『祈りを実行しよう』
【聖句】
『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも
御霊によって祈りなさい。』
(エペソ2章18節)
毎年、二月は祈祷月間として、特に祈祷会では特例の感じで祈って来ました。
しかし教会全体としては、関心の薄さを感じてまいりました。また、祈り苦手の兄姉も
おられるようです.祈りの学校の必要性が思わされます。お祈りは神様との交わりであり、
空気を吸って生きているように、神の霊なる生命に生きる者だからですね。
冒頭の聖句には「どんな時にも御霊によって祈りなさい」と強く命令されました。
それゆえ、二つの種類があることを学び、祈りを実行するキリスト者になろう。
【1】一人きりになって祈ること
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられる
あなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6章6節)
早速、実際的な面から考えてみよう。早速実践的な面から考えてみよう。
第一にしっかりした習慣を持ちなさい。人を遠ざけ、こもり、人に見られないことを
強調しています。全く一人きりになって、神様ときよい時を過ごすべきです。
忙しい生活の中にあればこそ折りに集中てきる特定の場所を持つことは重要です。
「場所」は必ずあります。探してごらん。
習慣的に一人になる場所を見いだすまでは期待するほど強くなれないし祈りの生活における
強い習慣を形成することも出来ない。祈る場所を設けよ。
更に祈る「時間」を確保しなさい。今は忙しい。否定はしない。祈る時間がないのは、
時代が悪いのか、仕事が邪魔するのか、神様との交わりには、時間の長短は考えないでよい。
五分でも十分でもあなたの霊魂が永遠の神と力に触れるなら、一日が霊的活力が満ちる日となります。
今年の「エマオの道で」は最高の力を得るだろう。
再度言うが、一人きりになり、声を出して祈るとか、心を静めて、沈黙して神様と交わるとか、
立つとか、ひざまずくとか、すわるとか、一番役に立つ祈りの方法を自分で見つけ出す事です。
アナタはあれほどに人としゃべる口を持っているのだから場所、時間、方法は、あなたの選択と
決断によります。初めは苦しぐ困難だったものが、生活の一部になります。アーメン。
一日の初めに神様と二人だけで交わることの価値を知っている者は、交わりの時を失った一日が、
どんなにつらく、平安のない一日であるかを知っています。そのような日が来ることをお祈りいたします。
【2】二、三人で祈ること
「まことに、あなた方にもう一度、告げます。もし、あなた方のうち二人が、どんな事でも、
地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえて下さいます。
二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18章19.20節)
集団での祈りは、言うまでもなく祈祷会です。祈祷会で必要なことは「御名よって」集まることです。
「集まる所」という偉大な言葉には驚くほどの広がりがあります。教会でも集会所でも宣教大会場であれ、
「御名によって」集まるのですから、主イエス様の召集命令なのです。
これはクリスチャンとして、キリストの御性質にあずかり、キリストの愛に押し出され、
キリストの光に照らされて、イエス様の生き方を自分の生き方として生きる者でなければならない。
このような霊魂の集う所が祈祷会です。祈りの集会は、百人、千人、何万人と集まっても、
祈りに自分自身をささげるのは二人か三人かの単位です。祈り会が声を出して祈る、
沈黙の中で一人一人が神様と交わる、また、聖霊に導かれて祈り合うのです。「御名によって」集う所に
主の臨在があり、魂が触れて行くのです。
この集まりは、教会とは限りません。家庭生活の中でも、地域の教友の中でもよいのです。
ある教会では『祈り細胞」を形成している祈りの家が各地にあります。そのような集いでは、
何度祈ってもよい。他の人の祈りを聞いているうちに、新しい考えが浮かびます。
神の子であるクリスチャンたちが、小グループで祈りの交わりをする生活を育成されたら、
教会の力がどんなに大きくなるかわからないくらいです。将来は、当教会がそこまで育成されるでしょう
最後に勝利の祈りについて一言述べたい。
第一に、祈りは明確であること。
第二に、祈りはねぼり強さであること。
第三に、初りは服従する事であること。
個人的な祈りは、自分が何を望み、何を求めているのかを知る事です。そこに明確さ、粘り強さ、
神への服従が求められます。集まるところの祈祷会も同様です。
『求めなさい。そうすれば与えれます。』マタイ7章7節