『キリストの平和とは』
聖句
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし
隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
・・・敵意は十字架によって葬り去られました。キリストは来られて
・・・平和を宣べられました。」 エペソ書2章14節〜17節
21世紀の最初の夏、皆様方は何を思い、どのような行いをなさろうとして
いるのでしょうか。もしかすると、キリスト者という偉大な宝と恵みを受け
ながら、余りにも日常茶飯事にとらわれすぎてはいないでしょうか。
毎年8月を迎えますと、平和という言葉が飛び交うのです。
8月6日の平和記念式(広島)での平和宣言の中には「21世紀を核兵器の
ない、『平和と人道の世紀』にするために、全力を尽くすことを宣言します。」と。
8月15日のNHKスペシャル「戦争を知らない君たちへ」の中で、
”君は平和のために何ができるか”に応答していた若者達の現実的な姿を見ました。
私は、昨年6月・沖縄で開催された第二回日本伝道会議には、感謝なことに
慶子師も共に参加が許されました。その折り、沖縄本島南端に摩文仁の丘の
上にある『平和の礎』を訪れ、24万人近い死亡者の名前が刻まれた黒い御影石を
見ました。そこには住民も軍人も、敵も味方も、一般兵士も将校も、アメリカ人
韓国人、朝鮮人、台湾人と言う国籍を問うことも区別差別のない石碑でした。
21世紀の慰霊のスタイルを思わせるものでした。
今、私は戦争と平和について語ろうとしているのではない。
一人のキリスト者として、又、キリストの道を歩む者として、根源的な平和は
どこに存在するのかが問題なのです。
【1】聖書の神との離別
私たち人間は、神の創造の中で再考の傑作品として造られました。
「人間は神ご自身のかたちに創造された。」しかし、サタン(悪魔)の誘惑に
敗北した人間世界には、悲惨なことに『罪』『死』が侵入してきました。
その結果、罪咎に死んだ者となったの、神の怒りを受ける者となったのですね。
正に世は罪の支配下にあるから。
【2】聖書の神との和解
人間はエデンの園から追放され、神から離別し、放浪する人間、罪を犯す人間に
落ちぶれてしまいました。が、神は人間との回復を願い、イスラエルの民を用いて
神の計画を示し続けてきました。神との和解! この和解の方法は、最終的には
イエス・キリストの発臨まで待たねばならなかったのです。
冒頭の聖句より、パウロは、和解と平和への道を牢獄の中から語りました。
(1)和解の順序
1.人間の側が罪を認める。
「すべての人が罪の下にあり、義人はいない、一人もいない」
事実を認めて、悲しむこと。聖霊が認罪させるのですね。
2.神の側が恵みを提供する。
主イエスが神と人間の仲介者として来られたこと。
3.神に罪を悔い改め、主イエスを信ずる者になること。
ここに重要な聖句を挙げます。『あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで
抵抗したことがありません。』 ヘブル書12章4節
自分の罪と対決し勝利せよ!
(2)和解による平和
1.個人的には「キリストこそ私たちの平和」の体験になり、神との和解、
キリストの平和の中に身も心も委ねた信仰生活ができるのです。アーメン
2.民族的には「律法の民族も無律法の異邦人もキリストによって一つの
体となる」ことに合一、融合という壮大な平和が示唆されました。
しかもパウロは、目に見えない心の壁の『隔ての壁』が破壊され、
『心の敵意』が消滅することを信じて語ったのです。心の障壁、即ち
民族対民族。人対人などに存在する区別、差別が破棄され、消滅します。
【3】平和の宣教
キリストの十字架によって敵意、心の障壁は葬式されました。
新しくされた平和の心がキリスト者の心!私たちはその心を所有しています。
具体的には、最小単位の夫婦の和解、親と子の平和、家族同士の平和、
それが国へと広がる要素ではないだろうか。最後に
* 平和に役立つこと
* 平和を保つこと
* 平和を伝えること
そのことに努力しよう。
『そうすれば、愛と平和の神はあなた方と共にいて下さいます。』アーメン