神さまと共に戦うのでなければ、どのような戦いもむなし いことを忘れませんでした。
彼は、戦いのすべてに神さまの御介入、御干渉がない限 り、絶望的であることを、敗北を顧みながら認めています。
4,5節で、ダビデは自 分たちのことを自分の側からは「神を恐れる者」、そして神さまの側からは「あなた の愛する者」と見て、祈っています。
また、「旗」という言葉で、勝利の保証 明確 な所属の自覚を表しています。
イエスさまの十字架を自分のためと信じて、神さまに立ち帰った者は、神さまと和解 し、神さまに愛されている自分を認めることができ、主を味方として勝利を望むこと ができます。
ダビデはこのような神さまを自分の主として捉える、個人的、人格的な 関係をもって、交わりの中で神さまを仰いでいるのです。
大きな試練や問題、また戦 いに直面することは自分と神さまが、どんな関係にあるかを反省吟味する良い機会です。
神さまとの関係に私たちの意識的不服従や不信仰はないでしょうか。
6〜8節に は、神さまご自身の御言葉として、神さまが正しくご覧になり、見抜かれ、裁かれる 方であることが表されているようです。
謙って神さまに立ち帰り、「主を恐れる者」 として、主と正しい関係を持つ、主のものとならせていただきましょう。

〔2〕内容の慎重な吟味をする
次に、神による勝利の条件として読み取れるのは、取り組む内容の慎重な吟味をする と いうことでしょう。なぜなら「神によって」と語られているからです。
そのように、 祈り告白するには、私たちが取りくみ、とりかかろうとすることが、「神によって」 と言える内容・性質でなければなりません。
また、その内容の吟味とともに、その理 由と動機が 探られます。
御霊に調べていただく時、主なら、なさるであろう手段や方法が見えて きます。
そして、私たちは、ゴーサインや、あるいはストップ、みこころの通りに切 り替える必要を知るのです。
このように、「神によって」の勝利は、わがままの勝利 ではなく、神さまの勝ち方に委ねることですから、その信仰の決意をもって、問題課 題と自分自身を主の前に持ち出させていただきたいと思います。

〔3〕主の方法により実践する
最後に、神による勝利の条件として言えるのは、これらの事について、実際の活動や 行動に移すということでしょう。
敗北を顧みつつも、勝利の信仰に立ち、さらに神さ まからの直接的な手ごたえをいただいたダビデは、神さまのご干渉なくして勝利がな いということを語っています。
「人の救いはむなしい」と歌いながら、ダビデは少年 の日の、初めての戦場での経験を思い起こしていたのではないでしょうか。サウル王 が備えた、よろいや かぶとは彼の力とはなりませんでした。
彼は羊飼いの武器を使いましたが、それに よってではなく、万軍の主の御名による勝利を体験しました。彼は、この詩篇を、強 く大胆な 確証で締め括っています。
私たちは、今、どのような課題に直面しているでしょう。
それらにも、「神によっ て」 果敢に取り組ませていただきましょう。「神によって」の勝利は、単なる思想や思索 ではなく、祈りであり、私たちに実現するものであることを信じて進ませていただき ましょう。

2014年4月20日

「真実な愛の力」  マルコ14:3〜9(A.K)

主イエスさまへの真実な愛はどのような力を持つかということを学びましょう。

〔1〕行動に表わされる愛
女は、多くの人々の注目を浴びながら、主に近づき、「つぼを持って来て」、「割 り」、「注いだ」と書かれています。
彼女の心の中に満ちた主への愛は、彼女を具体 的な行動へと動かす力を持っていたのです。
それは最善の行為でした。ナルドの香油 は高価で、300デナリ(約10ヶ月分の生活費に相当する)以上の価値がありまし た。
主は、私たちが主に対して、 惜しまず、残りなくすべてを…という心をもち、そのように働くとき、満足してくだ さる方です。
なぜなら、神さまご自身が惜しまない方だからです。
ただし、主がご覧 になるのは、この場合のように、それが高価で大量なものだからでなく、その人に とってベストであるという点です。
主は、女がしたことを、「自分にできること(成 しうるかぎり)」をした、とおっしゃっています。
また、彼女の行動は、非難に負け ないものでもありました。
彼女の ことを、人々は非難したと書かれています。
けれども、主は「そのままにしておきな さい。…わたしのためにりっぱなことをした」とおっしゃいました。これは、奉仕の やり取りと いうことにまさる、愛の交流です。それは、主の近くにいて、御愛を知り、主への愛 の力で行動する者だけが体験する恵みです。

〔2〕理解に表わされる愛
人々は彼女のしたことを愚かな浪費であると責めました。
しかし主は、それがご自分 の埋葬の準備であると評価なさいました。
このころ、主が成し遂げようとしておられ た十字架の死を、弟子たちさえも深くわかろうとしませんでした。しかし、彼女だけ は、それを理解することができたのです。
彼女の行動は、愛の力による理解にたって 準備され、計画された行為だったのです。先週の礼拝で、イエスさまがとらえておら れた「時」ということについて 味わいました。
まさに、彼女の行動は「主の時」を察知した最善のささげものでし た。
香油そのものの価値で見積もった人々の言葉は、一見、正しく聖徒らしい提案で あるように見えます。しかし主は、彼女の理解の深さと、そこに表わされている愛の 力をご存知で、皆の前で8節のように言ってくださったのです。

〔3〕証しに表わされる愛
ナルドというのは、オミナエシ科の宿根草で、とても香りが強い植物だそうです。
今 でも、 ヒマラヤ山中の村で栽培されていて、乾燥させたものが漢方の香として輸入されてい ると いうことです。
その香りがどのようなものか知りませんが、その実際の芳しさにま さって、女が主に対してささげた、彼女のすべてをかけた行為の芳香が広がった美し い情景を、想像することができます。
この家には、彼女のことを批判する人々や主を 裏切ろうとするユダ、また弟子たちがいました。
この香りはその人々をも包み、おそ らく、ご受難の日々に主と ともに香り続けたことと思います。
もしかすると、十字架を背負われた主が歩まれ た、あの悲しみの道にも、残り香として置かれたかもしれません。
イエスさまは、こ の証しが後世に、全世界にも伝えられることを語っておられます。
私のために十字架でいのちを投げ出してくださったイエスさまは、今もその溢れるご 愛で私たちを見つめておられます。
私が、この主の愛を本当に知るとき、その愛は私 たちの心に 溢れます。
そして、私たちの主への愛もまた豊かにされて、その愛の力によって、主 と近く歩み続けるものと成長させていただくことができるのです。

2014年4月13日

「祈りの中に貫かれている信仰」  詩篇59篇 (A.K)

きょうは59篇から、祈りの中に貫かれている信仰について学ばせていただきましょう。

〔1〕力ある主に依り頼むこと
苦境(Tサムエル19:10〜17)の中で、ダビデの祈りは実に徹底しています。
願いと叫びがいくつも述べられていますが、まず心に留まったのは、1節の「私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください」という祈りでした。
助けや解決は、多くの人が願うかもしれません。しかし大きな課題、追い迫る強い敵より遥かに高く「私を…上げてください」というほど大胆な祈りを、私たちは捧げているでしょうか。
それは高ぶりからではなく、無力で小さい自分を知る、へりくだった者が、力ある神さまに信頼して告げる願いです。
そして主は、このような大胆な祈りを喜んでくださる御方です。
またダビデは、自分ではなく、主が戦ってくださるようにと願っています。
ローマ13章に、復讐は主のものであることが書かれていますが、彼は、裁き、滅ぼす権限も、そのための力も神さまにあると知っていたのです。
事実、ダビデはサウルに対して、彼が死んだ後までも、彼に対する敬意を失いませんでした。
それはこのような、神さまにすべてをお任せする信仰があったからでしょう。
これらのように、この詩篇の中には、ダビデの、「力ある主に依り頼む」信仰が貫かれているのです。

〔2〕主から目を離さないこと
彼は、最初に「わが神よ」と目を上げて祈り始めたときからずっと、神さまを仰ぎ続けています。
ダビデはサウルに対して何か罪を犯したわけではありませんでした。
むしろ彼は、サウルの忠実なしもべ、心を癒す存在、勇士でした。
けれども、そのどれもが、理由なく覆されてしまったかのような生活が始まったのです。
そのとき、主を見上げたダビデが、神さまの自分へのまなざしを求めている4節が、心に染みるように感じました。
見上げている御方が、私と私の現状や思いを見て、知っていて下さることを知る信仰者は幸いです。
「主イエスから目を離さないように」とへブル12:2にある通り、私たちが主を見つめ続けているなら、主の視線がわかり、
さらに「どうか、見てください」と願う者になるでしょう。ダビデは一貫して、神さまを見上げ、神さまのまなざしを感じる信仰者でした。

〔3〕砦なる主を賛美すること
多くの詩篇と同様に、この詩篇の祈りも賛美で終わっています。
祈りの中で主に依り頼み、さらに神さまを経験するとき、私たちには、賛美が生まれてくるでしょう。
9,17節に、「神は私のとりで」という告白が繰り返されています。
彼は、最後だけでなくずっと主をほめ歌っていたのです。
自分にとって、主はどういう御方かということを知っていくほどに、その霊的な知識は賛美となって表れ、その歌声は大きく明るくなっていくのでしょう。
ダビデのように、試練の中で歌う者が手にしているのは、「神は私の…」という確かな神経験です。
この詩篇には、「とりでである」彼の神さまへの賛美が貫かれているのです。

私たちも力ある方への信頼をもって、主を見上げ、ほめ歌い、祈り進む者に成長させていただきましょう。

2014年 [4月6日 バイブルクラス ジュニア〜成人科 きょうの学び]

「私をあわれんでください」  詩篇57篇 (A.K)


詩篇57篇は、「危機と祈り」について書かれたもので、表題のとおり、ダビデがサウルから逃れて洞穴に行ったときの詩です。

〔1〕主に身を避けている者を
「私をあわれんでください」と叫んだダビデは、「私はあなたに身を避けていますから」と、願う理由を述べています。
ダビデは、親鳥が翼の下で、ひなを守る様子を想像しています。
彼にとって、また私たちにとって、神さまの守りは冷たい囲いではなく、あたたかい血の通っている、愛に満ちた防御であることがわかります。
彼は、苦難の中にいる身であるけれども、神さまの愛で包囲されているということを信じて、「憐れんでください」と祈っているのです。
捨てられ、放り出されているからではなく、苦境の中でも、「私はあなたに守られ、愛されていることを知っています、あなたに身を避けていますから、憐れんでください」と祈る者でありたいです。

〔2〕主の手に委ねている者を
ダビデは、「主の手に委ねている者」として憐れみを願っていることとがわかります。
彼は、「私のためにすべてを成し遂げてくださる神に」と呼ばわっています。
このとき、ダビデが現実だけを見ていたなら、彼の心は揺らいだでしょう。
若いころ王として決められていた身でありながら、その日が来るとは思えない現実、神さまのお約束の通りにならないうちに、自分のいのちは尽き果ててしまうのではないかと、不安に襲われるときがあったと思います。
しかし、ダビデはそのような日々の中で、「成し遂げてくださる神」を仰ぎ、その御手に委ねることを選び、学んだのでした。
彼が、自分を救い出して下さる神さまを信じて、敵の中で「横になっている」という表現にも、彼が委ねていることが証しされています。
また、敵に対して何かを仕掛けることから手を引いて、すべてを、神さまがなさることに任せ、お渡ししている姿が読みとれます。

〔3〕主のもとで憩い歌う者を
また、「私を憐れんでください」と祈るダビデが、「主のもとで憩い歌いう者」であることを教えられます。
私たちはしばしば、心して「ゆるぎません」と言わなければならないときがあるように思います。
いつもの祈りにおいて、また、問題課題に囲まれた祈りの中でこそ、意識して神さまに「私は揺るぎません」と申し上げましょう。
ダビデはこの告白に続いて、祈りの座から立ち上がるようにして賛美をささげています。
これらは、現状が好転したからではなく、本当に主のもとで憩いを得たから歌うことができたのでしょう。
ダビデは、彼は自分が弱いことを知っていた人でした。
彼は、「私をあわれんでください」、「私の心はゆるぎません」と繰り返しながら、神さまの愛の翼の下に逃げ込み、信じて委ね、強くされることを経験しながら進んだのです。
私たちも神さまの守りの中に、祈りによって自分を持ちゆかせていただきましょう。
「恐れのある日に」(A・K)

2014年 [3月30日 バイブルクラス ジュニア〜成人科 きょうの学び]

                     詩篇56篇


詩篇56篇は、ダビデがサウル王からの逃亡の身であった頃、ガテで捕えられたとき に、うたわれたものです。「恐れのある日」に私たちが心すべきことを学びましょう。

〔1〕神に信頼する
ダビデのこの時の苦境について見てみましょう。→Tサムエル21:10〜12
彼は、「恐れた」と記されています。この時、ダビデは自分の内に「恐れ」があるという事実を認め、神さまの前に謙って述べています。
彼が感じていた恐怖は、命を狙われ、憎しみを持つ者に追われ続け、逃げ場の無い恐れでした。(1・2・5・6節)
ダビデは主の前に、強がらずに自分の苦しみ、悲しみを吐露しています。ゲツセマネのイエスさまも、このような祈りを父なる神に捧げられました。
苦境の現実を正直に告げたダビデでしたが、それにとどまらず、重要な決断をしました。
3・4節で、「恐れのある日に」と言った彼が、続いて「何も恐れません」と言う、 一見、矛盾と思われるようなこれらの表現の中に、信仰の真髄を見ることができます。
彼は、どのようにして「恐れません」と言うことができるようになったのでしょうか。
「私は…信頼します」と、神さまに申し上げたからです。
恐れに心を占められてしまったとき、私たちの目は、見上げるべき御方を見失い易いかもしれません。
しかし、そういうときにこそ心して、敢えて意識し、私たちの目を神さまに上げることが重要です。
そして、その方に苦しみも悲しみもお話しさせていただきましょう。
しかし、それだけではなく、そのようなことの中でも、神さまの愛と御力、
最善のみこころに信頼を置いて、自分自身と問題のすべてを、お委ねするという告白をさせていただきましょう。
このような信仰の決意と表明によって、今にも私を飲み込んでしまいそうな「恐れ」よりも、
はるかに強く高い御方に自分を結びつける時、「恐れのある日」にこそ「何も恐れません」と言わせてくださる神さまを、さらに近く体験することができます。

〔2〕神に感謝する
信仰者が流す涙を、神さまは見過ごしになさらないことを信じ、ダビデは「恐れのある日」を、「呼ばわる日」としたことがわかります。(8,9節)
そして彼は、みことばに啓示されている神さまのみこころと御真実をほめたたえ(10節)、またも繰り返して、11節のように言い、神さまへの感謝と献身を表明しています。(12節)
彼は、最後に、自分が恐れから解放されたのは、神さまによるのであり、
それは神さまとの交わりを回復され、そのいのちの道を歩み続けるためだったと祈っています。(13節)
恐れのある日に、神さまに感謝する者とされた彼の平安と納得の歌です。
ダビデは、恐れに囲まれ、休むことすらままならない中で「私は信頼します」と主に目を上げました。
神さまの皮袋に蓄えられた私たちの涙が、やがて祝福と喜びに変えられると、希望を抱き、みことばをほめたたえ、感謝をささげる者とならせていただきましょう。
「委ねるという結論」(A・K)

2014年 [3月19日 祈り会メッセージ]

                     詩篇55篇


 詩篇55篇には、反逆を受けたダビデの苦悩と叫びが記されています。
絶望の中を通ったダビデでしたが、やがて「あなたの重荷を主に委ねよ」ということができるようになりました。
きょうはこの詩篇から、「委ねるという結論」に至ることについて学びましょう。

〔1〕苦悩の中を通って至る
ダビデは親しい友らの裏切りにあい、孤独を味わいました。
そして、苦痛のあまりに彼は逃げ出してしまいたいという告白をしています。
そして、彼を最も深く悲しませたのは、敵となったのが、彼が愛してやまない親しい者たちであったことです。
しかし、彼はその失望の中で、神さまに祈り叫ぶことによって、委ねることを学んだのです。

