『『聖書信仰』について』
−聖化と宣教の年−
【聖句】
『こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。
あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、
それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに
神のことばとして受け入れてくれたからです。
この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです』
(テサロニケ第二2章13節)
今年度の初心者・求道者向けの集会は、5月の第4回徳島宣教大会(講師・中川健一師)と、
11月の「世の光」リスナー大会だった。
聖書や賛美歌に初めて触れられた方も数人出席され、感謝だった。
リスナー大会講師の福井先生のメッセージは、初心者・求道者向けにふさわしい内容で、
クリスチャンたちにも恵みの時となった。インマヌエル・シンガーズの奉仕は
集会を盛り上げる要素となり、先、生も恵みを受けて、メッセージを30分も
オーバーするほどだった。ハレルヤ!
私は一人の牧師として、聖書の御言葉の用い方に違和感を覚える聖句があった。
パウロが『よりすぐれた賜物として』として提示したのは、コリント第一13章にある
『愛』(アガべー)の道で、それは愛の賛歌となった。この愛の特徴を逆の言葉で語られた時、
私の心は乱れたのである。改あて聖書の御言葉について、再考させられた。
(1)聖書の権威
聖書は、権威の真の源が天地創造主であられる神にあることを、明白にしている。
生来的には、いかなる人間も何の権威も持ち合わせていない。『人はみな、上に立つ権威に
従うべきです。神によらない権威はなく存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。』
(ローマ13:1)とあるように、人間の持っている権威は、あくまでも委任的なものである。
つまり、神の権威を帯びた書物である聖書は、神の啓示と霊感とによって書かれているということである。
神は御自身の絶対的権威を、神の子キリストを通して行使される。それゆえ御子は、
「罪を赦す権威」を持っておられる。(マルコ2・10)
(2)聖書解釈の原則
聖書が神の言葉であるという信仰、つまり厳正な聖書信仰は、クリスチャンにとって不可欠である。
それゆえ聖書の解釈は、独断的、恣意的(その時その時の思いつき)に行なうものではない。
正当な根拠に基づいて解釈しなければならない。
特に御言葉や文章は、神の霊感によって成立しており、啓示の書としての統一性を持っていることを、
重要な前提としている。それらを踏まえての字義的解釈、歴史的解釈が求められる。
もちろん、聖書の解釈は単なる釈義で終わるものではない。解釈する者の人格と生活へと、
適用されなければならない。
人間の聖書の解釈は完全ではないものの、より正確な釈義と、よりふさわしい適用を追求することが
今後とも求められるだろう。
(3)聖書信仰と宣教
宣教の聖書的根拠は、直接的には「全世界に出て行き、すバての造られた者に、福音を宣べ伝えなきい。
信じてバブテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16・15〜16)にある。
この福音とは、御言葉を伝えることである。冒頭の聖句のように、私たちは宣教において、聖書の権威を
弁証することではなく、ただ宣教することによって、神の言葉を証明するのである。
権威をもって宣教する場合、私たちの語るメッセージの内容は、当然のこと、私たちの罪のために
十字架につけられたキリストの福音に他ならない。聖書は誤りなき神の言葉だからである。アーメン。
(4)聖書の学び方について
私たちが聖書を学ぶということは、他の何を学ぶにもまさって、幸いで素晴らしいことである。
またその学びは、何にもまさる謙虚な心をもって、行なわれなければならない。
@聖書は聖書そのものを読むこと
何をおいても、聖書の本文を読むことである。神は聖書を通して人に語りかけられるのだから、
神に聞くという姿勢で祈り、心をもって読むことである。そして聖書の全体像をとらえ、
聖書の文脈も正しくとらえるようにする。
A聖書に関わる注解書をよく調べること
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、
はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒の働き17・11)
B聖書を信仰と生活に適用すること
御言葉は、私たちの信仰生活に生かされる。つまり、自分と神、人との関係、家庭、結婚、
健康、金銭の課題、死と永遠の生命に関わることまで聖書の言葉に結び付けて、
それを基準として生きるのである。
(5)結び
聖書信仰は、「聖書は誤りなき神の言葉」という聖書観そのものを、信仰的に、神学的に
堅く立て上げるとともに、具体的な宣教、教会形成、社会的姿勢等をも堅く立て上げる。
最後に私たちは、ウェスレーが「一書の人」と言われたことに留意したい。