『”聖化”とは一体何だろうか』



−聖化と宣教の年−

【聖句】
『それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも
 聖でなければならない。』と書いてあるからです。』
            (ペテロ第一の手紙1章16節)

皆様方は、神の恵みによって、キリストの御救いにあずかり、大きな喜びと感激に満ちて
教会生活を始めたことだろう。私もそうだった。それはイエス様を信じた者のみが感じ持つ
大いなる特権であり、私たちは祝福と勝利の道を進み出したのだ。
そして、多くのクリスチャンが、神の恵みの深さを知り、受け、与えるという大きな愛に
対する感激にあふれて来るのだ。ところが、信仰生活を送っていくと、時々、愛や喜びを
持っているはずのクリスチャンが、勇気や元気をなくしていたり、勝利ではなく
敗北したりする姿を見る。また、心の中に、誰にも言えない深い苦悩を抱きながら、
他を批判し、自らを正当化して、主の恵みより離れ去ってしまう人も、ときに見るのである。
私たちがイエス様を信じ罪が赦されても、この肉体がこの地上にある以上、社会的な、家庭的な、
人間的なさまざまな問題からも脱出することはできない。時には末信者から激しい攻撃にあうことや、
想定外の人生の試練にあうこともある。しかしながら、クリスチャンの戦いの敗北の原因は、
外部にあるのではなく、内部にある。と言うのも、それは新しい性質と古い性質との対決であり、
戦いだからである。

【1】古い性質とは何か

しばしば、「あの人の性格が悪い」という言葉を聞くことはないだろうか。性格という言葉には
性格と人格を合わせることも可能である。イエス様を信じる信仰により、新しい性格、
新しい性質、新しい人格が作り出され始める。そのときに、古いものと新しいものとが
自分のうちで対立し、繰り広げられていく戦いを自覚する。古い性質は、何かあると
短気を起こし、よくない思いを心に抱かせ、思い煩い、ねたみ、高ぶり、疑い、うらみ、
憎しみ、人を赦せない心、利己心、その他多くのきよくない衝動などの罪を沸き上がらせる。
私たちはこれらの罪と戦い、苦しみ、そして祈る。しかし、どうにもならない自分自身に気づく。
パウロは、「私は、自分でしたいと思える善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
・・・それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7章19・20節)
と告白しているように、あらゆる意志の力を働かせたものの、無残にも古い性質に敗北した。
その敗北の原因を追究する中で、パウロは聖化へと導かれて行った!

【2】なぜ聖化が必要か

聖化とは、『聖潔』『きよめ』とも言う。まじめな信仰生活を送っていると、『聖化』『きよめ』を
必然的に求めるようになる。なぜ聖化が必要なのか、2つの面から見よう。

@ 聖なる神からの要求

冒頭の聖句『わたしが聖であるから』とあるように、神は聖なるお方だから、神に近づき
礼拝する者には聖さが要求される。また、聖化されること自体が、神のご命令である。
さらに、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることである」(Iテサロニケ4・3)と、
パウロは聖くあることは神のみこころであると語る。ちょうど、親が自分の子供達が健康であることを
願うように神は、神の子ども達が霊的健康を保って聖くあるのを望んでおられる。この聖くされるために、
神は私達を、イエス様の救いに入れてくださった。

A クリスチャンの要求

きよくありたいとの願望は、クリスチャンとして当然である。もし、このきよくなりたいという
心の渇きがないのなら、ある意味では、神の子としての新生・回心に目を向けなければならない。
なぜなら、クリスチャンになると、内心の汚れや罪、内心の弱さに気づくからである。
ここに、聖化の必要を見る。特に、神との交わり、クリスチャンとの交わり、
主の奉仕のためには必要である。お互いに『聖化』の必要を自覚したい。
これこそ、今日の牧師・信徒に最も必要なものではないだろうか。

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