〔2〕主に望みをおいて至る
ダビデは苦しみながらも神さまを見上げました。
ダビデにとって主は、16節「呼ばわる」者を「救ってくださる」方、17節「嘆き、うめく」「声を聞いてくださる」方、18節「たましいを」「贖い出してくださる」方、22節「心配し」「正しい者」を
必ず守ってくださる方であったことがわかります。
ですから彼は、悶え苦しみながらも、主に望みを置き、目を上げているのです。
彼が体験したのは、苦悩の中で、自分にも周りにも、何一つ望みが持てない状況に追いやられたときにこそ知る、主の臨在です。
胸をえぐられるような苦しみ、涙に暮れて、前方に一条の光も見えないように思われるときでも、
私たちが神さまを知っているなら、私たちはその問題課題で内側を蝕まれる必要などないことを覚え、どんなことも、主に持ちゆけるという私たちの特権を行使させていただきましょう。

〔3〕実際に依り頼んで至る
自分に敵対する者について神さまが対処してくださることを、ダビデは祈りの中で悟りました。
そして彼は、主により頼む、という決意をしたのです。
22節から「あなた」と、他に向けて言っているような表現に変わっているところから、彼が決意をもって立ち上がり、この段落にうたわれている勝利を、すでに体験したことが読み取れます。
きっと状況は何も変わっていなかったことでしょう。
しかし、彼が信仰の勝利を与えられたことがわかります。
Tペテロ5:7が心に通ってきます。
「あなたがたの思い煩い、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくだるからです。」
ダビデもペテロも、主に重荷をお渡しし、負っていただいたことを実際に経験してこう言っているのです。
ダビデが激しい苦悩の末に至った「委ねるという結論」を、私たちも祈りの中で知らせていただきましょう。
私たちの抱えている重荷を、ダビデのように神さまの御手に、手放してお渡しし、神さまご自身を新たに体験する祈り手とならせていただきましょう。
「感謝からうまれる賛美」(H・O)

[12月26日 祈り会より]

           「私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、
           あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。」
                          (詩篇138:2)


 イスラエルの第二代目の王として選ばれたダビデは、さまざまな出来事に遭遇しました。
愛する我が子を亡くし、彼自身も命を狙われ、彼の体、心、たましいは弱り果てました。
しかし、主の憐れみ、力、見守りが彼を支え、彼のたましいを強くして下さいました。
ですから、彼は「私が呼んだその日に、あなたが私に答え、私のたましいに力を与えて下さいました」とあかししています。
彼は、戦いの中にも主の臨在、見守り、助けを体験しました。
 今年私たちが直面しました問題・課題・戦いの中にも主の臨在、見守り、助けがありましたことを信じて感謝いたします。
その事実を私たち一人一人が頷き、おあかしできます恵みを喜び、主への感謝と賛美をもって今年を締め括り、新しい年も御業に期待させていただきましょう。
「なくならない平安」(H・O)

[12月12日 祈り会より]

           「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
           あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
           その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
                          (ミカ5:2)


 預言者ミカは、南王国ユダでヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世に活動しました。
彼は善を憎み、悪を愛するイスラエルの指導者たちに対するさばきを宣告しながら、 民に対しては“目立たない小さな町ベツレヘムからイスラエルの支配者が出る”ことを預言しました。
イスラエルの支配者は、民をアッシリヤの脅威から解放し、平安を与え、守り、導き、養って下さるお方として預言されました。
そして、その預言は約700年後に成就します。
 私たちは、救い主イエス・キリストが私の身代わりとなって十字架にかかって下さった事実を信じ、罪を悔い改め、救われました。
罪から救われた私たちの心の中には平安と喜びが与えられます。
今も、私たちの心の中は平安と喜びに満ち溢れていると思います。
残されたアドベントの期間、私たち一人一人に平安と喜びを与えて下さり、 守り、導き、必要に応じて養って下さる救い主イエス・キリストを思い巡らしながら過ごさせていただきましょう。
「主によって与えられる希望」(H・O)

[12月5日 祈り会より]

           「しかし、私の名を恐れるあなたがたには、
           義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。
                          (マラキ4:2)


 マラキは、主のあわれみによって罪の赦しが与えられる恵みの時、
救いの日が閉じられ、主がもう一度この地上に来臨される厳粛な日が来ることを預言しています。
そして、主がもう一度地上に来臨される時、高ぶる者、悪を行う者、主の御心に適わない者は主の審判を受けると伝えています。
主は、悪を行う者にご自身の義を現されます。
しかし、”どのような環境にあっても主に信頼し、主を愛し、喜び、敬い、畏れる人を弁護して下さる方。 傷ついた心を癒して下さり、喜びを与えて下さる方である”と希望のメッセージが伝えられています。
 私たちは、聖書を基準にして歩んでいるために社会や周りの状況との違いに葛藤し、戦いながら、主がもう一度地上に来臨される時を待ち望んでいます。
私たちの心から平安を奪い、主から引き離そうとするものはたくさんあります。
しかし、主が傷ついた心を癒し、喜びに変え、弁護して下さるとの約束に目を向けさせていただきたいと願わされます。
私たちは再臨を待ち望みつつ、一人一人の心の内に光・喜び・平安・平和を与えるために来て下さったイエス様を思い巡らす アドベントを過ごさせていただきましょう。
「備えられている祝福」(H・O)

[11月14日 祈り会より]

           「もし、あなたが聞き入れず、
           もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら、
           ―万軍の主は仰せられる―
           わたしは、あなたかたの中にのろいを送り、
           あなたがたへの祝福をのろいに変える。
           もう、それをのろいに変えている。
           あなたがたが、これを心に留めないからだ。」
                          (マラキ2:2)


 祭司たちは、神殿に仕える働きを委ねられているにもかかわらず 祭壇を冒涜し、軽蔑し、祭司としての働きを怠り、主からの叱責を受けました。
しかし、彼らは罪を悔い改め、主を敬い、委ねられている働きを忠実に行うことをしませんでした。
その結果、主は彼らに約束しておられた祝福をのろいに変えてしまわれました。
 今も主は、ご自身に立ち返ったのにもかかわらず悪を行う道に戻ってしまい、
不道徳を愛する人の姿をご覧になり悲しまれます。
反対に、主を愛し、従う人には祝福を約束して下さるお方です。
私たちが直面する問題・課題の解決の道は、簡単に開かれない場合があります。
しかし、十字架の死に勝利されたイエス様が解決の道を開き、答えを与え、全てを祝福して下さいます。
その事実を信じて前進させていただきましょう。
「すべての人に与えられている宝物」(H・O)

[11月7日 祈り会より]

           「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。
           あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。
                          (マラキ1:2)


 マラキは、イスラエルの民がバビロン捕囚からエルサレムに帰還し、 神殿再建に着手してから約100年が経過したエズラ・ネヘミヤの時代に活動しました。
その時代の人々は、再建されたエルサレム神殿で礼拝を捧げていました。
そのような中で、主は選民イスラエルに対して「わたしはあなたがたを愛している」と仰いました。
この言葉には、ぺヌエルにおける体験の中で、イスラエルへと名前が変えられたヤコブとその子孫に対する愛の大きさが表されています。
 もし私たちが「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と神様に問いかけたならば、
神様は「わたしは、あなたの身代わりに独り子イエス・キリストを十字架につけたよ。
わたしは、独り子イエス・キリストを犠牲にすることによってあなたに愛を示したよ」と答えて下さいます。
私たちは、神様が私の罪のために独り子イエス・キリストを犠牲にして下さったことを知り、
信じた時に「わたしはあなたを愛している」というメッセージを体験することができます。
あと一ヶ月でアドベントを迎えますが、神様が私に示して下さった愛を宝物として握り続けようではありませんか。
「クリスチャンの心を満たす方」(H・O)

[10月24日 祈り会より]

           「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。
           わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。」
                          (ゼカリヤ13:9)


 主は、預言者ゼカリヤを通して、イエス・キリストが人間の罪と汚れをきよめる時に偶像を断ち滅ぼし、
その名の記憶を人々から消し去ると約束されました。
また、ご自身から離れる3分の2のユダヤ人を滅ぼし、3分の1のユダヤ人を練り、試すと宣告されました。
主は、天地創造の神と民の関係を回復させるために、民を練り、試みの中を通らせました。
そして、その結果、民は「主は私の神」と信仰告白をしました。
 私たちクリスチャンは、確信をもって「主は私の神」と信仰告白ができます。
しかし、私たちが生活している日本社会には、魅力を与えるものが満ち溢れています。
ですから、神様以外のものが私たちの心を占めてしまう危険があります。
そのことを忘れず、いつでも“今、私の心を占めているのは何か”
“神様に私の心をご支配していただいているか”確認をさせていただき、
「主は私の神」と信仰告白をしながらクリスチャン生活を過ごさせていただきましょう。
「主の恵みに生かされる」(H・O)

[10月10日 祈り会より]

           「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
            彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って
            嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、
            その者のために激しく泣く。」
                          (ゼカリヤ12:10)


 主は、ユダの首長たちにご自身の力を現わされました。
そして彼らは、「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある」と主ご自身の存在と力を認めました。
預言者ゼカリヤは、「エルサレムの住民をかばわれる」主の臨在を語り、エルサレムの人々は“あなたのただ中に住む”と約束して下さった主のみ守りと臨在を体験しました。
主の恵みによって、ユダの首長たちとエルサレムの人々は、主御自身を体験することができました。
 私たちは、主の恵みによって救われました。私たちは、主の恵みによって聖い主とともに歩み、必要な助けとみ守りをいただくことができます。
さらに続く私たちのクリスチャン生活に、恵みを注ぎたいと願っておられる主ご自身の恵みを充分に体験しながら歩ませていただきましょう
「いつも近くにおられる方」(H・O)

[9月26日 祈り会より]

           「彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。
            −主の御告げ−」
                          (ゼカリヤ10:12)


 選民イスラエルに目を向けられた主は、バビロン捕囚によって各地に散らされている民を一つのところに集め、子孫を増やすと約束されました。
昔、主のあわれみを忘れ、荒野でつぶやいた民であるのにもかかわらず、主は彼らの中に臨在され、その歩みに同行されました。
彼らを導き、助け、必要な力を与えられたのは主ご自身です。
 私達と主を引き離そうとするものがたくさんあります。
自分の力で問題を解決しようとする時、反対に、 主に目を向けず自分の無力さだけに目を留めている時、人を拠り所とする時の自分自身が主との関係に距離を作ってしまいます。
しかし、主に従おうとするクリスチャン一人一人の中に生き、その歩みに同行して下さる主ご自身に拠りすがって歩ませていただきたいと思います。
「変わらない主の約束」(H・O)

[9月19日 祈り会より]

           「主の目は人に向けられ、
            イスラエルの全部族に向けられている。」
                          (ゼカリヤ9:1)


 主は、ご自身に従わない諸国の民に対して審判を宣告されましたが、
同時に、選民イスラエルに目を向けておられました。
そして、しいたげようとする者から守ると約束して下さいました。
旧約の時代に生きた人々にとって、メシヤ(救い主イエス・キリスト)の来臨の預言は大きな慰めと励ましであったでしょう。
しかし、今日、この瞬間も主に覚えられているという事実は、もっと大きな慰めであり、励ましであったでしょう。
 新約の時代にクリスチャンとして歩む私たち一人一人を慰め、励ましてくれるものは何でしょうか。
生きていて力がある御言葉、讃美歌の歌詞、同じクリスチャンにお祈りしてもらうこと等が慰め、励ましになる時があると思います。
主は、さまざまな形を通して慰め、励まして下さいます。
しかし、どのような形であっても主は、“あなたを見捨てない”という約束をして下さいます。
私たちがどのような状況にあっても、主の愛と恵みと臨在は変わりません。
その主御自身の愛と恵みと臨在の中を歩み続けるお互いとさせていただきましょう。
「必要を備えて下さる方」(H・O)

[9月12日 祈り会より]

           「彼らはわたしの民となり、
            わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」
                          (ゼカリヤ8:8)


 主は、バビロン捕囚から帰還した民が神殿再建よりも自分の生活を優先にしていた頃、
民の手によるすべての勤労の実にひでりを与えられました。
しかし、それから2年が経過した頃、バビロン捕囚から各地に散らされたままの民について
「彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる」と仰せられました。
また「平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らす」と
エルサレムの祝福を約束されました。
主は真実で憐れみ深く、恵み深く、一人一人の必要を備えて下さいます。
 私たちには、明日何が起こるのかわかりません。しかし、預言者ゼカリヤを通して働かれた主は、
今も変わりなく私たち一人一人の必要を備え、与えて下さるお方です。
昨日も今日もいつまでも変わらない主御自身に目を留めながら前進しようではありませんか。
「主に喜ばれるクリスチャン生活」(H・O)

[9月5日 祈り会より]

           「万軍の主はこう仰せられる。『正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、
            あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。
            互いに心の中で悪をたくらむな。』」
                          (ゼカリヤ7:9,10)


 エルサレム神殿の再建が再開されて2年が経過した頃、祭司たちと預言者たちに
「私が長年やってきたように、第5の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」と
尋ねる人々がいました。断食は、年に一度、贖罪の日に定められたものでした。
しかし、彼らは神殿が崩壊されたことを嘆き悲しみ、年に4回も断食を行いました。
彼らの姿をご覧になった主は、「このわたしのために断食したのか。食べるのも飲むのも、
自分たちのためではなかったか。」と動機を指摘されました。
そして「互いに誠実を尽くすように。あわれみ合うように。貧しい者をしいたげないように。
心の中で悪をたくらまないように。」と命じられます。主は、互いに愛し合うことを望んでおられます。
 私達は、主に喜んでいただける心をもって集会出席・お祈り・奉仕に励みたいと思います。
そして、互いに愛し合いながらクリスチャン生活を歩ませていただきましょう。
「義なる審判者」(H・O)

[8月22日 祈り会より]

           「わたしが、それを出て行かせる。―万軍の主の御告げ―
            それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを
            立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を
            梁と石とともに断ち滅ぼす。
                          (ゼカリヤ5:4)


 ゼカリヤは、「空を飛んでいる巻き物」と「エパ枡」の幻を見ました。
彼が見た幻は、大祭司ヨシュアやユダの総督ゼルバベルとともにエルサレム神殿を
再建しない人々の生活で行われていた盗みと偽りの罪を象徴するものでした。
主は、バビロン捕囚から解放されたにも関わらず、その憐れみを忘れて、
盗みと偽りに満ちた生活を送る人々に対してご自身の審判を宣告されました。
主は悔い改める人を赦して下さる憐れみ深いお方ですが、罪を明らかにされる審判者でもあられます。
 私たちは、人間の罪に対する主の審判が行われる事実を厳粛に受けとめながら、 家族・親族・友人の救いのために祈り続ける者でありたいと思います。
また、主の道を歩み続けられるように自分自身のためにもお祈りしようではありませんか。
「自分を懸ける走り方」(A・K)

[8月8日 祈り会より]

           「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。・・・
            私は自分の身体を打ちたたいて従わせます。
            それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
            自分自身が失格者になるようなことのないためです。
                          (第一コリント9:24〜27)


 ここに「決勝点」指差されている通り、終わりを見つめて。全うしなさいと 聖書に語られるということは、前進をやめてしまいたいという衝動に駆られるような事態が、 私たちに道にしばしば起こってくるということでしょう。
しかし、主はずべてをご存じで、私たちになお、力を尽くして走っているか?と問いかけておられます。
 先週の四国聖会で、講師の先生が、みことばを信じて生きるということについて、 「みことばと心中する」と表現された言葉の響きが心に残っています。
神様が「こうしてごらんなさい」と言われたことに、ベストを尽くして、 みことばに自分をかけてみるクリスチャンとなりたいものです。
 私たちの内に、力をもってお働きくださる御霊に、「私」を完全に従属させるという走り方を実践し、 身につける者とならせていただきましょう。
 御霊に明け渡して信仰の道を走り続けるなら、弱い私たちも勝利を経験していくことができる、 豊かな恵みを感謝します。
「御霊の御声をさやかに聞く」(H・O)

[7月25日 祈り会より]

           「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、
            能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」
                          (ゼカリヤ書4:6)


