『聖別会について』
【聖句】
『あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。
わたしがあなたがたの神・主であるからだ。』
レビ記20章7、8節
『あなたがたを召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でななければならない。」と書いてあるからです。』
ペテロ第一1章15、16
−密室と実行の年−
教会の集会には幾つかの名称がある。今回、聖別会について、御一緒に学んで見よう。
【1】原語的な意味合い(旧約・新約聖書)
レビ記をはじめ、旧約で示される『聖別』とは、人もしくは物が、俗な、汚れた領域から移されて、
神様との特定な関係へと分離されること。旧約の『聖』は、そのへブル語の根底に分離という暮味があり、
神は“有限な被造物から本質的に分離し、それを超越している”という意味で絶対的な聖なる存在なのである。
だから、汚れたものは、この聖なる神に近付くことさえ出来ないが、聖別という行為によって、それが許される。
新約には、私たちの聖めのために御自身を聖別されたのはキリスト様であられた。
「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためである。」
(ヨハネ17‥1 9)。この『聖』は、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、
…聖められたもの、…」と、この世から呼び出され、罪を洗い聖められて、教会という聖なる生命共同体に迎えられる。アーメン。
【2】聖別会を開いている意味合い
イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」と言われました
(マタイ5章8節)。私達はこの言葉を文字通り受け取るべきである。私たちは愛も動機も意志も、きよくなければなりません。
先月、1 0代の少年が非道な殺人を犯して逮捕されました。親や周囲の知る人は、「だけど、あの子はやさしくいい子なのに」
と話しました。その事は、生まれ変っていない人間の心がどんな罪をも犯す可能性がある事を、
立ち止まって考えないからである。
人間は、罪が赦され、きよめられ、正しくされた新しい心が必要なのである。
イエス様は、十字架の死によって、心のきよめを可能にして下さる。罪のすべてが赦され、きよめられていますから、
敵対する人をも惜しみなく赦し愛することに心が向かい、心が平安になる。
これらは、頭脳ではなく、体験できる。
きよい心心にやって来る最も大きな幸いは、単に人との正しい関係ばかりではなく、神様との崇高な開係、
「その人は神を見るからです」。幸いの秘訣は、神を見る。秘訣はきよい心であり、聖霊によってきよい心は神様から来る。
信仰者が神を見、神の御顔を拝することが許される。何という光栄か。そのための聖別会である。