『祈祷の実践によって祈祷の力へ』
−祈祷の刷新・祈祷の改革−
【聖句】
『私もまた、あなた方のために祈ることをやめて
主に罪を犯すことなど、とてもできない
(サムエル第一12章23節)
『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、
互いのために祈りなさい。いやされるためです。
義人の祈りは働くと、大きな力があります』
(ヤコブ書5章15節)
サムエルは「あなた方のために祈る事をやめる」とは神に対する大罪だと言った。
私たちの教会は週一回の早天祈祷会がありますが、この十年間は牧師二人のみ−否、
牧師白身も消極的になってしまった。赴任した頃、朝に夜に眉山に行き、海岸に行き
祈ったことだ。又、必要に応じて断食祈祷や月一回の徹夜祈祷会は三年間も続いた。
今や、自分自身が敗北感の中にいます。
長年のクリスチャン生活をしていても、ろくに祈らない信仰者が日本は多いと
言われます。一週間たってもほとんど祈らない信仰者もいると言われます。
私たちの教会員はその中にいないことを祈ります。
さて、ヤコブはイエス様の弟で復活の時に救い主として受け入れ信じて、
弟子となった。彼は「義人のヤコブ」と呼ばれ、敬虔な生活と祈りの人であった。
この5章で『信仰と祈祷』の関係を通して祈りについて教えています。
祈るクリスチャンと祈らないクリスチャンには信仰の捉え方に開きが表れて
きます。即ち、祈る人の信仰は生きていて実際的です。祈らない人の信仰は思想的です。
おしゃべりを好みます。お祈りは創造的です。祈りはビジョンを生み出します。
祈りは積極的、生産的です。ヤコブはエリヤの祈祷を引用しました。
御言葉に「雨が降らないように祈ると」と、真剣に、真実な祈り、切実な祈りであり、
その結果は三年六ケ月の継続した祈りとなり、再び祈ると天は雨を降らせました。
地上は結実でした。祈祷は祈りの実践によって自分のものとなるのてす。
「祈りの人」エリヤも私たちと同じ情の人です。それにも関わらず私たちの祈りが
効果がないのは何故でしょうか。
それは神の側ではなく、私たち受け取る側にあります。
第一に教会の祈祷会に目を向けよう。
「教会はペテロのために、神に熱心に祈り続けていた」(使徒12の4)。
教会は祈りの家でなければならない。祈りに熱心な教会でなければならない。
教会は祈祷の動力を最大限に所有していなければならない。
祈祷の集合体です。韓国のクリスチャン達は祈るために断食でも徹夜でも教会に
集まる集合体のようです。私たちほ数人であっても!そのような祈りグループを
祈りのうちに立ち上げましょう。今信じています。
私たちの教会祈祷会はこの六月から変貌の姿をチラリと見え始めました。
司会30分、メッセージ30分、とりなし祈祷30分の祈り会です。
アナタも参加されますように。
聖霊に満たされた弟子たちの伝道は、急激な成長を見ました。ペンチコステの霊に
注がれた福音でした。一方ではクリスチャン迫害は激しさを増しました。
ヤコブは殉教の死、ペテロは牢獄。しかし教会は熱心に継続して祈ったのです。
お祈りの前に大き過ぎる問題はありません。どのような困難も打開され、
驚くような事が起きました。
祈祷は神様の御手と御力とを動かす力なのです。祈りに比較できるものはない。
どんな時でも、何事でも祈る者にならなければならない。
祈祷のグループを創ろう。第二にあなたが「ひとり」になろう。
「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、
まだそこに、ひとりでおられた」(マタイ14の23)と。「ひとり」になることは
霊の世界では最も強いものです。他人に知られない所で祈ることができたら、
祈祷は勝利したようなものです。イエス様のユニークさは、ここにあったのです。
罪のある人間には入れない霊の交わりです。イエス様が父なる神様との深い内的な
質的なことで、神様と同質でした。神様だけを信頼し、常に神様とともに現実に
生きておられました。
私たちはイエス様に倣って、しばしば人様から離れて祈ることは大切なことです。
しかし身体だけを離れても、心は離別の状態ではないことがあります。
また身体が雑踏や満員電車に乗っていても、神の御前に一人になる事も出来ます。
エリヤは一人でカルメル山に登り、世と絶ち、祈りに専念し、集中傾倒し尽くしました。
そして希望を捨てず、忍耐力をもって7回にも及びました。祈祷はついに抜けました。
まさしくエリヤの祈りは、信仰から出た祈りでした。実に切なる折り、篤い祈りでした。
皆さんの祈りはいかがでしょうか。生きておられる神様との生々しい取引が祈りです。
全人格的に祈祷しようではありませんか。