 ユダの総督ゼルバベルは、エルサレム神殿の再建に取り組む中、 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と主の声を 聞きます。
彼は、総督として多くの知識や経験、力を持っていたことでしょう。
その知識や経験、力は彼の働きにとって不可欠なものだったと思います。
しかし、主がご臨在なさる神殿を再建する時に必要なものは、総督としての 知識や経験、肉の力・強さ以上に「御霊」であると伝えられています。
主は、人間的な力で神殿を再建するのではなく、御霊の御声に聞き従いながら 働くように勧告されました。
そして『ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。』と 神殿の完成を約束しておられます。
 私たち一人一人にも、御霊に聞き従うクリスチャン生活が求められています。
また、教会の働きには、御霊による一致、御霊による頷きが与えられて前進することが必要です。
私たち一人一人の内に宿っておられる御霊の御声をさやかに聞く者でありたいと願わされます。
「十字架を仰ぐ日々」(H・O)

[7月18日 祈り会より]

           「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。
            あなたに礼服を着せよう。」
                          (ゼカリヤ書3:4)


 ある日、ゼカリヤは、よごれた服を着て主の使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、 彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンの姿を見ました。
大祭司ヨシュアは、イスラエルの民を代表して神の御前に行く務めを担っていましたから、 自分の罪ではなく、民の罪も担っていました。
サタンは、彼を訴えようとしましたが、 主は、『あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』と彼自身とその民の罪を赦して下さいました。
そして、『もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、 わたしの庭を守るようになる』ともう一度、大祭司の働きを委ねる約束をして下さいました。
 私たちは、イエス・キリストの十字架を信じて罪が赦され、クリスチャン生活を送っています。
しかし、私たちが自分の基準や社会の基準で「赦されない」と思い、必要以上に苦しみ時、主は十字架を仰ぐように 導いて下さいます。
日常生活に、さまざまな出来事の中で、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から 目を離さずに歩ませていただきたいと願わされます。
「主とともに前進する信仰生活」(H・O)

[7月11日 祈り会より]

           「わたしはあなたのただ中に住む。
            あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。」
                          (ゼカリヤ書2:11)


 主は、人間の罪の故に廃墟となった町エルサレムに帰還した民を あわれみ、「わたしは、あなたのただ中に住むために聖なる住まい から遣わされる」とご自身の臨在を約束されました。
 今までの罪を赦し、もう一度臨在して下さるという主の約束は、 民にとって大きな喜びであり、神殿を再建するための力となった ことでしょう。
 新約の時代に生きる私たちクリスチャンは、イエス・キリストの 十字架を信じて罪が赦され、救われました。
そして、主が再び来臨される時を待ち望んでいます。
その時まで、さまざまな問題・課題に直面しますが、 全ての主権を握っておられる主に信頼しながら前 進させていただきましょう。
「私たちに目を留めてくださるお方」(H・O)

[7月4日 祈り会より]

           「主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。」
                          (ゼカリヤ書1:17)

 預言者ゼカリヤは、エルサレム神殿の再建に取り組む民に対して 主のメッセージを語った後、いくつもの幻を見ました。
 彼が見た一つの幻の中で、主は、「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。 そこにわたしの宮が立て直される。わたしは、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。」 と仰せられました。
 主は、人々が悪の道から立ち返らなかったために廃墟となった町エルサレムをあわれみ、 回復を約束しておられます。
 主は、今日も世界各地に目を留めておられます。そして、不道徳などが行われる中で 信仰生活を送る私たち一人一人にも目を留めて下さっています。
 主のあわれみと恵みは変わることなく注がれています。
そのことに感謝して、始まりました新しい月、下半期も主の御前を歩まさせていただきましょう。
「御霊の声に聞き従う生活」(H・O)

[6月20日 祈り会より]

           「あなたがたの現状をよく考えよ。」
                          (ハガイ書1:7)

 預言者ハガイは、バビロン捕囚からエルサレムに帰還したのち、 廃墟となっている神殿の再建よりも自分の生活のために忙しく走り回る ユダヤ人に対して、『あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、 木を運んで来て、宮を建てよ』と主のメッセージを伝えました。
 主は、人々が「何のためにエルサレムに戻ってきたのか。 今、何を優先しなければいけないのか。」再確認することを願っておられたのです。
 そのことに気付いた人々は、主の御声と主が遣わされた預言者の言葉に聞き従い、 神殿の再建に着手しました。
 私たちが主に喜ばれる選択をしようとする時、それを邪魔するものがあるかもしれません。 それは、自分の願望や周囲の言葉かもしれません。しかし、私たちの内には御霊が宿っておられます。
その御霊の声に聞き従って、主に喜ばれる道を選び取っていくお互いでありたいと願わされます。
「主を賛美する信仰生活」(H・O)

[6月13日 祈り会より]

           「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。」
                          (ゼパニヤ書3:14)

 預言者ゼパニヤは、ユダをはじめ諸国の民に対して神の審判を宣告し ながら、悔い改めの機会と回復の約束が与えられている希望を伝えました。
そして、彼の働きによって悔い改め、苦難の中にあっても信仰を守 り通す人々が起こされます。
彼の悔い改めの呼びかけに応答した人々に は、さらに、「喜び歌え。喜び叫べ」と勧告がなされますが、主は、悪 の道から立ち返り、ご自身に身を避ける信仰者一人一人とともに歩み、 その存在を喜ばれました。
 主は、私たち一人一人の存在も喜んで下さいます。私たちを愛し、喜 び、救いの恵みに与らせてくださつた主は、困難の中にある信仰者と共 にいて下さいます。
その主を仰ぎ、賛美しながら歩ませていただくお互 いでありたいと願わされます。
「人々をご自身のもとに招かれる主」(H・O)

[6月6日 祈り会より]

           「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。
         そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
                          (ゼパニヤ書2:3)

 ゼパニヤは、ヨシヤの時代に活動し、主要な役割を果たした預言者です。
 彼が預言者として活動していた時代にも、南王国ユダの中には、暴虐と欺きが満ちていました。
ですから、主は預言者デパニヤを通して、彼らの罪をはっきり指摘され、「欺きの日は近い」と宣告されました。
しかし、「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」と 悔い改めの機会をお与えになりました。
主は、裁きの日を定めながら、悪の道を歩み続けるユダの人々をあわれみ、悔い改めの機会をお与えになりました。
 現代も、主から離れた生活を送っている結果として、社会や人間の間で不道徳が行われています。
そして、主は、裁きの日を定めておられます。しかし、 一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる主は、人々をあわれみ、 ご自身のもとに招いておられます。
一人でも多くの方々が主の招きに応答することができますように祈り求めたいと思います。
また、自らが主の招きに応答した時のことを忘れずに信仰生活を送らせていただきたいと願わされます。
「主を仰ぎながら約束を待つ」(H・O)

[5月23日 祈り会より]

           「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」
                          (ハバクク書3:18)

 本書は、神の選民であるユダがカルデヤ人によって裁かれることを不可解に感じた預言者ハバククの叫びから始まり、賛美で終わっています。
 ハバククは、「もしおそくなっても、カルデヤ人が裁かれるのを待て。私の時がある。 その時は必ず来る。遅れることはない」とおっしゃる主の約束を信じました。
彼を取り囲む状況は変わりませんでしたが、彼も変わらずに、主に対する信頼を持って「私は静かに待とう」と信仰告白をしました。 さらに彼は、「私は主にあって喜び勇み、救いの神にあって喜ぼう」と主御自身に目を向けて賛美する人に変えられました。
 主は、私たち一人一人に関わることの中にも「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。 遅れることはない」と約束をして下さっています。しかし、私たちの目にはさまざまなことが映り、人の声・言葉が聞こえてきます。 また、自分の考えや感情もあります。しかし、主は、「私の御前を真実に、忠実に生きるように。
不動の信頼を置くように」と励まし、語りかけて下さいます。私たちが、主の約束を信じて歩み続けられるように励まし、 語りかけて下さる主御自身を仰ぎながら、一週間を過ごさせていただきましょう。
「ご真実な主とともに歩む」(H・O)

[5月16日 祈り会より]

           「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。
            しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
                          (ハバクク書2:4)

 ハバククは、『あなたは昔から、私の神。主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう』と主を待ち望みました。
そして、主は、『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない』とお答えになり、
ご自身の「時」があることを教えられました。さらに、『正しい人はその信仰によって生きる』と仰いました。
『その信仰によって生きる』とは、「真実に、忠実に生きる」「主に不動の信頼を置く」という意味が含まれています。
主は、ご自身に不動の信頼を置いて叫び続けたハバククに答えて下さいました。
彼を取り囲む状況は変わりませんが、主御自身の時と方法を用いて、強暴な国民カルデヤ人に対する審判を行なうと約束して下さいました。
 今日も主は、私たち一人一人が問題・課題に直面する時、共にいて、ご自身の時と方法を用いて全てを最善に導いて下さいます。
そして、全てを最善に導かれることを通して、ご自身の臨在と力をお示しになります。
主は、真実なお方です。私たちは、その主の御前を真実に歩むことができているでしょうか。 信仰を新たにして、新しい一週間を過ごさせていただきましょう。
「主に叫び求める信仰」(H・O)

[5月9日 祈り会より]

           「主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。」
                          (ハバクク書1:12)

 ハバククは、神に代わって人々に訴えるのではなく、人々に代わって神に訴える預言者でした。
彼が預言者として活動した頃、南王国ユダの中には暴行と暴虐が満ちていました。彼らの悪を見たハバククは、主に助けを叫び求めます。
そして、主は、「彼らを裁くためにカルデヤ人を起こす」と答えられました。
カルデヤ人は、強暴で激しい国民であり、王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う人々でした。
そのような人々によって神の選民であるユダが裁かれるのは、ハバククにとって矛盾した出来事でした。
しかし、彼は、矛盾した出来事の中にあっても向き合わなければいけない現実に向き合い、『あなたは昔から、私の神』と個人的な信仰告白をしました。
彼の信仰告白の背景には、数多くの主との出会いがあったと思います。彼は、人にではなく、主御自身に全的信頼を置いて叫び求めました。
 私達も日常生活において、何故?と思うような出来事に直面するでしょう。心を痛め、涙を流す時もあるでしょう。
そのような時に私達は、主との出会いを一つ一つ思い出して主御自身に信頼を置き、叫び求めたいと思います。
また、主との関係を個人的に確立することを学ぶ機会として捉えさせていただきたいと願わされます。
「主を待ち望む歩み」(H・O)

[4月25日 祈り会より]

           「主は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される。」
                            (ナホム書2:2)

 ニネベの人々は、ヨナの伝道と神様のあわれみによって、神様の裁きから逃れることができました。しかし、ニネベの人々は悪の道に戻ってしまい、再び神様の裁きを宣告されます。
ナホム書2章には、ニネベの町が陥落する様子とその結果が記されてあります。
 ニネベの町は、四つの町の統合体であり、高さ30メートルの城壁に取り囲まれ、その面積は560平方キロであったと言われています。
その広大なニネベの町が一瞬にして破壊されました。神様は、不義を見過ごしになさらず、御自身の主権によって正しく裁かれるお方です。
 そして、神様は、南王国ユダに対して「ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される」とアッシリヤ帝国からの解放を約束されました。
神様の約束は、南王国ユダに大きな慰めと希望を与えたことでしょう。
 今の時代も、多くの国や人々が慰めと希望を必要としています。私たちは、全ての問題が解決され、平和になることだけを望みやすい者ではないでしょうか。
しかし、クリスチャンにとって希望となるのは、主が再びこの地上に来られる再臨の時であり、新しい天と地が創造される時です。
新しい天と地では、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないと約束されています。
私たちは、常に問題・課題に囲まれていますが、復活の主、勝利の主が再び来られる日を待ち望むお互いであらせていただきましょう。
「あわれみ深い主」 (H・O)        2012/4/22

           主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。
           主に身を避ける者たちを主は知っておられる。
                         (ナホム1:7)

 ナホムは、アッシリヤ帝国の首都ニネベに対する神様の審判・裁きを預言した南王国ユダの預言者です。
 ナホムは、ニネベの人々に対して、「主はねたみ、復讐する神。復讐し憤る方。」と伝えています。
「ねたみ、復讐、憤り」は、私たち人間も生まれ持っている感情であり、時にはこれらが自己中心の表れとなって悲しい結果をもたらします。
しかし、主がねたみ、復讐し、憤られる背景には、私たち人間に対する愛があります。私たちひとりひとりは、神様と共に愛の中を生きるために創造されました。 ですから、主は、私たちが創り主であるご自身以外のものを神として拝むことをおきらいになるのです。
ニネベの人々が悪の道から立ち返りたいと努力していることをご覧になり、彼らをあわれみ、下そうと思っておられるわざわいを思い直されました。
 主は、新約の時代に生きる私たちが神様と共に愛の中を生きることができるように救い主イエス・キリストをお与えくださいました。
主は、今日も私たちひとりひとりが置かれている環境・立場、その中で必要としている事柄を具体的に知り、あわれみ、恵みをもって導いてくださるお方です。
 新しく始まります一週間も主を信じ、主を見上げて歩まさせていただきましょう。  
「その罪を海のうちに」 (A・K)        2012/4/15

  もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、
すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
                         (ミカ7:19)

 ミカ書の最終章は、回復の祈りと賛美で締めくくられています。
 その中の、特に19節を心に留めたいと思います。
ここに「もう一度」と述べられているのは、悔い改めの機会がまだ残されていることを表しています。
 しかし、それが何度も繰り返されるものではないという示唆も含まれているようです。
 主のあわれみにすがり、「私たちの・・・罪を海の深みに」と祈る、この嘆願の言葉の中に、同時に、 全き赦しのみわざの約束が語られていることを知らされ、深い感謝をおぼえるものです。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を
私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

あなたは私のすべての罪を、
あなたのうしろに投げやられました。(イザヤ38:17)

 救い主による徹底的な罪の処分が、この身になされたことを、きょうも感謝し、赦しの恵みをお伝えする者であらせていただきましょう  
「みこころを求める祈り」 (A・K)        2012/4/8

   アバ、父よ。…どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。
                         (マルコ14:36)

 受難週、最後の晩餐の後に、イエスさまはゲツセマネの園で祈られました。
このゲツセマネの祈りは、悲しみの中で捧げられた祈りでした。
主はこの時のお気持ちについて、「悲しみのあまり死ぬほど」と表現しておられますし、
その御心を深く理解できない弟子たちさえも「彼らは悲しみの果てに眠り…」と記されています。
 主はまず、「アバ、父…おとうさん」と呼びかけ、そのような思いをありのまま神さまに告げられました。
イエスさまにとって神さまのご意志は明確だったので、この苦しみの杯が取りのけられないこと、
ご自分に委ねられた使命が何であるかを、主は充分に理解しておられたはずです。
しかし、イエスさまは、苦しみもだえながら何度も祈られたのです。
そうして、恐れや憂いを抱えながら歩む私たちが、そのようなときにどう祈ったらよいかを、
身をもって示してくださったのでしょう。
 このイエスさまの祈りは、このときに、初めてささげられたものではありません。
「今、わたしの心は騒いでいる。…わたしをお救いくださいと言おうか。
いや。このためにこそわたしはこの時に至ったのだ」と、弟子たちに語られた通り、
主はそれまでもずっと、ご自分の思いと向き合いながら、祈りの中で、
父のみこころを求め続けてこられたのです。そしてゲツセマネの祈りは、
ユダの手引きでやって来た人々に捕えられる直前まで続けられました。
 イエスさまに倣(なら)って、どんな状況にあっても祈り、神さまとの親密な交わりの中で、
みこころを知って進む者でありたいです。
「主が定められたこと」(A・K)         2012/3/18

   ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの民族の中で最も小さいものだが、
  あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
   その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
                         (ミカ5:2)

 この救い主、降臨の お約束を味わいつつ、その成就に見られる不思議について思い巡らしていました。
 この預言の約700年後、マリヤが受胎告知を受けたのはガリラヤのナザレでした。しかし、ミカによって約束されていた聖誕の地は、「ダビデの町」と 呼ばれるベツレヘムでした。この預言の通りになるため、これらの地の隔たりは、時の皇帝による住民登録の命令によって解決されたのです。
ヨセフが、ダビデの家系であったため、救い主の両親はベツレヘムへと移されたからです。そして、「彼らがそこにいる間に、マリヤは・・・男子の初子を産んだ」(ルカ2章) と記されています。この一部分だけを見つめても、みことばを必ず実現される全能者の、お力の大きさを知らされます。
 ミカの時代に南大国ユダが置かれていた悲惨な状況下では、ここに預言されている偉大な支配者の出現は、望み難いことだったでしょう。 しかし、暗黒の幾世紀を超えて、確かに主は、ご自身が定められたことを果たされたのです。小さい私たちも、このような神様の、壮大な御計画の中に生かされて いることを覚えつつ、主に望みを置いて祈りましょう。
「主の小道を歩もう」(A・K)         2012/3/11

