『見捨てられるために生まれたキリスト』
−宣教拡大の年−
【聖句】
『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに
寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです』
(マタイ27章46節)
「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と呼ばれた。
これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である」
賛美歌153番「まぶねの中に」
1.「まぶねの中に 産声上げ 大工の家に人となりて
貧しき憂い 生くる悩み具になめし この人を見よ
2.略
3.すべてのものを 与えし未 死の他何も 報いられで
十字架の上に あげられつつ 敵を許しし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現われたる
この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ
今年のアドベントは「まぶねの中に」の賛美が極めて強く心に響いています。
第31回徳島市民クリスマスの案内を受け過去30回を含む著名な方々の
メッセージと講演を思い起こしますと、「この人を見よ」という、
クリスマスの中心であられるイエス・キリストの体験を紹介されたのは
数人ほどの方で、多くの方は、いつの間にか「私のわざを見よ」が
中心になっていたのでは?と思うのです。真のクリスマスとは何か”という
クリスマス・メッセージが強調を要する時代となっているように思うのです。
【1】「飼葉おけに寝ておられるキリスト
イエス・キリストは、今から2000余年前、ユダヤのベツレヘム(パンの家)という
小さく貧しい村に来てくださいました。神はひとり子を宿す場所として、この貧弱な地を、
わけても馬小屋の飼葉おけを選ばれたのです。
ここには、イエス様が私たち人間の貧しさ、霊的貧困さの中に宿ってくださる、という
真理が秘められています。
現代の私たちの生活はどうでしょうか。パンのことやお金のことしか考えないというなら、
そこが「パンの家」にすぎなくなります。
物は捨てるほど豊富にあり、お金さえあればたいていの物は手に入るような時代です。
しかし、私たちの体、心、霊魂の世界はますますやせ細ってきているように見えます。
心は枯渇しています。
しかし、誰もが予想しなかった飼葉おけに、救い主は生まれたのです。
それは何のためでしょうか.死ぬ”ためです。可愛らしい赤ん坊として生まれたキリストが、
三十数年後、その両手と両足に太い釘を打ち込まれるのです。
誰がこのようになることを想像できたでしょうか。しかし神は、そのことをよしとされたのです。
なぜなら、神から離れた私たち人間の罪を赦し、私たち人間を神の御許に帰らせるためなのです。
【2】カルバリの十字架におけるキリスト
カルバリはイエス様が十字架につけられた丘です。その意味は「しゃれこうべ」であり処刑場でした。
その十字架上でキリストは祈りました、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』
キリストは、父なる神に見捨てられたのです。その「見捨てられる」という神の審判を、
キリストご自身が、私たちの身代わりとして背負われ、私たちに代わって死なれたのです。
つまりキリストは、私の罪によって父なる神に見捨てられたにもかかわらず、決して私を
お見捨てにならない方なのです。その意味でキリスストのカルバリは、私たち人間の限界、
破局、破滅のシンボルでもあります。
しかし、クリスマスに神の御子が、このカルバリー(死ぬために生まれた)にまで覚悟を決めて
この世に降って来てくださった以上、イエス様によって克服されない十字架はもはやないのです。
私たち自身に背負わされた十字架は、喜びをもって受け取りたいですね。
人間のピンチは、神のチャンスですから。
【3】私の心のクリスマス
イエス様は、馬小屋のような場所で、しかも飼葉おけに寝かされてお生まれになりました。
汚く、みにくく、価値のない、みすぼらしい飼葉おけとは、私たち自身なのです。
その私たちの心に、このクリスマスの主、イエス様は天より降って来て、宿ってくださったのです。
そして最後は十字架にかかられての死でした。
賛美歌「まぶねの中に」の3番に歌われているように、イエス様の尊き「犠牲の愛」によって、
私たちの救いが成就したのです。
クリスマスの日に届けられ生まれた神の犠牲の愛をいただくとき、その愛に押し出され、
動かされて、犠牲を喜んで引き受けていく者とされていくのです。
今あなたの心にベツレヘムに来て下さった救い主イエスをお迎えして下さい。
本当のクリスマスが、あなたの心に実現されますように。お祈りします。