−四国聖会に因んで−
『クリスチャンの霊的訓練』
聖句
「霊の父は、私たちに益の為に、私たちをご自分の聖さに与らせようとして、懲らしめられるのです。すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
ヘブル12章10〜11節
サッカーのW杯が韓国・日本共催で行われている。決勝トーナメントに進出した国々の選手達一人一人を見ますと、程度の差があっても敏捷性、行動性という運動能力の豊かさである。少年時代からの訓練の賜物であろう。厳しい訓練でミニつけた体は、一瞬の判断で行動する。
多くの人々は訓練を受けることを好まない。訓練の基準の喪失した時代なのかと考えさせられる。
人間は、神の像として造られ、神に従う者でした。しかし、罪に負けた人間は、堕落の一途を辿ったのである。人間が再度神の像に向かって回復するために、主イエス・キリストが父なる神からこの世に派遣され、この方を信じる者に回復が約束されている。クリスチャンとならせて頂いたことは、実に奇跡である。しかも、神の像に向かって行く喜びに満ちた素晴らしい生涯なのである。それにも拘わらず、あるデータによると、悲しい事に、現在の日本人クリスチャンのクリスチャンとしての寿命が何と2・8年と言う。誠にショッキングな報告。今回、二つの訓練について聖書から教えを請いたい。
【1】失望の時
クリスチャンになり、神の祝福を受ける筈なのに、なぜ失望の中にいるのだろう。心から期待していたこと、心に描いていたことが破られ失望状態から立ち上がれない。失望や絶望は、人生に伴うものであるとともに新しい人生、新しい生き方に霊の目が開眼する大転機になるのである。早速、ダビデの詩篇、パウロの経験の御言葉を読もう。彼らは神を仰いだ。キリストに依り頼んだ。共通項は何か。
1.感謝する心
失望の時に感謝とは何ぞ。ダビデは子供の裏切り、部下の裏切りに失望落胆の極みの中で、神を仰いだ。その時の詩篇は多く残されている。パウロは、どんな時にも主イエス・キリストの故に感謝した。(Uコリント9・15他)
2.確信する心
ローマ8・28は様々な苦闘の経験と深刻な訓練を経て、人間的な考え方を遙かに越えた御言葉である。どんな時にも、キリストによる凱旋生涯を信じ、確信していた。
3.継続する心
信仰の道端で失望してすねているのではなく、かえって次の奉仕に向かう。他の人々(隣人、家族・・)を助ける為に立ち上がる。その行動や態度のうちに、失望落胆からの解放があり真の訓練がある。また、集会出席、聖書拝読などを無味乾燥に思えても続行することである。アーメン
【2】病気の時
神の像に似せて造られた者であっても、生身の体である。私たちが病気になる場合、その原因を識別することは、一つの神の訓練ではないだろうか。
1.罪による場合
ヨハネ5・14、マルコ2・5には、病気が癒されたとき、主イエスは「もう罪を犯してはなりません」「子よ。あなたの罪は癒されました」と言われ、罪と病気との関係を示された。
2.サタンによる場合
ヨブ記を読むと、ヨブ自身にあるのではなく、サタンによってもたらされることおある。パウロの肉体の一つのトゲは、サタンの使いであると言う。
3.罪でもサタンでもない場合
病気を持って生まれた人もいる。(ヨハネ9・3)『神の栄光のため』でさえある。病気は確かに厳しい訓練であるが、その苦難の下にある者だけが受ける訓練の深さである。この訓練に恐れたり敗北したりしないように。この試練には心を探り、罪があるかどうか反省しよう。病気によって訓練されてこそ、多くの人々に神の哀れみと恵み、神の愛を分かち与える者となることが可能なのである。さらに、私たちには困難・迫害・孤独・逆境・晩年などにも訓練がある。それは神の像への回復、人格の回復を目指す生涯であることを確信し、クリスチャン生涯の中に愛の訓練を受けて歩もう。主の訓練を逃げないで受け、神の豊かな霊的祝福を受けよう。