   主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
    私たちは その道を歩もう。
                         (ミカ4:2)

 1〜3章で切迫した審判の預言を伝えたミカは、4章から祝福と約束を語り始めます。
ここで告げられている終わりの日の栄光と祝福に満ちた預言が、同時代に活躍した預言者イザヤによっても語られている(イザヤ2章)ことは、 その重要性を示しています。
 これらの箇所の「歩もう」という言葉が心に響きます。厳しい時代にあって、主の小道を、主の御名によって歩むよう語られていること、また、 それについて命令形を使わずに、人々を励まし勧めている預言者たちの態度と語調にも学ばさせられます。
 主のみことばによって教えられる道を、御名によって歩むことが、私たちの日常となり続けますように。また互いに、その恵みを証ししつつ、 共に「歩もう」と言える者でありたいです。
「羊飼いによる回復」(A・K)         2012/2/26

   わたしはあなたをことごとく必ず集める。・・・わたしは彼らを、
    おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。
            ・・・主が彼らの真っ先に進まれる。
                         (ミカ2:12,13)

 この章には、神様のさばきを招いた民の現状と、彼らへの厳しい審判が宣告されています。
しかし、その締め括りには、主が散らされていた残りの民を集め、彼らの前に立って、共に歩んでくださるという祝福の約束が語られています。
 このみことばの中に、羊のためにいのちを捨て、名を呼んで導かれる、真の羊飼いであるイエスさまのお姿が表されています。
 主の愛と恵みを味わいつつ、この週も歩みましょう。
「聞け。耳を傾けよ。」(A・K)         2012/2/19

   ミカにあった主のことば・・・すべての国々の民よ。聞け。
    地とそれに満ちる者よ。耳を傾けよ
                         (ミカ1:1,2)

 ミカは、庶民、特に人々の中で預言者としての活動を進めた人でした。
 サマリヤとエルサレムについての罪の指摘と裁きを語ったミカは、上記聖句を含めて5回も「聞け」という言葉を繰り返しています。
 厳しいメッセージに耳を塞ぐことなく、それらを「主のことば」として、砕かれた心をもって聞くなら、みことばの中に、 同時に備えられ、語られている回復と祝福の約束を知り、受け取ることができるのです。
 日々、御声に耳を傾けて、素直な心で主にお従いしましょう。
「みこころを喜ぶ者に」(A・K)         2012/2/12

   主は仰せられた。
   「あなたは当然のように怒るのか。」
                         (ヨナ4:4)

ヨナの宣教によって、ニネベの人々は悔い改め、神様は彼らに下すと言っておられた、わざわいを思い直されました。
それに対してヨナは不愉快になり、主に対して怒りました。
 ヨナは神様が「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、しかも、彼は頭の理解だけではなく、この主の愛と赦しを知らされる体験をしていたのです」。
それにもかかわらず、神様に不満を言い、不機嫌な態度をとるヨナに、神様は上記聖句の問いを繰り返し語られます。
 物事や、自分の考えにとらわれて、愛と真実の神様から目を離してしまうことなく、最善しかなさらない主を信じ、みこころを喜ぶ者とならせていただきましょう。
「主は、エドムについて」(A・K)         2012/1/8

   神である主は、エドムについてこう仰せられる。
   ・・・「立ち上がれ、エドムに立ち向かい戦おう。」
                         (オバデヤ1:1)

 1章だけの短いオバデヤ書には、ユダの隣国エドムに対する厳しい預言が記されています。
エドムはユダがバビロニアに侵略された際、隣国のよしみで憐れみを示すどころか、逆に傍観しあざ笑い神の民の敵となりました。
 彼らが目を留めていたこと、誇っていたものが・・・「住まい」・「宝」・「同盟者」・「知恵ある者たち」・「勇士たち」(3〜9節)・・・と、いくつでも挙げられています。
 彼らのように、神よりも人を、見えないものよりも見えるものを、いのちよりも持ち物を見つめて、目先のことに価値を置く生き方への警戒を教えられます。
それは、やがて厳しい主の審判に直面することなのです。
エドムの高慢について、さばきを宣言なさる方、主ご自身を見上げて従い進みましょう。
「主を求めて生きよ」(A・K)         2011/11/13

   主を求めて生きよ。・・・善を求めよ。悪を求めるな。
   そうすればあなた方は生き、あなたがたが言うように、
   万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。
   ・・・正義をいつも水の流れる川のように流れさせよ。
                (アモス5:6、16、24)

 主は「わたしを求めて生きよ」と主の民に語られました。しかし、御心を 悲しませるような生き方をする彼らを見つめ、主は彼らのささげ物を「喜ばない」とおっしゃいました。
 私たちは日々、何を求めて生きているでしょうか。私たちが主におささげする「物」や「事」や「時」などは、 私たちの心からの愛と献身を伴ったものでしょうか。
私たちの生活のすべてが「主を求める」ことで綴られているでしょうか。
その細部に至るまで、愛と正義がおよぶようにと主は語っておられます。
「主が語れるから」(A・K)         2011/10/30

   獅子がほえる。誰が恐れないだろう。
   神である主が語られる。
   誰が預言しないでいられよう。
                (アモス3:8)

 同時代の預言者ホセアが神様の愛を語ったのに対して、アモスは「重荷」を意味するその名のとおり、 イスラエルに対する重荷をもって、主のさばきと正義を語りました。
その理由を彼は、「主が語られる」からであると述べました。
彼は黙っていることができないほどリアルに、御声を聞き、主のみこころを真っ直ぐに語ったのでした。
 日々、御旨を示してくださる方のおことばをとらえ、その中に生き、 語り伝える者とならせていただきましょう
「刑罰を取り消さない」(A・K)         2011/10/9

   主はこう仰せられる。…そむきの罪のために、
            わたしはその刑罰を取り消さない。
                (アモス1:3)

 南王国ユダ出身のアモスは、北王国イスラエルヘ出かけて行き、その 罪を指摘し、神の審判を預言しました。
 彼が活躍した時代は、ヤロブ アム2世が王位にあり、物質的には最も繁栄していましたが、霊的には 堕落し悪行が重ねられていたときでした。
 アモスは、いちじく桑を栽培していた牧者で、神さまから直接、預言 者としての召しを受けました。
彼は平易なメッセージの中に、「罪の刑罰 を取り消さない」と仰せられる主の厳しい言葉を、ためらうことなく明確 に語っています。
 主のさばきの事実を厳粛にとらえ、滅びの中から救われた喜びをうち に湛えつつ、みこころを伝える者でありたいです。
「今、立ち返れ」(A・K)         2011/09/25

  しかし今、・・心を尽くし・・わたしに立ち返れ。
                (ヨエル2:12)

 ヨエルは、いなごの災害の中に、「主の日」を見ました。
生まれながらの状態で、このさばきの日に神様の前に立ちおおせる者はいません。
 そのことが、いなごによる徹底的な破壊の描写に表されています。
 しかし、一転して上記の悔い改めのメッセージに続き、憐れみによって、 主に立ち返る者に回復がもたらされることが記されています。
それは、心の底から真実な悔い改めがなされたあとに与えられる祝福です。
「今」とおっしゃる神様の語りかけに、心を尽くして従わせていただきましょう。
「主の日に備えて」(A・K)       2011/09/18

  この国に住むすべての者を、あなたがたの神、
           主の宮に集め、主に向かって叫べ。
           主よ。私はあなたに呼び求めます
                (ヨエル1:14、19)

 ヨエル書に書かれている、いなごの災害は、神の刑罰への警戒として「主の日」を予表しています。
ヨエルはこの日に備えて、人々に悔い改めを迫り、主に祈るようにと勧めています。
そして、それを告げるだけでなく、彼自身が彼らのために執り成し、主に嘆願しています。
 私たちも彼らのように人々を愛し、主を知らず、滅びに向かう彼らの為に心を痛め、 祈りつつ恵みを運ぶ者でありたいです。
「喜んで愛する」(A・K)       2011/09/11

  わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。
           わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。
                (ホセア14:4)

 ホセア書は、イスラエルの回復を歌って締め括られています。
アッシリヤや自分の力、偶像に頼っていたことを悔い改めたイスラエル は、「あなたによってだけ」(3節)と主に告げています。
 そして、その心からの告白に神さまは喜んで赦しを与えておられます。
4節以降には、彼らへの祝福の約束が記されています。
これは、一方的なそして豊かな主の恵みですが、同時に、人の側でするべき大切なことを示しています。
 主からの語りかけを受けた私たちが、それにこたえて、謙遜な態度を もって主の前に出ることによって、主と繋がり、私たちに恵みの活力が 与えられるのです。
 主と主のことばに真実に応答し、従う者とならせていただきましょう。
「彼らの心は高ぶり」(A・K)       2011/08/28

  このわたしは荒野で、かわいた地であなたを知っていた。
           しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、
           彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。
                (ホセア13:5,6)

 11章にも語られていたように、主はイスラエルの民を、牧者として 養ってこられました。
しかし、彼らはその御愛と恵みを忘れ、再び罪の 中に落ちていき、主からの怒りを受けなければならなくなりました。
 人は試練の中で神さまに拠り頼み、心から祈り求めて、み守りや導き に感謝するものです。
しかし、問題が解決し、充分に満たされると「荒野 のかわいた地」で、ともにいてくださった主を忘れ、いつしか自分を誇る ようになってしまう危険があるのではないでしょうか。
 どんな時も、主の恵みを忘れることなく進ませていただきましょう。
「立ち返り、待ち望め」 (A・K)       2011/08/21

  あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り
      絶えずあなたの神を待ち望め。
                (ホセア12:6)

 この章には、アッシリヤやエジプトなどに依り頼み、偽りの生き方を しているイスラエルの民に対して、神さまに立ち返るようにとの勧めが 告げられています。
前半には、イスラエルの先祖であるヤコブの経験が 引用され、ヤコブを見捨てず、彼に伴い続け、彼を変えてくださった主 の恵みが語られています。
 この恵みの主に立ち返り、信頼をもって、その御愛の中に自らを保た せていただきましょう。
「見捨てることができない時」(A・K)       2011/08/14

  イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。…
      わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
                (ホセア11:8)

 この章は、ホセア書の中の愛の章です。
イスラエルの歴史をさかのぼって、神さまが彼らをどのように愛し養ってこられたかが記されています。
愛し、呼び出し、教え、抱き、いやし、導いてくださった、羊飼い である主を忘れた彼らへの、神さまの熱いみ思いが記されています。
 罪をさばく権限をお持ちでありながら、罪人をも見捨てないとおっしゃる方の 御愛とあわれみを知り、感謝しつつ歩ませていただきましょう。
「今がその時」(A・K)           2011/07/31

  あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。
  ついに、主は来て、正義をあなたがたに与えられる。
                (ホセア10:12)

 この章にも、主を知りつつ、他のものに心を向けているイスラエルの罪が指摘されています。
彼らのそのような状態が「二心」(2節)と表現されています。
神様は彼らに、ご自身に立ち返るようにと悔い改めを迫り今がその時だと語っておられます。
 私たちも、神様が示していてくださる事に気付いているのに、その静かな御声に従う時期を遅らせて しまっていることはないでしょうか。
そのような私たちにも神様は「今が、主を求める時」と促していて下さいます。
 今週は聖会が行われますが、その恵みの場所へ招いていてくださった主が 語って下さることに、お応えさせていただく「時」であることを思いつつ、期待をもって参加いたしましょう。
「彼らを退ける」 (A・K)           2011/07/24

  私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。
                (ホセア9:17)

 神さまが、人を退けるとおっしやる理由として、「聞き従わなかった」 ということが言い渡されています。
 私たちは皆、何をどれだけできたかということではなく、土の語りか けに、どれほど耳を傾け、その声にどのような応答をしてきたかという ことを、主の御前で問われるのです。
主は私たちが、ご自分のみ二ころ の中を歩んでいるかどうかを見つめておられ、問いかけていてください ます。
このお方を知っている者として、御前に真実に歩ませていただき ましょう。
そして、まだ主をご存知ない方々に、救いの恵みを証しする とき、審きをおこなわれる主のみ二ころをお告げ、主に従う喜びを語る 者でありたいです。
「造り主を忘れる」 (A・K)           2011/07/17

  イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、
           ユダは城壁のある町々を増し加えた。
                (ホセア8:14)

 8章には、主の教え、善、主のご存在さえ拒み、自分たちの奸きなように生きた 民の罪が指摘されています。
 彼らは、我欲と高慢な思いに占領され、誤った自由に心を奪われて、 自分たちの目に、生産的で有益と見えることばかりをう追い、主が示され ることに目を伏せて生きました。
そしてついには、彼らが「自分の造り主を忘れて」しまったことと、「多くの神殿を建て…町々を増し加えた」とい う、彼らの物質的な結果が悲しく記されています。
 常に私たちの在り方を照らし出し、教え導いてくださる主の光に、素 直に従い進む者とならせていただきましょう。
「消極的な背き」(A・K)           2011/07/10

  彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、
           こうなっても、主を尋ね求めない。
                (ホセア7:10)

 前章から続いて7章にも、主に立ち返ろうとしないイスラエルの姿が 記されています。
彼らが次第に信仰の道から外れていったことの原因の……-つは、 「…しない」という消極的な態度であったことが読み取れます。
「言い聞かせない」、「やめている」、「呼び求めない」、「気づかない」、「立 ち返らず」、「尋ね求めない」、「叫ばず」という、彼らの状態が指摘されて います。
 主から、「生焼けのパン菓子」と言われてしまった彼らのように、「消極 的な背き」に陥ってしまうことがないよう、怠らずに真摯な信仰の態度 を主の前でとり続ける者でありたいです。
主に繋がり、主に喜ばれる道を進ませていただきましょう。
「私も、あなたにそうしよう」(A・K)           2011/06/26

  これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫したり、
           ほかの男と通じたりしてはならない。
           私も、あなたにそうしよう。
                (ホセア3:3)

預言者ホセアは神さまに命じられ、姦淫の妻ゴメルを買い戻し、上記 のように彼女に優しく語りかけました。
 彼が経験した痛みや苦しみ、犠牲は、神さまがイスラエルに、 またすべての人に対して抱いておられる 愛をあらわしています。
 それは、愛を汪いでくださった方ご自身を裏切った者を、なお、追い 続けてくかさる愛です。
愛されていることを忘れてしまった者を捨て去 らずに、代価を払って取り戻してくださる愛です。
 この愛の交わりの中に留まるよう、私たちを招き続けついてくがさる 主のお声が、[私も、あなたにそうしよう]と言ったホセアの言葉を 通して響いてくるようです。
 主の愛に憩い、喜びの日々を歩ませでいただきましょう。
「恵みと憐れみの御声」(A・K)           2011/06/19

  わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。・・
           恵みと憐れみをもって契りを結ぶ。
                (ホセア2:19)

 神さまはホセアを通して、イスラエルの状態を「姦淫」にたとえて指摘 し、[取り除く]ということを語られます。
イスラエルの人々を偶像から引き戻すためには、彼らが偶像から与えられたと信じている物質的繁栄 を差し止める必要があったからです。
 神さまがこのようになさるとき、主が垣を立てて私たちを退けてしま われたように感じることがあるかもしれません。
 しかしそれは、主が私たちへの心づかいをお止めになったからではなく、私たちをご自分の もとに引き戻すことを切望なさるお方だからなのです。
 この書に響いている罪人への厳しい告発は、その上うな者をさえ取り 戻したいと望まれる主の、恵みとあわれみの御声であることを知らされ ます。
「主の愛と憐れみの物語」 (A・K)           2011/06/12

  彼らは「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、
           「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。
                (ホセア1:10)

