『礼拝と献納』
【聖句】
『東方の博士たちは… そしてその家にはいって、
母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。
そして宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた』
(マタイ2章9〜11節)
11月26日礼拝説教要約
(序論)教会主催のディポーションは、この12月日をもって一応の区切りを
つけることにりました。二〇〇三年末から二〇〇六年末日までの三年間、
最初から真実に実行さた方々は、格別に霊の祝福が豊かであっことを拝見し
御名を崇めております。
この企画は聖書の拝読や通読とは異なって神様に御前に心を静める、また神様を
深く黙想する。神様の聖なる臨在に触れるといった心の営みに目が開かれることが
期待されて始められました。その目的が心に体験できた方は幸いです。
ティボーションの世界は深くて一生かかっても極め尽くせるものではありませんが、
こういう心の営みこそがクリスチャン生活の根幹をなしているということを理解され、
心にうなずくこができたら幸いです。
聖霊様によって、この世界が更に深められていけるよう祝福をお祈り致しましょう。
そこで今朝はアドベントに向かう節季でもありますが、マタイ2章l〜15から、
新しい年のディボーションの心備えも含め自ら反省し、示されております事柄を
取り継がせて頂きたいと思っております。
(本論)「東の博士たちに見られる訓練について」
(1)服従・・・聞き従う。
博士達の決断と実行力は星に導かれて全うされた。彼らは従ったことの故に
大きな役割を果たし、クリスマス毎に語られる記事となった。
私達の「服従」なしに神の御業は進められない。新年度、「エマオの道で」聖書を開く時、
この所で聖霊様神様の声を聞くことができるように助けて下さいと祈ろう聖霊に導かれ従おう。
(2)礼拝・・・平伏して拝んだ。
幼子を見、平伏し、拝んだ。それは聖なるお方を見た時、私達の心は平伏してしまうのが自然で、
平伏さないでおられるのは相手を知らないか自らの立場を弁えていないからである。
イエスを見る事、黙想する事が浅薄で時間が短か過ぎるために相手が分からないし、
心のうなずきにもならない
ディボーションとは、傾倒という意味ですから、何かをしながら聖書を読む時、
心に聖書が働かないので聞こえないし、神が見えない。その営みはディボーションから
ほど遠い。私達は神に平伏す心がどれだけ豊かになっただろうか。心の検索をしたい。
(3)献納・・・贈り物としてささげた。
博士達がささげた三種のものには意味がある。「黄金」はキリストの神性を、「乳香」は
キリストの聖性を、「投薬」はキリストの死を示すと、初代の教父達は記している。
いずれも示しに従って、宝の箱に詰められ運ばれた最高の品物であった。
献げるべき何物もない塵にひとしい被造物である人間に献納の機会と可能性が与えられているとは、
何という神様の憐れみであれり、特権でしょうか。
私達は純潔・純真な幼子に「黄金・乳香・投薬」を純潔な心と要求しない心で献げることの幸い、
与えることの喜びを博士達と共に体験させて頂きたい。
イエス様が十字架の死を目前にした時、ひとりの罪深い女は、泣きながらイエスの御足を
涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、高価な香油を塗った。ユダヤの女性は夫の前以外は
髪をとくことはない。その髪でぬぐうのは献身と服従を表わし、香油を塗ることは
尊厳を表わしている。彼女は高価さだけでなく、生命が献げられ愛が献げられた。
私たちの献げ物はどうであろうか。
毎回の礼拝で愛が献げられていますか。毎月の月定を心からの感謝と愛から献げられていますか。
時折、自己吟味をしたい。
(結論)
新しい年のディボーションが「服従」することが多くなり、神様とイエス様の黙想が深くなり、
平伏して拝む心が豊かにされ愛に満たされ、献げる幸い、与えることの幸い、
この喜びを体験する機会が多くなる様に!祈ります。
今朝のディポーションで賛美した387番4、5節を歌って、今朝のメッセージを締め括ります。
「我を生かす生命よ 我を救う言葉よ来たり満ちて御弟子と
なし給えや我をも 汝が御霊を主よ今 我に注ぎ満たして
知らせ給え 隠れし神の深き奥義を」
(高島慶子)