『なぜ十字架が必要なのか』
【聖句】
『キリストは、聖書の示すとおりに、
私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、
また、聖書に従って三日目によみがえられたごと』
(コリント第一15章3・4節)
四国福音放送は徳島県内の伝道面では、福音の啓蒙に当ることです。
ミッションスクールがないためにキリスト教というと、多くの県民にとっては
違和感を感じているは確かです。四国の他の三県にはキリストに関わる学校が
あるから違和感は、徳島県ほどに感じないと言われます。
それ故、私たちは主の選びの民として、福音に相応しい生活が求められます。
私たちは少しでもイエスの福音を見せていく必要があるのではないでしょうか。
今月号は9月30日に私の放送がありますのでその内容を紹介いたします。
題名は「なぜ十字架が必要なのか」です。
ある方が「キリスト教の教えはよいのですが、十字架のお話は嫌いです。」と言われました。
その方には何が妨げになっているのだろうか.十字架上で流された血のことでしょうか。
実に匿いことですね。
さて十字架というのは、死刑囚を死ぬまで十字架に釘付けにし、人々の前にさらし者に
しておくという苦痛とはずかしめに満ちた処刑の方法でした。
まことに血を流す残酷な内容を聞くとは心に苦しみを受けるからですね。
聖書によると十字架の出来事は神様のご計画によるものでした。
新約聖書の「使徒の働き」2章23節には「あなた方は神の定めた計画と
神の予知とによって引き渡されたこの方(イエス・キリストを、不法な者によって
十字架につけて殺しました」と書かれているように、十字架は神様の計画であり、
神のみこころでした。ここに実に重大な意味があるのです。
何故、神様はそのひとり子イエス様を十字架につけるためにこの世に遣わされたのでしょうか。
何故イエス・キリストはこの世に誕生したのでしょうか。
それは私たち人間の罪を赦し、きよめるために十字架の刑を受けられたから。
「神は愛です」「愛は神から出ているのです」とイエス様の弟子の一人ヨハネは語っています。
神様の絶対的な愛、比類のない愛の現れがキリストの十字架でした。
聖書の言葉は「キリストは、自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストの(十字架の)打ち傷のゆえに、あなた方はいやされたのです。」(ペテロ第一の手紙2章24節)
キリストの十字架を信じる時に、あなたの罪は赦され、正しい生活が送れるのです。
続いて、10月7日(土)の放送内容を紹介いたします。
題名は「なぜ復活が必要なのか」です。四国放送ラジオをお聞き下さい。
このことも冒頭の聖旬句は「理解できないと言い、復活なんて信じられない」と。
私たちは毎日毎日、時計の針が時を刻むごとに、人々がどこかで生まれ、
また、どこかで間断なく人々が死んで、この世を去っていくのを知っています。
どんな人もこの不可解な力と事実である死に対抗する事は出来ません。
死は病気、災害、交通事故を含む不慮の災害そして自殺という悲しい姿があるのです。
この死に対して打ち勝った人がいるでしょうか。
キリストの十字架は人間の罪を赦し永遠のいのちを与えるための神の愛であり、
罪に対する勝利の宣言でした。そして、キリストが死からよみがえられたことは、
人間の死に対しての勝利を与えるためでした。
復活されたイエス様を記念し、感謝し、賛美歌を歌って、日曜日に礼拝しているのが教会なのです。
この礼拝は、今も生きておられるイエス・キリストを信仰して、この方をこの世に送って下さった
神様を崇めて、礼拝をしているのです。
聖書の言葉は 「もし、私たちがこの世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として、
死者の中からよみがえられたのです」(コリント第一の手紙15章19、20節)。
この御言葉のようにイエス様の復活は、私たちが死んでも、永遠のいのち、
神のいのちを持っているのでイエス様が再び天から来られるとき、私たちは復活するのです。
その時の栄光の姿は、「キリストは、神の御力によって、私たちの卑しいからだを、
ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」