 ホセア書の中心テーマは神様の愛と憐れみです。
この書には、ホセアと「姦淫の女」と呼ばれた妻ゴメルの物語の中に、もう一つの物語――
偽りの神々へ身も引き渡してしまったイスラエルの民をも愛し、 彼らが立ち返るようにと語られる主のメッセージ――が綴られています。
 ホセア書を学びつつ、主の愛と憐れみの物語が、私の人生の「実話」となったことを感謝し、 主の計り測り知れない恵みをさらに味わい知らせていただきましょう。
「ヨセフの涙」(A・K)           2011/05/29

  ヨセフは彼らの ことばを聞いて泣いた。
                (創世記50:17)

 ヨセフの兄たちは、それまでのヨセフに対する悪事のゆえに彼を恐れ、 父の遺言であったから…と偽って、彼に赦しを求めてきました。
彼らの 暗く狭い心は、ヨセフがすでに示した赦し(45章)を信じることができな かったのです。
 ヨセフは憂いの涙を流し、疑いと恐れに捕らわれている 兄弟を前にします。そこで彼の口から溢れたのは、友だけが語り得る、 慰めと優しい言葉でした。
 ヨセフの姿から、イエスさまのご愛と涙を思います。
主は十字架の死 によって、赦しの保証を明らかにしてくださいましたが、私たちはそれ を受け取らない罪人でした。
 しかし、主は優しく語り続け、私たちを、 主の赦しと恵みを知る神の子と変えてくださいました。
 イエスさまのご愛を心に覚えつつ歩みましょう。
「ユダの祝福」(A・K)           2011/05/22

   「王権はユダを離れず、・・・
            ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」
                (創世記48:15)

 ヤコブは、臨終の前に息子たちを呼び寄せ、12部族の将来を語り、 それぞれにふさわしい祝福を与えました。
 その中の、ユダに対する祝福の言葉を見つめつつ、神さまのみ二ころ について教えられました。
 神さまは、罪に落ちた人類に対して、救い主を「女の子孫」から遣わす ことを語られ主した。その子孫が、この章でユダ族の中から出ることが、 上記のようにヤコブによって預言されています。
 ユダとは、ヤコブが結婚を願わず、その後も嫌っていたレアから生ま れた息子でした。このユダがキリストの系図に入ったという事実は、私 たちに、神さまのみこころは、私たちには想像すらできないような展開 で、しかもそれが、マイナスとさえと思われるような現実の中になお、 進められ定められていることを教えているのではないでしょうか。
 また、ユダが、かつてヨセフを売ろうとしたことを悔い改め、弟ベニ ヤミンのためには自分を差し出すほどに変えられた人物であったことを 思うとき、確かな揺るぎないご計画を遂行される方が、小さなひとりひ とりの心を見つめておられることをも知らされます。
 主権者なる主を畏れつつ、歩ませていただきましょう。
「私の羊飼い」 (A・K)           2011/05/15

          「…きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」
                (創世記48:15)

 ヨセフとその子らへの祝福の祈りで、ヤコブは神さまを「私の羊飼い」 と呼んでいます。
ヤコブは羊飼いでした。彼は、自分自身が羊のように 弱く、飼い主の細やかな世話を受けなければならない存在であること、 また、主が羊に愛を注ぎ養われる、良い羊飼いであることを、誰よりも よく知らされていたと思われます。
彼は、この羊飼いの恵みと導きが、 振り返った生涯の日々にも、これからの道程にも、継続的で絶えること がないと頷きながら、「ずっと」と表現したのでしょう。
 年老いた彼の視力は衰えていましたが、彼が見上げでいる主との間を 遮るものはなく、彼の目に、主の恵みの事実とみこころがはっきりと 映っていたことがわかります。
 私たちも「私の羊飼い」である主を知り、その豊かなお養いと導きに 従って、喜びの日々を歩ませていただきましょう。
「母の日のはじまり」 (A・K)           2011/05/08


アメリカのバージニア州のウェブスターという町の教会に、長年、子 どもの教育のために奉仕した先生がいました。
クララ・ジャービスというその婦人が、ある日曜の朝、子どもたちに十戒の中の「あなたの父 と母を敬いなさい」について語ったあとで「皆さんも、お母さんの大きな 愛に対して、心から感謝を表わす方法を考えてみてください」と言い ました。
この話を彼女の娘アンナが聞いていて、母の言葉を深く心に 留めていました。
その後ジャービスは亡くなり、追悼会が行われたとき、 アンナは母への感謝をこめて、たくさんのカーネーションで教会を飾り ました。
彼女の心づかいは、人々に深い感動を与え、やがてクリスチャ ンで、当時、百貨店王と言われていたジョン・ワナメーカーの耳に入り、 彼のデパートで「母の日」を記念する催しが始められました。
これが全米に広がり、1908年、当時の大統領によって、国の記念日として定め られ、日本でも、1923年から祝われるようになりました。
「静けさの中に」 (A・K)        2011/04/24

          「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、
           実に、神なのです」
                (創世記45:8)

 最近、「静けさ」ということを思い巡らす中で、創世記45章5〜8節 は、まさに、主の前での静けさを知っている者の言葉であると教えられ ました。
 エジプトでヨセフが過ごした日々は、混乱させられたり、叫びたくな ったり、誰かのせいにしたくなるようなことの連続でした。
しかし彼は、それらが神の摂理であるとの頷きと、主への信頼という[静けさ]の中に、 自らを置き続けて忍び通しました。
そしてこの時、すべての試練の発端で あった兄たちの仕打ちさえも、「神が、あなたがたより先に私を遣わして くださった」と言い、彼らを一人残らず赦すことができたのです。
 またこの章の終わりには、かつて夢に見た通り、神のご計画とお約束の実現 を、彼が自分の身に体験したことが記されています。
 今、私たちはどのようなところに置かれているでしょうか。
ヨセフのように、常に「静けさ」の中に生きる者でありたいです。
「ユダを変えた恵み」 (A・K)        2011/04/17

          「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの
奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」
                (創世記44:33)

 ベニヤミンの袋からヨセフの杯がみつかっかとき、ヨセフは、ベニヤミンを奴隷にすると兄たちに言い渡しました。
 すると、ユダが必死に 執り成し、上記のように、白分がベニヤミンの身代わりにると申し出ました。
 かつて、ヨセフを売ろうと言った兄の心は、これほどまでに変えられていたのです。
神さまは、どのような冷たい汚れた心の者にも語りかけてくださり、主のほうに向き直り、愛に生きることができるよう変えてくがさるお方 です。
この恵みが、今もすべての人に注がれていることを覚えつつ、私たちの恵みの体験を証しさせていただきましょう。
「神があなたを恵まれるように」 (A・K)        2011/04/10

          「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」
                (創世記43:29)

エジプトで高位についたヨセフは、その立場を使って兄たちを罰することもできましたが、 再会のとき、ヨセフの心は彼らへの愛と赦しに満ちていました。
兄たちは、自分たちをもてなす宰相が、ヨセフであることさえ気付かず、不安な思いで食卓に付きました。
この場面に、罪人の姿と神様のみこころが映し出されているようです。
また、ヨセフが末の弟ベニアミンに対して言った、上記の言葉が心にとまりました。
彼が胸を熱くして口にした「神の恵み」が、長い困難と孤独の年月、彼を支え続けたことが証しされているように感じます。
この「神の恵み」こそが、兄たちに赦しを与えられる人へとヨセフを育てたのでしょう。
私たちも、恵みの主に信頼しつつ前進させていただきましょう。
「神の霊の宿っている人」 (A・K)             2011/03/27

          「神の霊の宿っているこのような人を、
           ほかに見つけることができようか。」
                (創世記41:38)

 ヨセフについて、パロは上記のような評価を家臣たちに告げました。
この「神の霊が宿っている」という言葉から、ヨセフが自分の能力では なく、神さ様のお力を証ししたということがわかります。
 彼にこの機会が与えられたのは、ヨセフの期待に反して、献酌官が ヨセフの事をパロに話すのを忘れたまま2年も経った頃のことでした。
ようやく、パロの夢を解き明かすという時が訪れたわけですが、ヨセフ は その力が、神様によるものであるとの納得のもとに行動しました。
そしてそれは、さらなる恵みのみわざへと繋がる事となったのです。
 私たちが、様々なところを通過する中で、主が私のすべてであること を知りつつ生きるなら、彼のように主を証しし、なお多くの実を結ぶ者 と成長することができるのです。
  「神の霊の宿っている人」であるようにという、神様の私たちへの ご期待と使命は、ヨセフのように、最悪と感じているような状態のとき にさえ、この身に向けられ続けていることを覚え、進ませていただきま しょう。
「神のなさること」 (A・K)             2011/03/13

          「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか…」
                (創世記40:8)

 これは、王の献酌官長と調理官長が夢を見て、「それを解き明かす人 がいない」と言ったときの、ヨセフの答えです。
 この聖句の、「神のなさること」という言葉が心にとまりました。
 彼らは皆、同じ牢獄の囚人でした。ヨセフは、そのような場所でも、 神の御臨在とご支配を自然にとらえ、信じること、そして、その事実を 堂々と口にすることができる人物であったことがわかります。
また彼は、夢の解き明かしという賜物を持っていましたが、その力さえも自分 のものではなく、神のものとして証しすることができていました。
それは、彼がどんな境遇にあっても、主との交わりという恵みの中に生きて いたからでしょう。
 彼の物語の随所に記されている「主が彼と共におられた」という事実 は、どんなときにも変わらない彼の在り方であったと頷かされます。
 私たちも、共にいてくださる方を なお知りつつ、その方の「なさる こと」に信頼して進ませていただきましょう。
「どんなときにも」 (A・K)             2011/02/27

          「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。
          さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。…」
          …そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。
                (創世記37:26〜28)

 37章から、ヨセフの物語がはじまります。
 父ヤコブから格別に愛されているヨセフが、ある日、夢について語る のを聞き、兄たちはいっそう彼への妬みをつのらせます。
彼らは、「あれの夢が、どのようになるかを見ようではないか」と、ヨセフを殺そうと 謀りますが、ルペンの言葉によって命はとらずにヨセフを穴に投げ込み ました。
聖書には、その穴に水がなかった事、また、上記のユダの提案 に他の兄たちが同意したそのときに、商人が通りかかった事が記されて います。
これらの記述から、最悪の事態と思われる中にも、一切の権威 を持つお方が共にいてくださることを知らされます。
 試練や悩みの中にあるときには、主のご支配とご臨在の事実を忘れて しまいやすい私たちですが、主ご自身から目を離さないで進み、私たち の思いをはるかに越えた、主のご計画の実現と恵みを味わう者とならせ ていただきたいものです。
「立ってベテルへ」 (A・K)             2011/02/20

          私たちは立って、ベテルに上って行こう。私は、そこで、
          私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも
          私とともにおられた神に祭壇を築こう。
                (創世記35:3)

 前章に記されている、ヤコブとその子らの霊的弛緩による事件のあと、 神様はヤコブに、「立ってベテルに上り、そこに住みなさい」と言われま した。
その命令に従おうとしたヤコブが再認識したことは、主のご同行 の事実でした。 彼は上記の言葉どおり、主と初めてお会いした場所、 ペテルヘ戻り、信仰の原点に立ちかえって祭壇を築きました。
 絶えず ご同行くがさる神様は、私たちを近くで助け守ってくがさる 方であるとともに、主にふさわしくないところを気づかせ、捨て去るよ 引こと鋭く語ってくがさる主です。
ヤコブのような更新を与え、私たち をご自身に似たものと造り変え続けてくださる主に、従い前進させてい ただきましょう。
「光の中を」 (A・K)             2011/02/13

          あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民…
          の憎まれ者にしてしまった。 私には、少人数しかいない。彼らが
          いっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も
          根絶やしにされるであろう。
                (創世記34:30)

 昨年から、折り会で連続してきた創世記からのメッセージは、34章 まで進みました。 ヤコブの子らが起こした事件について記されている この章を通して、主は私たちに「警戒」を語っておられます。
 ディナが上地の娘を訪ねた理由は、詳しく書かれていませんが、その 行動によって、彼女自身は辱めを受け、兄たちを激しい怒りへと陥ら せ、父を悲しませました。
兄たちは怒りにまかせ、「割礼」という神聖な 事柄を、偽りに満ちた企てに利用し、祝福の地シェケムを報復の地と してしまいました。
これを知ったヤコブも、上記のように、「私」と繰り 返しながら、かつて「あなたを守り…連れ戻そう」と約束してくださった 主を見失っています。 彼らは僅かずつ、やがて大きく、みこころの道 から逸れていったのでしょう。
 聖霊の小さく細い御声に敏感に耳を傾け、その光の中を真実に従い 歩むことによってのみ、「真にすぐれたものを見分ける」力が、主から 与えられることをおぼえましょう。(ピリピ1:10)
「主の手に陥ること」 (A・K)          2011/01/30

          主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。
          人の手には陥りたくありません。
                (Uサムエル24:14)

 ダビデは、その生涯の終わりに、人口調査を行いました。それは、王 として当然の務め、また軍事上の目的をもったものでしたが、神さまが お命じになったことではありませんでした。
主はダビデに、部下ヨアブの諌言を通して語られますが、彼は調査を断行しました。
そして、結果報告を受けた後、良心のとがめを感じ、主の前に心を砕かれました。
 そのようなダビデに、神さまは三つの選択肢を示して、彼をテストされました。
ダビデはすぐに、「主の手に陥ること」を選びました。
 神さまとの関係の問題である罪を自覚し、失望と苦悩を味わった彼は、 そこで本当に「主の手に陥ること」を知り、その幸いと平安を体験したの です。
 どのような時にも、私たちには「主の手に陥る」という選択ができます。
それは、みことばにあるように、主の深い憐れみによるものです。
日々、主の御手に委ねて進みましょう。
「わが家は神とともに」 (A・K)          2011/01/23

          まことにわが家は、このように神とともにある。
          とこしえの契約が私に立てられているからだ。
          このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、
          私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。
                (Uサムエル23:5)

 この章には、ダビデの最後の言葉が記されています。人生を振り返っ て、様々な出来事そのものではなく、そのあらゆる場面に、神と共にあ 幸いを顧みることができる者は幸いです。
 主が、常に私たちに伴ってくださり、私たちを育て上げてくださる方 であることを、神との交わりの中を歩みつつ知らせていただきましょう。
「ダビデは主に歌った」 (A・K)          2011/01/16

          主が、ダビデのすべての敵の手…から彼を救い出された日に、
          ダビデはこの歌のことばを主に歌った。
          彼はこう言った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主…」
                (Uサムエル22:1,2)

 波乱に富んだ生涯の晩年を迎えたダビデは、多くの試練や困難を越え、 敵の手から救い出された日に、主に向かって讃美しました。
 彼は、「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが盾、わがやぐら…」 と、揺るぎない信頼を告白し、呼び求める者に答えてくださる主の恵み を歌っています。
何度も使われている、「わが」という言葉に、ダビデが、 最も近くにおられるリアルなお方として主を実感していることが表現さ れています。
サウルからの熾烈な暴虐を潜り抜けてきた彼の生涯を見る とき、生ける神を体験する恵みの機会は、「苦しみの中に」(7節)こそある ということがわかります。
 どのようなときにも主を呼び求め、主ご自身を知り、その恵みを歌う 者でありたいです。
「神さまの祝福の御業」 (A・K)          2011/01/09

          こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、
          ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、
          すべて王が命じたとおりにした。
          その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。
                (Uサムエル21:14)

この章には、サウルの子孫の処罰が記されています。
この処罰は、かつて、ヨシュアの誓いを破ってギブオン人を殺した、サウルの罪の償い のために行われました。
上記の聖句は、ダビデ王が命じてそれを終えた とき、神さまがイスラエルの国の折りを聞かれ、飢えの災いから彼らを 解放されたことを示しています。
 このみことばから、神様が、約束を重んじられる方であるという事、 罪を見過ごしにされない方であることがわかります。
 イザヤ書(59:2)には、「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなた がたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてく がさらないようにしたのだ。」という言葉がありますが、私たちが罪を 認め、悔い改めて主を仰ぐとき、隔たりは取りのけられ、、神さまの祝福 の御業が始まることを、サムエル記の記事は証ししています。
「主に目を向けるように」 (A・K)                   2010/11/21

          私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者のひとりです。
          あなたは,イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。
          あなたはなぜ、主のゆずりの地を、のみ尽くそうとされるのですか。
                (Uサムエル20:19)

