『価値観の大逆転』
【聖句】
『ですから私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』
コリント第二5章16節
私たちはクリスチャンとならせて頂いて”何が変わってきたのでしょうか”と、お互いに自問自答したいもの。
真のキリスト者としての生き方、考え方、語り方、歩み方において「価値観の転換」がなされているかどうか。冒頭の御言葉を共に考えよう。
【1】人間的な標準とは
人間的な標準は「肉によって」という意味がある。「肉による」とは、「生まれながらの人間、生まれ変わっていない人間の考え方による」という意味である。
生来の人間の考え方・人間的な標準の考え方とは、この世の価値観である。具体的には、うわべで人の価値判断をするやり方である。即ちこの世における価値は、大きくは民族の区別、社会的な地位、家柄、富、称号などが重要性を持っていることを知っている。
しかし悲しむべきことにコリント教会の中には、「肉によって」人を評価するキリスト者が現実にはいた故に、分派がありねたみや争いがあったのである。現代社会においても多く見られることである。
【2】キリスト者の価値判断とは
キリスト様に従う者達には、もはやそうした区別や差別は全く意味を持たない。支配されることもない。その理由としてパウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(14節)・「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方(キリスト)のために生きる」(15節)ためなのです。
*イエス様の愛に「取り囲」まれ「迫」られ、「押し出」されたのである。
キリスト様が命を捨てられた贖罪の愛!
*イエス様の死には二つの意味がある。一つは「キリストが私たちのために死んでくださった」(ロマ5:8)、もう一つは「私たちがキリストと共に死んだ」(ロマ6:8)ことである。前者は私の罪の身代わりに死んで下さったイエス様を信じることで罪が赦されることである。
後者はイエス様とともに死んだ者は、自分の罪に死んだのであり、よみがえられたキリスト・イエスにあって神に生きるのである。それは「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)のクリスチャン体験(聖化、きよめ、全き愛)、古い生来の自分に死んだのである。
パウロはそのような体験の故に、人間的な標準で評価される民族、血統、家柄、最高の学問を「キリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくた」としたのである。そして「私は使徒の中では最も小さい者、価値のない者です」と証しをした。(ピリピ3章、第一コリント15章)
あなたの価値観はいかがでしょうか。