『十字架のことば』
−宣教と聖化の年−
【聖句】
『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。』
(コリント第一1章18節)
総会礼拝要約メッセージを再読していただきたい。
この世の知恵のむなしさに対して、神の知恵の素晴らしさが語られている。
キリストの十字架のことばは、人間の学問、昔、科学、教育の力を上回る。
なぜなら、世の力には、霊的な力、道徳的な力がないからだ。
それでは十字架のことばのより所はどこだろうか。
それは、イエス様が十字架にかかられた時の『7つの言葉」にある。
十字架上での第一声は『父よ、彼らをお赦しください。
彼らは何をしているのかわからないのです。』(ルカ23章34節)であった。
人間は誰でも心の傷を持っている。心の傷がいやされるためには、
赦しが重要である。赦しは、心やしと回復と自由と刷新への扉を開く。
その扉を開くまでは、過去に束縛されたまま、新しい明日を生きる希望はなく、
ただ傷と重荷を背負って生きていかねばならない。
それでは真の赦しとはどのようなことなのか。S・シーモンズ博士は
真の赦しには7つのステップがあると語る。(著書『十字架といやしへの道』)
すなわち@事実に向き合う。A傷を感じる。B憎しみに対峙する。C痛みを抱く。
D自分に罪を犯した者を解放する。E自分の責任を認める。F和解を求める。
以上の7つである。
今私たちは、7つのステップを通して何を語られているのだろうか。
それは、あなたに罪を犯した人、あなたを傷つけた人を赦すプロセスを、
知り始める必要があるということである。
また、傷とにがにがしい思いで葛藤している心の中に、
恵みが豊かに働き続けることを願っているということである。
キリストの十字架のことばは私たちを招いているのだ。
罪の赦しの権威をもっておられるキリストは、『子よ。あなたの罪は赦されました』
(マルコ2章5節)と、罪の赦しといやしを宣言される。アーメン。
主キリストの十字架に思いをはせるとき、私たちが真っ先に
思い知らなければならないのは、「私は罪人である」、そして
「主に赦されなければならない人間である」ということではないだろうか。
イザヤ53章5節「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの
とがのために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされたごとあるように、
私の罪は、罪のない神の御子キリストが、私に代わって私の罪を負われ
十字架にはりつけとなることによってのみ、赦される。
もし私たちが自分の罪を主の十字架以外のところに見出そうとするなら、
その罪は永久に赦されることなく、いつまでも残り続け、私たちを
苦しめることだろう。
最後に、イユス様は「何をしているのか自分でわからないのです」と
私たちをかばい、とりなして下さっている。たとえ主が赦して下さっても
人があれこれ私たちを責め立てることもあるだろう。しかし主は
どこまでも私たちをかばい、守り、とりなして下さるお方であられる。
まことに十字架上のキリスとのことばは神の力なのである。
生命をささげた愛の十字架にかけ寄ろう。