ユダとイスラエルの間の、王に関する抗争の中に、シェバが反逆し、
イスラエルの人々はダビデから離れて彼につきましたが、ユダの人々は主に従いました。
シェバのいる町を包囲したヨアブに町の危機を冷静に捉えた一人の女が叫び訴えました。
彼女のこの言葉は、「主のゆずりの地」である町を守るための、知恵ある言葉でした。
この婦人は、自分たちの権力や安全の主張にとらわれ、神を見失っている人々の思いを、
主に向けさせることによって、彼らに自分たちの行動がどのようなものであるかを考えさせました。
彼女は盲目になっている民の目を開き、神様に向けさせたのでした。
どのようなときにも、私たちの目を主に向け、主に私の心をとらえていただいてみこころを知り、
その真ん中を進ませていただきましょう。
「教会の実力」 (A・K)                   2010/11/14

          すべての祈りと願いを用いて、
          どんな時にも御霊によって祈りなさい。
          そのためには絶えず目をさましていて、
          すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、
          また祈りなさい。
                (エペソ6:18)

28日の『あわ聖会』にお迎えする横山文子先生は、
今春、引退牧師となられ、草加市のキングスガーデンに入居しておられます。
そのホームでは、毎日の小礼拝など、多くの恵みの集いが持たれているようです。
そのひとつである『ルデヤ祈り会』で、横山先生と十数人の姉妹方が、
定期的に祈りの時をもっておられます。
この祈り会のメンバーの方々が、この度、四国を巡回される先生の御奉仕と諸集会の祝福を祈るために、 日程を書き込み、色を塗り分けて、四国の地図を作って下さっているそうです。
このような祈りをもって、先生を私たちの教会に送り出してくださる聖徒方がおられることに大きな 励ましと感謝を覚えます。
私は12年間、横山先生のもとで、副牧師として奉仕させていただきましたが、
折にふれて『祈りは教会の実力!実質!』ということを、教えていただきました。
私たちも、主が備えて下さったこの恵みの教会のために、何にもまして祈りの準備を重ね、 祈りによって主の御業を体験する強い群れとならせていただきましょう。
「主ご自身を喜ぶ者」 (A・K)                   2010/10/31

          王さまが無事に王宮に帰られて後なら、
          彼が全部でも取ってよいのです
                (Uサムエル19:30)

この章には、心の在り方が映し出されるような、
様々な人々の姿が記されています。
反逆者である息子を失った悲しみのために、
王としてとるべき態度を誤ったダビデ。
有能で正しいが、王に対して辛辣な言葉を述べるヨアブ。
自分の有利と安全を図るシムイ。
・・彼らの中で、唯一、メフィボシュテの忠誠の姿に惹かれます。
彼は、王に対する感謝を忘れず、自分の立場などではなく、ただ、
王の存在と王の帰還を喜び、心から満足しています。
どのようなときでも、主ご自身を喜ぶ者でありたいです。
「すべてを治めておられる主の御旨」 (A・K)                2010/10/24

          すると王は・・泣きながら、こう言い続けた。
          「我が子アブシャロム。我が子よ。我が子アブシャロム。
           ああ、私がおまえに代わって死ねばよかたのに。
           アブシャロム。我が子よ。我が子よ。」
                (Uサムエル18:33)

この章には、反逆者アブシャロムに対して、
ダビデが父としての心を向け続けたことが記されています。
父に対して敵意と殺意のみをいだき迫っていた息子の最期を知ったときも、
ダビデは上記のように嘆いたと書かれています。
ダビデが「我が子よ」と繰り返しながら流したのは、
息子の死を悼む涙であり、また、我が子との隔たりが埋まることなく至ったこの結末に対しての、
悔いと痛みの涙であったと感じます。
このようにして、長期間にわたる自らの罪の刈り取りを終えたダビデの姿を見るとき、
すべてを治めておられる主の御旨だけが成るという厳粛な事実を知らされます。
主を畏れつつ進ませていただきましょう。
「主が決めておられたから」 (A・K)                2010/10/10

          これは主がアブシャロムに わざわいと もたらそうとして、
          主がアヒトフェルの すぐれた はかりごとを打ち壊そうと
          決めておられたからであった。
                (Uサムエル17:14)

アブシャロムはダビデを討つ完璧な計画を、
部下アヒトフェルから手に入れました。
しかし、フシェイに助言を求めた結果、この案は修正され、その作戦は崩壊しました。
それによって、ダビデのいのちは守られたのです。
上記のみことばは、これらのことが、主の導きによること、
主に信頼する者を、主が御手をもって守ろうと かたく決めておられることを示しています。
この時の、ダビデの神様への信頼が詩篇3篇にうたわれています。
しかし、主よ。あなたは私の周りを囲む盾、私の栄光。・・・
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。・・・
救いは主にあります。
「主のご支配と最善」 (A・K)                    2010/09/26

          ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。
              主が彼に命じられたのだから。
            たぶん、主は私の心をご覧になり、
            主は、きょうの彼の、のろいに代えて、
            私にしあわせを報いてくださるだろう。
                (Uサムエル16:11・12)

ダビデがバフリムまで来たとき、サウル家の一族シムイが、
ダビデに石を投げつけ、のろいの言葉を浴びせました。
アビシャイは怒り、シムイを打つことを求めましたが、
ダビデはそれを許さず、上記のような謙遜と寛容の態度を示しました。
常に主を見上げ、大いなる方がすべてを治めておられることをうなずき、
その御手に委ねきる冷静さと忍耐力が、ダビデの言葉に証されています。
どのような出来事の中にも、主のご支配と最善を信じる者であらせていただきましょう。
「忠誠の言葉」 (A・K)                       2010/09/12

王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、
              しもべも必ず、そこにいます。
                (Uサムエル15:21)

ダビデの息子アブシャロムは反逆の準備を進め、父である王に偽って ヘブロンへ行き、自分に与する民を増やしました。
人々の心が彼に靡いていることを知ったダビデは、エルサレムへ逃げました。
息子や議官アヒトフェルにも裏切られた王を護衛するため、外国人であるイタイが進み出ました。
ダビデは彼を道連れにすることは忍びないと考え、彼を去らせようとしましたが、イタイは上記のように王に誓いました。
私たちの王であるイエスさまに、このような忠誠のことばを、心から告白させていただきたいものです。
「和解の恵みを」 (A・K)                       2010/08/22

ヨアブは、王がアブシャロムに敵意を抱いているのに気づいた。
                (Uサムエル14:1)

罪によって傾いていく王家の様子が、この章にも表されています。
ダビデ王が息子アブシャロムに敵意を抱いていることを知ったヨアブは、テコアから知恵ある女を連れて来て、王に話をさせました。
王は、女がヨアブによって差し向けられたことを知り、その願いを聞き入れてアブシャロムが都に帰ることを許しました。
しかし、息子と顔を合わせようとはしませんでした。
真実な悔い改めのないアブシャロムに対して、ダビデは父親として行うべきことを果たしませんでした。
かつて、預言者ナタンによって罪を知らされたダビデは、悔い砕かれた心で御前に出る者を、主が退けなさらないことを経験によってよく知っていたはずです。
しかし、彼は息子の罪を指摘し、悔い改めに導くことができず、アブシャロムに、赦しという罪の解決、和解の道を伝えることができませんでした。
結果、親子の間にも、和解はありませんでした。
主に許された者として、人々を愛し、その恵みを伝える務めを果たす者とならせていただきましょう。
「ダビデはいつまでも悲しんでいた」 (A・K)                2010/08/15

ダビデ王は事の一部始終を聞いて激しく怒った。
ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しいんでいた。
                (Uサムエル13:21,37)

王国の繁栄は、崩れ始めました。それは、戦いに敗れたからではありません。罪に因ってです。
ダビデの長男アムノンが妹にあたるタマルを辱めるという罪を犯しました。
そしてタマルと同じ母を持つアブシャロムによって、アムノンは殺害されました。
ダビデは、アムノンのしたことに激怒し、アブシャロムの報復による息子の死を悲しみましたが、彼らを正しく罰することはできませんでした。
ダビデにとって、この事件は、自分自身が犯した罪の刈り取りでもあったのです。
父として、また王としての権威さえ失ってしまった彼が、「いつまでも・・・悲しんでいた」という記述が哀れです。
主がお嫌いになる罪を遠ざけ、主に従って聖く生きる道を進む者でありたいです。
「私は主に対して」 (A・K)                2010/08/08

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」
                (Uサムエル12:13)

預言者ナタンは、主に遣わされてダビデ王のところへ行き、たとえを用いて彼の罪を指摘して、主が語られた王家のわざわいについて告げました。
罪を指し示されたとき、ダビデは上記のように、それを即座に認めました。
詩篇51篇に記されているのは、彼の悔い改めの祈りです。
神様は悔いた心をもって御前に出る者を退けることをなさらず、赦しを与えて下さる御方です。
憐れみによって、ダビデは主と彼の関係を妨げていたものを取り除かれ、赦しの恵みを味わいました。
彼は罪の結果として懲らしめを受けなければなりませんでしたが、主はダビデに後継者ソロモンを与えて下さいました。
主が私たちの心に光をあてて、チェックをくださるとき、私の在り方が「主に対して」どうであるかを見つめ、素直な心で主の前に出る者でありたいです。
そして常に、主と私の間接に妨げなく、御旨に従わせていただきましょう。
「曇ってしまうことのないように」 (A・K)                2010/07/11

ダビデの行ったことは、主のみこころをそこなった。
                (Uサムエル11:27)

イスラエル軍が、ラバという町を攻撃し包囲していたとき、ダビデ王自身は戦いに出ず、エルサレムに残っていました。
彼は、ある夕暮れに屋上から目にした美しい女性バテ・シェバに心を惹かれます。
そして、彼女が忠臣ウリヤの妻であることを知ったにもかかわらず、彼女を召し入れてしまいます。
やがて、バテ・シェバが子を宿したことがわかると、ダビデはウリヤを激戦の真正面に送り出して戦死させようと謀ります。
この記事の中で、ダビデが忘れていたことをいくつか読み取ることができます。
かつて、自分を追い続けたサウル王の命さえ重んじた彼が、その心を失い、ここでは、忠実な部下を殺すことを命じています。
また、神様が全てをご存じであることを忘れ、恐ろしい方法によって、犯した罪を隠すことができたと思っています。
何よりも、上記の聖句のように、彼は、自らが行ったことが彼を愛し導いておられる方の、みこころをそこなうということに気付かなかったのです。
彼のように、罪の誘惑に負け、心の目が曇ってしまうことのないように祈りつつ、主の前に真実に歩みましょう。
「全力を尽くそう」 (A・K)                2010/06/27

強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。
主はみこころにかなうことをされる。
                (Uサムエル10:12)

新しくアモン人の王となったハヌンに、ダビデは真実を尽くそうと使者を送りました。
しかしハヌンは、使者を辱め、周辺諸国の軍隊を雇って敵対して来ました。
上記の聖句は、夥しい敵との戦いを前にした、イスラエルの将軍ヨアブの言葉です。
彼の力強い言葉の中に、主の働きのために自分たちが成すべきことの明確な理解と、主への信頼とあつい思い。
ベストを尽くすことの喜びが表されていると感じます。
主への愛に満たされ、信仰の戦いを全力で戦い、主にある勝利を望み喜び進む者でありたいです。
「行く先々で勝利を」 (A・K)                2010/06/20

このように主は、ダビデの行く先々で、
彼に勝利を与えられた。
                (Uサムエル8:14)

ダビデは長い間、脅威となっていたペリシテを打ち破り、次々と諸民族との戦いに勝利をおさめていきました。
ダビデはこれらに勝つことができたのは、6節、14節にあるように、神様が彼に勝利を与えられたからでした。
ダビデ自身もそのことを遜って自覚していました。
「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。」(詩篇60:12)と、 うたっているとおりです。
主に信頼し、御旨の道を歩む者の「行く先々」に、このような、み助けと、主による勝利が約束されていることを信じ、 この週も信仰の良き戦いを進みましょう。
「主の前に座して」 (A・K)                2010/06/13

神、主よ。私がいったい何者であり、
私の家が何であるからというので、
あなたはここまで、私を導いて下さったのですか。
                (Uサムエル7:18)

安住を得たダビデは、主のために神殿を建てることを志し、預言者ナタンに伝えます。
しかし神様はナタンを通してそれを禁じ、神殿建築を、彼の子ソロモンに託されました。
そのような、みこころを知ったダビデの祈りが、上記の18節以降に書かれています。
ダビデは主の仰せを反論せずに受け止めました。
彼は自分の考えを押し通すことをしないで、素直に、謙虚に、神様の前に座して、主の恵みとお約束を感謝し、祝福を願い求めたのです。
自分がどのような者であるかを知り、私に注がれた恵みを心いっぱい感謝しながら、主に信頼して、その仰せに柔らかな心をもってお従いしていきましょう。
「私は その主の前で」 (A・K)                2010/05/30

あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで
主の民イスラエルの君主に任ぜられた主の前なのだ。
私は その主の前で喜び踊るのだ。
                (Uサムエル6:21)

この章には、「主の前」という言葉が繰り返し使われています。
前王サウルは神の箱に対して無頓着でしたが、ダビデは、神の臨在象徴、神の祝福そのものである契約の箱が放置されていたことを 問題視して、これを王国の基に据えるために取り組みました。
そして、神の箱をペリシテから奪還し、ダビデの町に運び上ることができたとき、ダビデは裸で踊りました。
その姿を見た妻ミカルが、彼を蔑んで言った言葉に、ダビデは上記のように答えました。
常に、主との交わりを重要だと考えていたダビデは、熱い思いをもって神の箱を迎え、その喜びを「主の前」に表したのでした。
彼にとってこの踊りは、小さな取るに足らない者を選び出し、導いて下さった神様への心いっぱいの感謝の舞だったのでしょう。
常に、「主の前」に生きる者、恵みの大きさを味わい喜ぶ者でありたいです。
「聖霊が臨まれるとき」 (A・K)                2010/05/23

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、
あなたがたは力を受けます。
そして・・地の果てにまで、わたしの証人となります。
                (使徒1:8)

ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。
ご昇天前に、主がお約束して下さった聖霊が、祈り待ち望んでいた弟子たちの上に降られたことを記念する喜ばしい日です。
弟子たちは、聖霊によって力に満ちて大胆に語る者となり、その福音を受け入れて信仰者たちが生まれ、教会が誕生した日でもありあます。
上記のお約束どおり、彼らは、イエス・キリストの福音を「力」として、まず自分が経験し、 「地の果てにまで」主の証人とされました。私たちが罪からきよめられ、キリストご自身を力強く証しする者となる素晴らしいお約束が、 聖霊によって実現したのです。
この記念の朝、皆が、全的な献身と信仰によって、このような主の力を経験し、ペンテコステの喜びに溢れることができますように。
祝福をお祈りいたします。
「ダビデは知った」 (A・K)                2010/05/16

ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、
ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を
盛んにされたのを知った。
                (Uサムエル5:12)

「イスラエルの王として立て」られるこの時まで、ダビデは長い試練と 忍耐の年月を過ごしてきました。
少年の頃のサムエルによって油注ぎを受けてから、このことが実現するまでに、 神様は彼に長い苦難の道のりを辿らせなさいました。
彼がそこで、神様の深い御意図を知り、委ねて従う訓練を受け、み恵みを 体験したことが、上記の「知った」という聖句の中に、表されているように思います。
ようやく王位に着いたとき、彼はそれが、自分の知恵や能力によってではなく、神様の みこころによるということを、謙遜に頷きました。
主が彼の王国を盛んにされたのは、神様が宝の民として愛されたイスラエルを堅立するためで あったことを、ダビデは理解していたのです。
このとき、彼は主の導きの確かさをさらに実感し、より深く主と交わり、従いたいと決意したことでしょう。
私たちのためにも、主のご栄光が表される最善の道が備えられています。
主のお心を知り、導きの御手に身を委ねて歩む者とならせていただきましょう。
「母の日のはじまり」 (A・K)                2010/05/09

あなたの父と母を喜ばせ、あなたをうんだ母を楽しませよ。
                (箴言23:25)

