−あわ聖会からクリスマスへ−
『リバイバルの障害』
聖句
『あなたは、わたし達を再び生かされないですか。あなたの民があなたによって喜ぶ為に』 詩篇85章6節
『しかし、今 主の御告げ 心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって私に立ち返れ』 ヨエル書2章12節
私は信仰をもって40年近い。当初イエス様の福音は燎原の火のように日本中に広がる思いで信仰生活を送っていた者でした。学生時代そして技術者として会社に入り仕事の喜びと共に伝道にも積極的でした。主の救いは天にも届く喜びでしたから。
会社時代は横浜教会に席を置き、開拓間もない小さな借家の教会で、初期の徳島教会よりもひどい建物でした。その時代に求道された男子は私が宿舎を訪問する機会が多く与えられました。その当時救いに与り、現在恵まれたクリスチャンホームを形成され、藤沢教会員、王子教会員として励んでおられる。
私は学生時代も会社時代も、そして献身時代、神学院時代、伝道者という直接的伝道に入っても、心の奥深い所にはリバイバルという言葉が生きている。徳島教会には、25年前に赴任を命じられ、歓迎礼拝3名の出席者とともに礼拝を守りましたのは昨日のようである。慶子先生とは、日々オズワルド・スミス著『魂への情熱』(リバイバルを求めて)を共に読み合いながら、いのちがけの祈りをしたことでした。(慶子師は髪の毛を遺品として数年間切っていたようだ)教会員は年々5名増加しリバイバルかと思われた時期があった。そして、10年前には、愛兄姉の熱い祈りと献金により、すてきな教会堂が建設され、いよいよ徳島宣教のセンターとして用いられリバイバルは近いと感じたことでした。しかし、リバイバルは来ない。
先週は、38年前に購入した『リバイバルの障害』(新生運動協力会)を再読しました。心に止まりました言葉を明記して、反省と悔い改めとしたい。
【1】伝道者に対して
もし神がわたし達を聖職に召したもうなら、わたし達は聖霊の油注ぎを受けなければならない。そうすれば、不妊の恵みの座が、わたし達の油注ぎのない知性主義の印となる事はない。祈りの秘訣は、密かに祈る。神と苦悶する祈りである。永遠を捕まえる祈りである。神が与える力は祈りの力である。チャールス・ウェスレーは、「神の純潔な愛以外、私の心が求めるものはこの地上にはなにもない」と言った時、彼は発奮したのである。
【2】不信仰の信者に対して
信者が神の約束を実践しようとするとき、その障害となるものは、自己と呼ばれる。実に哀れなものである。自己がきよめられ、神に支配されるためには、まず自己欲望、自己栄誉、自己中心、自己正義、自己満足等すべて自己より来るものが死ななければならない。(ガラテヤ2:40)
(結び)リバイバルは必要である。涙の祈りと産みの苦しみから、リバイバルは来る。その時は悔い改めと信仰によって!