『主を待ち望む信仰』
【聖句】
『私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け
私の叫びを聞き…私の歩みを確かにされた。』
『わが神。私は御こころを行うことを喜びとします。
あなたの教えは私の心のうちにあります。』
(詩篇40篇1、2、8節)
詩篇は礼拝において聖書交読用として多くの教会で引用されています。
詩篇は魂の全ての部分をリアルに告白され、心の奥に霊的に内面的に生きた信仰、
敬度な信仰へ導いて下さいます。詩篇の半分はダビデの詩歌です。
彼の生涯は波乱に満ちた生活でした。その体験から生まれた詩歌ですから、
恵まれたクリスチャンにとっても、霊の恵みが豊かに注がれてきます。
冒頭の聖句から「待ち望む」ことの意味いをお互いに考察してみよう。
待ち望むことはとても難しいことであります。人間同志の問で人を待つのも疲れを感じます。
まして父なる神様の表れ、神のみわざの表れを待つ事は、他に比較出来ないくらい、
これこそもっともっと大きな忍耐が必要で.何故?こんなに待望するのか。
アダムの堕落以来、人間は性急にしきりに父なる神の摂理より前に飛び出します。
私たちの心には待つことのできない罪があります。
ダビデは絶体絶命のような苦難に処した時、黙して父なる神を待つことにより、
多くの訓練・修練を受けました。同様に私たちにも「待ち望む」という
修練が必要なのではないでしょうか。
第一に望みがないと本当の信仰が証明されません。神様と信じあえる仲ですと、
どんなに険悪な環境下に置かれても、そして年月が流れても動揺せず、
神の言葉の真実さを信じて、断乎として待つということです。誠に感心に値する信仰です。
第二に、待ち望みは信仰的な人格を形成して下さいます。
真の信仰とは、神のみ旨、神のみこころを自分の心のなかに受け入れるプロセスです。
自分の主張や意志だけを通して、無鉄砲に前進だけしようとすることは、
バベルの塔のようで信仰ではない。
待ち望みは自我に死に、神が現れるのを待つことが唯一の方法と言います。
第三に、待ち望みは自分の高慢を砕きます。自分が計画した事が支障なく
自分の意のままに成就される時、神の恩恵を忘れて自分自身を誇るようになるでしょう。
自我という偶像が顔を出します。ですから、待ち望みは神様が自我を砕いて
神を敬う新しい人間を造る過程なのです。アーメン。
御存知のように創世記の人物伝を読むと神様の約束が成し遂げられるまでに、
アブラハムの待ち望みは二十五年、ヤコブは他の土地で二十年の待ち望み、
エジプト首相になったヨセフは十三年の待ち望み、そして偉大な指導者モーセは
何と四十年の荒野の羊飼いの生活でした。彼らは皆、惟急な人間には身震いするはど
大嫌いな長い長い待ち望みを通して神に従順に仕える人間に変えられたのです。
それこそアナタの自我を砕き信仰の従順さが造られます。
第四に、待ち望みは自分の信仰生活の焦点を父なる神様へと集中することが出来ます。
日々の生活の中でディボーションもままならず、散漫な心と生活は心の焦点が乱れてしまい、
「父なる神様だけ」という全存在的な主要目的を持つことが出来なくなるです。
待ち望みを通して私たちの信仰の究極的な目的は、衣食住や仕事にあるのではなく、
父なる神様にあることを教訓として学ぶ事になります。
イエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます」と語られたことは真実です。この事は、
あらゆる生活環境の中で壁にぶつかるようになり、ただ神を待ち望むことのみになったとき、
私たちはイエス様の言葉が重大な真理であると悟るようになります。
待ち望みは、肉体的には耐え切れない試練であり、霊的には信仰学校の修練なのです。
第五として、最後に待ち望んで祈り続けることであることを述べさせて頂きます。
待ち望んでの祈りは、結果的には本当に有効です。祈った後、どれだけ待ち望んでいるか
という祈りの量は、そのまま祈祷の応答に比例しているのです。
私たちは、祈りによって神様を動かし、さらに待ち望みによって神様が
働きますようにしなければならない。待ち望みは祈りの延長です。
心が満たされて待ち望み、祈りの答えを待つ身とならせて頂きたい。