アメリカのバージニア州のウェブスターという町の教会に、長年、子 どもの教育のために奉仕した先生がいました。
クララ・ジャービスというその婦人が、ある日曜の朝、 子どもたちに十戒の中の「あなたの父と母を敬いなさい」について語ったあとで、 「皆さんも、お母さんの大きな 愛に対して、心から感謝を表わす方法を考えてみてください」と言い ました。
この話を彼女の娘アンナが聞いていて、母の言葉を深く心に 留めていました。
その後ジャービスは亡くなり、追悼会が行われたとき、 アンナは母への感謝をこめて、たくさんのカーネーションで教会を飾り ました。
彼女の心づかいは、人々に深い感動を与え、やがてクリスチャ ンで、当時、百貨店王と言われていたジョン・ワナメーカーの耳に入り、 彼のデパートで「母の日」を記念する催しが始められました。
これが全米に広がり、1908年、当時の大統領によって、国の記念日として定め られ、日本でも、1923年から祝われるようになりました。
きょうも、神さまの恵みを感謝し、お母さんへの敬愛と 感謝を表わしましょう。
また、母である方は、神さまの 愛を信じ伝える母、祈りの母となられますように。
「王のしたことは民を満足させた」 (A・K)                2010/04/25

王のしたことはすべて、民を満足させた。・・・すなわち・・・
アブネルを殺したのは、王から出たことばではないことを知った。
                (Uサムエル3:36、37)

ダビデと契約を結んだ元サウルの将軍アブネルの暗殺を、ダビデの 部下ヨアブが企てます。
しかし、ダビデはそのことを知りませんでした。(26節)
ヨアブがアブネルを密かに呼び出して殺したことを聞いたダビデは、 「私にも私の王国にも、主の前に罪はない」と言い、アブネルの死を 悼み悲しみました。
そのようなダビデの姿を見て、人々がうなずき、 この件について、ダビデに非がなく、これが王から出たものでないと認 めるに至ったことが記されています。
常に主の前に、また人々の前に、 真実な心、正しい態度をもって尽くそうとするこの王にこそ、民の心が 引き寄せられていったことを感じます。
「ダビデは主に伺って」 (A・K)                2010/04/18

・・・すると主は彼に、「上って行け」と仰せられた。
・・・主は、「ヘブロンへ」と仰せられた。
                (Uサムエル2:1)

サウルの死後、自分はユダに上って行くべきかと尋ねたダビデに 神さまは上記のように答えられました。
サウルがいなくなり、まさにダビデの時代がやってきたというときでしたが、 彼は自分の考えで先走ることなく、神さまに、どのような踏み出しを すべきかをお開きしました。
彼の姿から、どんなときにも、主の前こ座して、その導きを仰ぐこ との大切さを学ぶことができます。
ダビデは、この「主に伺う」姿勢を、試練や孤独の中で 身につけたのではないでしょうか。
みこころを祈り求めるとき、主は明確な導きを与えてくださいます。
そして、そのお言葉に従うなら、私たちは確信と平安のうちに歩を 進めることができるのです。
主のお導きがなくては、進むことができ ない者であるこという白覚を持ち、謙遜な態度で、主のお言葉に耳を 候ける者でありたいです。
「サウルのために、この哀歌を」 (A・K)                2010/04/11

ダビデは、サウルのため・・・ヨナタンのために、この哀歌を作り・・・
                (Uサムエル1:17)

ダビデは、サウル王とヨナタンの死、さらにイスラエルの敗北の報告 を聞きました。 長い年月、サウルに追われ、身も心も休まる間のない 辛い生活を余儀なくされたダビデにとって、サウルの死の報は、その苦 しみの日々の終わりを告げるものでした。また同時に、ダビデは王位に 着く時を迎えたわけですが、彼は、安堵や喜びを表わしたのではなく、 哀しみの歌を歌いました。
その哀歌には、神さまに立てられたサウル王の尊厳、彼の業績への 賞賛、そして、ヨナタンへの友情と感謝の思いが悲しみとともに綴られ ています。ダビデが、親友ヨナタンを失ったことについてだけでなく、 自分のいのちを狙う敵であったサウル王の死を、これほどまでに悼み 悲しむことができたのはなぜでしょうか。
ダビデがサウルのために作った「この哀歌」を味わうとき、彼が主の 前に自分自身を明け渡し、主の愛に満たされていたことを感じます。
「あなたの王が あなたのところに」 (A・K)                2010/03/28

見よ。あなたの王が あなたのところに来られる。
柔和で、ろばの子に乗って・・・。
              (マタイ21:5)

都に入られたイエス様を、人々は大喜びで迎えました。
病気を治し、死人を生き返らせるほどの偉大な力を持つ御方なら、きっと強い王様になって、 自分たちをローマの支配から解放して下さると思ったからです。
しかし彼らは、わずか五日後には「イエスは私たちの王ではない!十字架につけろ!」と 叫んだのでした。
そして、彼らの要求どおりになりました。イエス様の頭上には、「これはユダヤの王」という 罪状書きが掲げられました。
十字架を取り囲んで、あざける人々には、イエス様が彼らを、悪魔の支配から解き放って下さる 「真の王」であることがわからなかったのです。
そのような彼らのために、そして、すべての人々のために、主は、「彼らをお赦しください・・」と 祈られました。
あなたは、この王を、あなたの心にお迎えしましたか。
受難週からイースターを記念するこの節季、「あなたの王があなたのところに来られる。」という 御言葉が、お一人一人のうちに確かにされる時となりますように。
「逸れることのないように」 (A・K)                2010/02/28

こうして、その日サウルと彼の三人の息子、道具持ち
それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。
              (Tサムエル31:6)

イスラエルの初代の王として神に選ばれたサウルは恵まれた環境、美しい容姿を与えられ、 謙虚さや忠実さを持った人物でした。
しかし、この章に記されている彼の最期はあまりにも哀れです。
彼の死は、前掲のみことばのように、家族や部下たちを巻き込み、イスラエルが 異教の民に敗北する要因にもなりました。
これについて、T歴代誌10:13には、「サウルは主に逆らった、 みずからの不信の罪のために死んだ」と記されています。
神様への信頼と服従が次第に崩れ、このような結末に至った彼の生涯 を見るとき、主に全面的に信頼し聞き従う信仰の道から、 逸れることのないようにと教えられます。
「彼の神、主によって」 (A・K)                2010/02/21

ダビデは非常に悲しんだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで
心を悩まし、ダビデを打ち殺そうと言い出したからである。
しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
              (Tサムエル30:6)

ダビデと仲間の者たちは、町も家族も失い、泣くカさえ尽きてしまい ました。
しかも、ダビデは皆と同じ悩みだけでなく、リーグーとしての 孤独、ついには命の危険へと追いやられていました。
そのようなダビデが「しかレ‥奮い立った。」と記されています。
このみことばの「彼の神、主によって」という言葉のうちに、ダビデが知って いた幸いが見出されます。
ダビデのように、すべての助けが断たれてしまったときにも、恵みに よって支えてくださる神様を、「私の神」として知っている者は幸いです。
自分の限界や弱さ、神様の強さを知って、自らの力によるのではなく、 御力におすがりする者を、主は立たせてくださるからです。
「砕かれた悔いた心で」 (A・K)                2010/02/14

サウルは主に伺ったが、・・答えてくださらなかった。
              (Tサムエル28:6)

サウルはペリシテの大軍を見て、非常に不安になり、助けを求めて祈りましたが、
神様はお答えになりませんでした。
この時サウルが、まずしなければならなかったのは、御声に聞き従わなかった罪(18節)を
悔いて、主の御手に陥ることでした。
しかし彼は自覚している罪を放置し、こともあろうに霊媒女を頼っていきました。
当然、彼がそこで得たものは、更に増してゆく恐怖でした。
主の語りかけに耳をかさず、度々の悔い改めのチャンスに応じなかった者が、
内外からの恐怖にさいなまれ乱れていく様が、この章に哀しく記されています。
砕かれた悔いた心で近づく者を、決して拒まれることのない、
愛と憐れみに満ちた御方がおられることをおぼえましょう。
そして、いつまでも御声を聞き分け従いつつ、自由と平安の道を辿る者でありたいです。
「ほかに道はない」 (A・K)                2010/01/31

ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって
滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。・・』

サウルに追われながら生活していたダビデは、将来に大きな不安を覚え、
上記のような決断をしました。
これまで苦境の中を何度も、信仰によって誘惑に打ち勝ってきたダビデでしたが、
この箇所では神様を見失ったような状態に陥っています。
ダビデは、サウルによって滅ぼされるという恐れに心を占められてしまい、
「ほかに道はない」と、ペリシテ人の島に逃げました。
彼は主に祈ることもなく、自分勝手な判断や理解によって動き始めてしまったのです。
ダビデは、神様だけに信頼し従おうと努めることを忘れ、
敵国の王アキシュの許に身を寄せて、彼の信用を得るために力を尽くします。
一時的には恐れから逃れたように感じたとしても、ダビデの心に平安は戻らず、
内なる葛藤を味わい続けたことと思います。
どのようなときにも主を見上げ、主に信頼して従う道以外に、私たちの進むべき道は
ないことを忘れない者でありたいです。
「生きておられる主の前に」 (A・K)                2010/01/24

主は生きておられる。
・・・私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、
主の前に絶対にできないことだ。
(Tサムエル26:10・11)

ハキラの丘に隠れているダビデを追って、サウルは荒野に下って来ました。
それを知らたダビデが、サウルが陣をしいている場所に出て行ったとき、 サウルは地に槍を立てて寝ていました。
この状況を見て、ダビデと共にいたアビシャイは、サウルを打つ絶好の機会だと考えましたが、 ダビデは上記のように語り、サウルに手を下すことを許しませんでした。
『主は生きておられる。』というダビデの言葉に、常こ主に対する敬虔さを 貫く信仰者の姿を見ることができます。
彼は、主による油注ぎの重大さを知って、それを軽んじる罪から飛び退くことを選びとりました。
すべてが主の御手の中にあると頷き、委ねることを選択したのでした。
「生きておられる」「主の前に」歩む者として、みここを悟り、より頼む者 に最善をもってお応えくださる方に従う道を進ませていただきましょう。
「神様のストップサイン」 (A・K)                2010/01/17

きょう、あなたを私に会わせるために送って下さった
イスラエルの神、主がほめたたえられますように。
このしもべが悪を行うのを引き止めて下さった
主が、ほめたたえられますように。(Tサムエル25:32・39)

ダビデがナバルのもとに十人の若者を遣わし、彼らに物を与えて欲しいと 願いましたが、ナバルは拒絶しました。
ダビデはナバルの侮辱に憤り、彼に報復しようとしましたが、ナバルの妻アピガイルが、逸早く贈り物を 用意し、主人の無礼を詫びて、ダビデの怒りを解きました。
ダビデは怒りに 任せてナバルに手を下そうとした自分をとどめるために、神様がアビガイ ルと出会わせてくださったのだと感謝し、「主がほめたたえられますように」 と言いました。
また、その後ナバルが主に打たれて死んだことを知ったとき にも、「引き止めてくださった主が、はめたたえられますように」と罪から 守ってくださった方に感謝しました。
私たちの日々の生活においても、同様 に神様がストップサインを下さることがあります。
気静かな御声を敏感に聞き 取り、感謝をもってお従いする者でありたいです。
「主を畏れる者の選択」 (A・K)                2010/01/10

私が主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に・・・
手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。
彼は主に油そそがれた方だから。(Tサムエル24:6)

ダビデがエン・ゲディにいることを知って追いかけて来たサウルが、道端の ほら穴に立ち寄ったとき、ダビデと部下はその奥に座っていました。ダビデ にとって、それは、サウルを容易く倒せるという予想外の状況であり、信仰 を試されるときとなりました。今こそサウルを打つ時だと部下に勧められる ままに、ダビデはサウルの上着のすそを切りました。
しかし、そのことを後悔し、サウルに手を下さないという決断とともに、 部下に語ったのが上記の聖句です。
自分が置かれた状況が、神が下さった絶好の機会だと主張するこ とも、祈りの応えだと思い込むこともできたでしょう。
しかしダビデは、現状ではなく神様ご自身を見上げ、主に油注がれた方に手を下すことは、主に逆 らうことであると考えました。
すべてを裁かれる方を畏れ、委ね従う事を選び取ったのでした。
私たちも、日々のあらゆる場面で、ダビデのように主を 畏れる者の選択をさせていただきたいものです。
「クリスマス」 (A・K)                2009/12/20

布にくるまって飼葉おけに寝ておられる みどりご…
これが、あなたがたのためのしるしです(ルカ2:11:12)

クリスマスおめでとうございます。
今から9年前のクリスマスの日、私は病院のベッドの上にいま した。
一人ばっちのクリスマス‥・夜が更けていくにつれて、とても 寂しい気持ちになりました。
そんなとき、「♪まぶねの中に 産声 あげ‥・貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」
という讃美歌が心に響いてきました。「赤ちゃんとなって飼葉おけ に寝ておられる…人の悲しみや悩みをすべて体験された…十字架 で死なれた イエスさまを見なさい」という歌詞の意味を 静かこ 味わうと、心が慰められあたたかくなりました。
皆さんはこ存知でしょうか?イエスさまがお生まれになった 時代の飼葉おけは、四角い石をくりぬいたものだったそうです。
冷たい石のベッドに、イエスさまは寝ておられたのです。
聖書には、それが「あなたがたのためのしるしです」と書かれています。
この「しるし」はイエスさまが、私たちのために辿ってくださった愛の ご生涯の始まりと、その日々を示しています。
飼葉おけは、神である方が人となってこの世に来てくださったことの「しるし」
イエスさまが私のすべてを知ってくださり、何よりもつらい罪の 苦しみを私の代わりに受け、私を赦すためにいのちさえ差し出し てくださった救い主であることの「しるし」なのです。
今年のクリスマス、飼葉おけのイエスさまを、そして、そこに あらわされた神さまの愛のしるしを見つめ、喜ぶときとなります ように。祝福をお祈りいたします。
「御名による力づけ」 (A・K)                2009/12/13

『サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て
 神の御名によって、ダビデを力づけた。
       (Tサムエル23:16)
21から23章には、度々ダビデの手恐れ」が記されています。
孤独と恐れの中で流浪の旅を続けるダビデを訪問し、
力づけたのは、彼の友ヨナタンでした。
ヨナタンはダビデにとって激励が、一番必要と思われる
タイミングで現われ、彼に言葉をかけました。
それは、自分の存在や優しさなどを強調する慰めや
励ましではなく、相手が神様のうちに力を見出すことが
できるような激励でした。
試練の中で、神様に目を上げさせ、主ご自身に
カを見出すことができるよう力づけてくれる友を
持ったダビデは幸いでした。
私たちも、互いに、そのような存在となることが
できる者でありたいです。
友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17)
「私たちは一つ」 (A・K)                2009/11/29

『私たちふたりは、「主が、私とあなた、また私の子孫と
 あなたの子孫との間の証人です。」と言って、
 主の御名によって誓ったのです。』
       (Tサムエル20:42)
19・20章には、ヨナタンとダビデの契約と友情の姿が記されてい ます。
ダビデの名声をねたんだサウル王は、ダビデに殺意を抱くようになり ました。
そのことを父から打ち明けられても、王子ヨナタンのダビデに 対する友情は変わらず、彼はそれまで以上にダビデを思いやり、父の 怒りから友の身を守ろうと努めました。
友である二人だけが解る方法で、ヨナタンか野原に矢を放ち、ダビデ にメッセージを伝えた、20章の記事は感動的です。
サウルは、主がダビデと共におられることを見て、彼を恐れましたが、 ヨナタンは、ダビデが証ししている主の御臨在の故こ、彼を愛したので しょう。
常に、神様がおられることを意識した彼らの友情は、周りの変 化や苦境によって消されるようなものではありませんでした。
私たちも、主にあって繋がれ一つとなり、互いに愛し励まし合う信仰 の友を持ち、その交わりの中で成長させていただきましょう。
「勝利の記録」 (A・K)                2009/11/15

『ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主がともにおられた。』
                  (Tサムエル18:14)
サウル王は、ゴリヤテとの戦いに勝利したダビデを召しかかえました。
また、サウルの子ヨナタンはダビデを愛し、彼と契約を結びました。ダビデ は、どこでも、遣わされる所へ出かけて行き、さらに勝利を収めてゆきます。
そのようなダビデを、サウルは恐れるようになり、彼の命を奪おうと謀りま すが、王の策略はかえって、ダビデを栄えさせることとなります。
このような記事の中に、ダビデの「勝利の記録」が綴られているわけですが、 それを飾るように、「主はダビデとともにおられ」(12節)、「主が彼とともにお られた」(14節)、「主がダビデとともにおられ」(28節)と、主の御同行の事実が 記されていることに気づかされます。神様は、常にダビデと共におられ、彼 を強め、勝利を与えられました。
心から主に信頼し従うとき、同じ主が、私たちをも支え導き、勝利者としてくださるのです。
「主は救い出してくださる」 (A・K)                2009/11/08

ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、
あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」
            (Tサムエル17:37)
ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集しました。
サウルとイスラエル人も集まって、彼らを迎え撃つための備えをしました。
しかしゴリヤテという巨大な敵の出現に意気消沈してしまい、その 挑戦を受けて立つ者はひとりもいませんでした。
折しも、戦場の兄たちを訪ねたダビデは、ゴリヤテが発する神を汚す言葉を聞いて、彼に挑む 決意をしました。
それは無謀な行動のようにさえ見えました。ダビデにとって、よろい もかぶとも剣さえも、身に合わないものでしたが、彼が身につけその 手に握ったのは、使い慣れた石投げと、「万軍の主の励名」そして、「主 は、私を救い出してくださる」という、彼が体験的にに知っていた神様への 信頼でした。
神様がおられ、その方に守られているという平安、「この 戦いは主の戦いだ」(47節)という明確な理解と納得…。
ダビデの手には、目こ見えない強靱な武器と勝利への確信が、握られていたことがわかり ます。
日々の神様との交わりの中で、さらに主を知らせていただき、主の ご臨在とみことばに立って、戦い進む者でありたいです。
「主は心を見る」 (A・K)                2009/10/25

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
            (Tサムエル16:7)
サウルのことで悲しんでいるサムエルに、「エッサイのところに行って わたしが言う人に油を注げ」との、主からの言葉がありました。
サムエルは主に告げられたとおりべツレヘムへ行き、新しい王としてダビデに油を注ぎま した。
このとき、ダビデを選ばれた神様の基準は、彼の心の在り方でした。
私たちは、人や自分を「うわべ」で判断しやすい者です。
けれども神様は、常に私たちの「内側」を見つめておられるのです。
不本意な失敗を経験したり、周りから誤解を受けて悲しさを覚えるようなとき、 神様が私たちの動機や思いを知っていてくださることは、大きな慰めとなります。
また、成功を果たして賞賛を受けるようなときにも、私たちの本当の姿をご存知の主がおられ ると知っているなら、高ぶりから守られることができるでしょう。
神様は、この油注ぎの後も、すぐにはダビデを王座に就かせず、王の道具 持ちとして用いられました。
サウルに仕える日々の中で、ダビデにいくつも の試練や孤独を体験させ、謙遜と主への信頼を学ばせられたことは、まさに、 「心」を見られる神様からの訓練にはかならないと感じます。
私たちの「うわペ」ではなく、「心」を見ていてくださる方の前に、へりくだって歩みましょう。
その中でしか知ることのできない恵みを、主は備えていてくださいます
「聞き従うこと」 (A・K)                2009/10/18

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
            (Tサムエル15:22)
神様は憐れみによって、サウルに回復のチャンスを与えるために、再度、 彼に信仰のテストをされました。
「すべてのものを聖絶(一般的な用途に用いることをせず、神様のために 聖別)せよ」という告示を受けて、アマレクとの戦いに勝利をおさめたサウル でしたが、良いものを惜しみ、つまらない物、値打ちがないと思われる物だ けを聖絶しました。
このように、サウルの服従は全面的なものではありませんでしたが、それ でも彼は、「私は主のことばを守りました」(13節)、「主が私に授けられた使 命の道を進めました」(20節)と自分を正当化したのでした。
結果、彼のこの不信の罪は、イスラエルに大きな災いをもたらす原因となり、何よりも、神 様のお心を悲しませるものとなりました。
冒頭のみことばにあるように、私たちが「聞き従う。こと」を、最良のささげ ものとしてお受けくださる方の語りかけに、きょうも耳を澄ましてみこころ を知らせていただきましよう。
そして、私自身を主の前におささげして、全 面的な服従の態度をとり続ける者でありたいです。
「神が共におられたので」 (A・K)                2009/10/11

「神が共におられたので、あの方は
きょう、これをなさったのです。」
こうして民はナタンを救った・・」
            (Tサムエル14:45)
サウル王の息子ヨナタンは、道具持ちの若者とともに、ペリシテを襲撃し 約20人の敵を倒しました。
その知らせが王に届いて、イスラエル軍は総攻 撃の態勢に入りました。
この時サウル王は、戦いが終わるまで、兵士たちの 飲食を禁じましたが、王子ヨナタンーまその経緯を知らなかったために蜜を口 にしてしまいます。
そのことを知ったサウル王は激怒し、王子を厳しく罰す るように命じました。
そこで、王子ヨナタンの命を救って欲しいと、民が王 に願った言葉の一部が上記の聖句です。
この言葉には、知略に優れたヨナタンヘの感謝や敬意、彼への適切な評価が 表わされていると思います。
人々は、ヨナタンが密かに最前線に出て行ったことが、無謀な恐れ知らずの行動では なく、神様への信頼によるものであったことを理解していたのでしょう。
事実「主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」(6節)という彼自身 の言葉からも、その信仰の姿勢を知ることができます。
私たちが「きょう」行うすべてにも、「主が共におられたので」という理 由と評価が伴うような、信仰による歩みをさせていただきたいものです。
「愚かなこと」 (A・K)                2009/09/27

サムエルはサウルに言った。
「あなたは愚かなことをしたものだ。
あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・」
            (Tサムエル13:13)
この13章でイスラエル人が対峙しているペリシテ軍は、「戦車三万、騎兵 六千、それに海辺の砂のように多い民」でした。(5節)
一方、それと向かい合っているサウル王の軍隊は わずか三千人で、しかも日ごとに恐れをなし て去っていくというありさまでした。
これ以上 少人数になることを恐れた サウル王は、サムエルとの約束を破って供え物を献げる行為をしてしまいま した。
そのことに関するサムエルの叱責に対して、サウルはその理由を叫ん でいます言11,12節)彼が置かれていた状況は、先述のように同情し たくなるようなものではありましたが、彼がとった行動は、王として致命的 な失敗でした。サウルの失敗の原因は、彼が神様以外のもの…現状を回復さ せようとする思いや、自分の考え・羊張を、神様の命令よりも優先したこと にあります。サウル王が、この「愚かなこと」を選び取った結果、恵みを失い、 捨てられてしまった記事は、私たちに警戒を与えています。
どんなときにも、私たちがご自身に望みを置き、その御言葉に誠実に従う 「ことを求めておられる主に、心を向けて歩みましょう。
「よい正しい道を」 (A・K)                2009/09/20

私はあなたがたに正しい道を教えよう。
ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。
主がどれほど偉大なことを
あなたがたにしてくださったかを見分けなさい。
                 (Tサムエル12;23,24)
イスラエルの民が、自分たちを治める王が欲しいと要求したことは、神様 への不信のあらわれでした。預言者サムエルはその罪を指摘しながらも、主 がご自身の御名の故に、民をお捨てにならないことを告げ(22節)、上記の 言葉を語りました。これは、神政政治から王政政治への変化によって、その 舞台から去ることになった彼が、これまで幾度も主を忘れ、主に背いてきた 民に残さなければならない警告でした。
私たちは、主によって救われ、その恵みによって生かされている者であり ながら、ある時には、戦いの激しさ・問題の大きさに押しつぶされそうに なって主を忘れ、またある時には順境の中で、その恵みを忘れてしまい易い 弱い者です。しかし、そのような者にこそ「教えよう」と示されているこの「道」 に目を留めましょう。どんな時にも、これまで主が私にとってどのような御方 であってくださったか、その恵みがどれほどであったかを思い起こし、心を 尽くして主に仕える者でありたいです。その「よい正しい道」を歩む中で、主 はさらに溢れる恵みを体験させてくださるでしょう。
「主が救ってくださったのだから」 (A・K)                2009/09/13

しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。
きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」
                 (Tサムエル11;13)
イスラエルの初めての王として選ばれたサウルは、特別な相応しさがある とは思われない人物でした。油注ぎの後、すぐに行政的な働きを始めたわけ でもなく、周りには、彼を蔑む者たちの存在さえありました。
そのようなサウルに、王としての自覚をもたらすため、神様はアモン人の侵略という 試練を備えられました。アモン人のことを聞いたサウルに聖霊が下り、彼は リーダーシップを発揮し、力強く人々の心をまとめて敵に勝ちました。
この勝利によって人々はサウルを王と認め、彼らは、当初の反対者たちを罰する ために引き渡すよう、預言者に願いました。
その要求を聞いて、サウルは上記のように語ったのです。彼は、勝利を彼め功績と捉える民を退けて、 この勝利が主によるものであることを認め、また反対者に対しても、寛容を 示しています。
ここに、彼のうちにある主への畏れ、絶対的主権への信頼と謙遜を見ることができます。
私にかかわるすべてのことの中に、主のご支配を知らせていただき、その みこころに従う者でありたいです。
「しるしが起こったら」 (A・K)                2009/08/30

このしるしがあなたに起こったら、・・・何でもしなさい。 神があなたとともにおられるからです。・・・神はサウルの心を 変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、 その日に起こった。(Tサムエル10:7,9)
サムエルはサウルに油を注いで、イスラエルの王になることを告げ、 ました。(1節)前章からもわかるように、サウルには自分が選ばれ て当然だというような思いは無かったでしょう。
そのようなサウルに、この油注ぎが主からのものであることを納得 させるために、サムエルはしるしについて語りました。
サウルがそのしるしを体験したとき、彼は、神様がお決めになった ことに従わなければならないと悟り、納得を与えられたことでしょう。
私たちの立場はそれぞれに違いますが、神様は私たちひとりひとり にも、使命を託しておられます。そして、その最善の道を歩むことが できるように、御臨在と御力を知らせ、励まし導いてくださいます。
弱く小さい私たちが、ただ主に依りすがって一歩を踏み出すとき、 主は私たちを用い、その務めを果たさせてくださるのです。
「私は最も小さい」 (A・K)                2009/08/23

私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。(Tサムエル9:6)
この章からイスラエルの最初の王、サウルの物語が始まります。
ある日、父のロバを捜すために出かけたサウルは、神の人サムエル と会いました。それはその前日、主がサムエルに告げられた通りの 出会いでした。サムエルはサウルを食事の席に招き、「イスラエルの すべてが望んでいるものは・・・あなたのもの」と告げたので、サウルは 驚きをもって上記の言葉を返しました。
この聖句だけではなく、この章のサウルの言動には、彼の謙遜と、 そのことによる従順の姿を読み取ることができます。
私たちも、主の前に、「最も小さい」者であることを自覚し遜り、 与えられたことに素直に従って進む者でありたいです。そして、その 中でさらに開かれてゆく恵みの道、主のご計画の実現を体験する者と ならせていただきたいものです。
神は、さらに豊かな恵みを与えて下さいます。・・・『神は、高ぶる者を 退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』(ヤコブ4:6)
「ここまで主が」 (A・K)                2009/08/16

ここまで主が私たちを助けてくださった。(Tサムエル7:12)
ペリシテ人の脅威と略奪に嘆き、イスラエルは主を慕いもとめて いました。苦境の原因が自分たちの罪であることに気づき、悔い改め を迫られた彼らは、サムエルの指導によって、神様との隔たりとなっ ていた偶像を取り除きました。
そして、主の前に集まり、いけにえをささげて主にすがりました。
その最中、またもやペリシテの攻撃に見舞われましたが、主による 勝利を与えられ、彼らは上記聖句の告白に至ったのです。生活の中に 偶像礼拝を取り入れていくことに違和感さえ覚えず、長い間にはそれ をすっかり浸透させてしまっていたイスラエルの罪深さと、そのよう な彼らであっても、拒むことなくその叫びに応えられた、主の憐れみ の深さを感じます。
ただ恵みにより、主に赦され助け出された者であることを覚え、感 謝して進みましょう。
「だれが主の前に」 (A・K)                2009/08/09

だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。(Tサムエル6:20)
ペリシテ人は、イスラエルから戦利品として奪った契約の箱(4: 11)のために、「神の手」によるわざわいを受けました。(5章)
次々と恐ろしい災害に悩まされ、いよいよ神の箱の処置に困った彼 らは、それを返す方法を模索し試みたあげく、国境近くのべテ・シェ メシュに安置しました。ベテ・シェメシュの人々は神の箱を喜び迎え ましたが、その不敬虔な行為のために五万七十人が打たれ、民は狼狽 して、上記の言葉を叫んだのでした。
神様は、罪を自覚せず認めないままや神の箱を迎えようとした彼ら に、厳粛なさばきをくだされました。罪に汚れ、神さまに近づく事 ことのできなかった者をイエス・キリストの十字架による贖い、義 と認めてくださった恵みを思い感謝が溢れます。
『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、 あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、 聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』
(コロサイ書1:22)
「ただ主だけを」 (A・K)                2009/07/26

主の契約の箱を、われわれのところに持って来よう。そうすれば、
それが、われわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。
            (Tサムエル4:3)
これは、敵(ペリシテ)に打ち負かされて戻ってきた民を迎えて、
イスラエルの長老たちが口にした次なる戦略です。
「そうすれば、それが、われわれの真ん中に来て」という表現は、
一見、主による勝利を先取りした借仰の言葉にもみえますが、
決してそうではありません。これは、主ご自身を見上げる事なく、
ただ形式的に神の箱を近くに置きさえすれば、ご臨在を感じること
ができるだろうと考える、彼らの不遜を露呈している言葉ではない
でしょうか。また、「われわれ」と繰り返す彼らは、自己中心的で、
敗因を省みて主の前に出るという謙虚さにも欠けているように思わ
れます。戦術だけでなく、主をおそれるという点でも、「神が陣営
に来た」(7節)と言ったペリシテのほうが、彼らより勝っていたの
かもしれません。
神さまは、このようなイスラエルを再び打たれ(10節)、ご臨在
の象徴として彼らがすがっていた神の箱さえ、敵に奪い去られて
しまいました。
大いなる主ご自身をあがめる礼拝者、ただ主だけを畏れ、ご臨在
のうちに歩む信仰者とならせていただきましょう。
「黙して聞く場所」(A・K)                2009/07/19

主が……「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、
「お話し下さい。しもべは聞いております。」と申し上げた。
            (Tサムエル3:10)
サムエルは、毎日 主の宮で祭司エリの声を聞き、その言葉に従う
ことを教えられていたのでしょう。ある夜、神さまから呼ばれたとき
も、エリの声だと思い、そのたびに彼のもとへ走って行きました。
そして、主が彼を「呼んでおられるということを悟った」(8節)エリ
に教えられ、主からの呼びかけに応えました.
主は何をおっしゃるだろうと、耳を澄ましているサムエルには、
そのお言葉に従う心構えがあったと思います.
祈りの座は、私たちが感謝や賛美、あるいは問題課題、心に抱く
思いを持って行き、それらを主に告げるところです。しかし同時に、
主からの語りかけをいただくために、黙して聞く場所でもあります。
きょうも そこへ行き、「お話しください」と 主に申し上げ、服従
の備えをもって 静かな御声を待ち望みましょう。
「主に仕えていくと」(A・K)                2009/07/12

一方、少年サムエルは ますます成長し、主にも人にも愛された
                           (Tサムエル2:26)
ハンナは、「主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくだ
さいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。」
(1:27,28)と言って、サムエルをエリのところへ連れて行き
ました。幼いサムエルは、「一生涯、主に渡されたもの」(1:28)と
して、主の宮での生活を始めました。
この章には、エリの息子たちの邪悪な行状と対比させるかのよう
に、サムエルの成長ぶりが記されています。
サムエルは「主に仕え」(18節)、「主のみもとで」(21節)、「主に
も、人にも愛され」(26節)て成長していきました.
みそばに身を置き続ける者を、主は御訓練くださり、その愛の中
で養い育ててくださいます。きょうも純粋な心をもって主に近づき、
お仕えする者とならせていただきましょう。