| 2007年12月30日 12歳のイエス・キリスト |
| ルカの福音書2章39〜52節 【1】父ヨセフと母マリヤの信仰について(41節) 2人は旧約における家庭生活の中に神への従順さ献身の姿を現していた。子ども達はナザレの家で留守番をしていた。実に興味深いのは彼らの家庭における宗教生活である。 【2】主イエスの少年時代について(42節) イエス様の周囲にいる人々はイエス様のたぐいまれなる聡明さに茫然自失するほど驚愕したことだろう。そして良心であるヨセフとマリヤは度を失うほどに驚いたに違いない。この箇所はイエス様の知識の深さ・洞察力の鋭さが如何なるものであったかを物語っている。イエス様はこの神殿での出来事を通して、ご自分の御使命を再認識なされ父なる神との関係を深められたのである。 (48・49節) イエス様の知識の背景としては、おそらくマリヤが旧約の話や律法の素晴らしさを教えたのだろうと想像できる。時にはマリヤが返答できないような質問もあったかもしれない。ただしかしイエス様の知識は母親よりも深いものであられた。ところでユダヤでは12歳になるとどの家庭でも生業を覚えさせられる。父ヨセフはイエス様に大工の仕事を教え込んだ。イエス様はその仕事を学びつつ、父なる神の導きも祈られていとことだろう。 (結び) 1.私たちも「暮らしは低くても思いは高く」持ち続けよう 2.12歳のイエス様のように身近な人々に仕えよう 3.どのような仕事でも執念イエス様の心構えで取り組もう |
| 2007年12月23日 マリヤと羊飼いたち |
| ルカの福音書2章8〜20節 クリスマスの「クリス」とはキリスト(救い主)のことで「マス」はミサ(礼拝・祭り)のことである。 クリスマスは救い主キリストを礼拝する祭りという意味で、A.D4世紀にヨーロッパで祝われるようになった。 (11・12節) 御使いは事実としての誕生を告げるだけではなく、神のメッセージをもたらした。 私たちは御使いの羊飼いたちへの告知「すばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。」を今一度しっかりと記憶しましょう。 (13・14節) 人間の罪のゆえに神と人間の間には大きな断層・裂け目があり、それを埋めて下さる橋を架けて下さるキリストは神であられると同時に人間でなければならない。キリストは愛の架け橋、すなわち十字架の架け橋となられて神と人間との和解役仲立ち人となられた。それゆえ、まずクリスチャンが神との真の平和を得たのです。 (15・16節) この喜びの福音は、この羊飼いたちのように単純さと素直な信仰を持って自らの為に救い主イエスをたずね求める者に与えられる。求道中の方は求めるなら得られたずねるなら会うことが出来る。羊飼いたちがみどり子を探し当てたように。 (18・19節) 羊飼いたちの働きの実は周りの人々に伝えたことだけであった。しかし彼らから伝え聞いた人々は驚いただけで終わってしまった。ただマリヤはすべてを心に納め思い巡らした。後日マリヤがずっと長きにわたり記憶し黙想して語らずにいたことをルカは聞かされてたに違いない。 (結び) マリヤは驚きつつも受胎告知を受けた。私たちがクリスチャンになったことについて、家族や友人たちは驚いたことだろう。私たちも羊飼いたちのように私たち自身を通して救い主イエス・キリストの御誕生という素晴らしい驚きの恵みを人々に知らせてゆこう! |
| 2007年12月16日 ヨセフとマリヤ |
| マタイの福音書1章18〜25節 【1】マリヤの賛歌(ルカ1章46〜55節) 神の恵みへの個人的感謝・賛美(46〜48節) マリヤは聖霊によってわが救い主なる神をほめたたえ喜びに満ちている。 全能の神の力強さを賛美(49〜53節) 神は全能の力を持ち全く聖い性質を有し主を信じるすべての者に憐れみと恵みとを注がれる。 イスラエルの救いを賛美(54〜55節) アブラハムへの約束が子孫を経てマリヤの処女降誕により成就することこそがイスラエルの救いであるとマリヤは悟り賛美した。 【2】ヨセフの信仰(マタイ1章18〜25節) マリヤを愛し守るヨセフ 天使ガブリエルの告知に素直に従い妻を愛し守る夫の姿が描き出されている。ヨセフはマリヤを信頼し何があっても守り抜こうと決心したのである。 家族を支え導くヨセフ ヨセフは一家の中心として神の導きに従いながら一生懸命行動し家族を支え導いた。 子どもに教え伝えるヨセフ(ルカ2章41〜52節) (結び) 降誕の出来事からヨセフとマリヤが父親としてまた母親として、どのような人物であったのかを学んだ。恐れと不安の中を生き抜いた聖家族を通して、現代の家族のあり方を考える機会となるのではないだろうか。 |
| 2007年12月9日 エリサベツとマリヤ |
| ルカの福音書1章24〜45節 【1】エリサベツの信仰 彼女は約束の男の子ヨハネの誕生を待望していた。御使いの言葉を信じていたからである。男の子に命名するにあたってエリサベツは「ヨハネという名にしなけらばなりません」と言った。御使いが夫ザカリヤに言った名前を明らかにしたのです。彼女は見て信じる信仰ではなく見ないで信ずる信仰であった。 【2】エリサベツの賛歌(41〜45節) マリヤがエリサベツに挨拶した時エリサベツの胎内で胎児はおどり、エリサベツ自身は聖霊に感じてマリヤに対する天使の告知を悟り、なおも聖霊に満たされてマリヤを賛美し祝福した。彼女はマリヤが主(メシヤ、救い主)の母であることを聖霊によって、いとも簡単に認識できたのである。エリサベツは信仰に満ちたマリヤの挨拶を聞いて、その胎内の子とともに喜び天使の告知を信じ切ったマリヤに祝福の賛美をささげた。これは『主によって語られたことばは必ず実現する』と全的信仰を告白した者にもたらされる祝福である。 【3】マリヤの信仰 処女懐妊は人間の理性では判断できない。神の言葉であるがゆえにマリヤは全的信仰をもって御使いの言葉を受けとめたのである。ヨセフから誤解され世の人々からは嘲笑され、あるいは然るべき処罰を受けなければならないおそれが強いにもかかわらず、マリヤはすべてを神に委任し神の言葉を受け入れたのである。とても言葉では表現出来ないほどの大いなる信仰、大胆な御言葉の把握、自己犠牲的な服従を、この時マリヤは見せたのであった。 (結び) ザカリヤはエルサレムの祭司、マリヤはガラテヤ地方の娘であった。信仰は社会的地位にはまったく関係がない。不信仰は罪なのである。私たちはマリヤの心と信仰から神に向かう謙遜と委託という信仰要素を求めることが出来る。 |
| 2007年12月2日 ザカリヤとエリサベツ |
| ルカの福音書1章5〜25節 【1】ザカリヤの不信仰について ルカはまず先駆者ヨハネの誕生について記した。祭司ザカリヤ夫婦は2人とも神の御前に正しい人であって主のすべての戒めと定めとを落ち度なく行っていた敬虔な人であった。しかしザカリヤは男の子誕生という今まで祈ってきた課題が答えられたことに対して、祈っていたにもかかわらず、この神の約束に対して準備が出来ませんでした。今「神の時」が来て祈りが答えられると私たちは信じかねてしまうことがある。真の信仰の祈りは、どのような課題や事情があっても。ただ神の言葉に立ち信じて疑わないことでです。 【2】ザカリヤの信仰について ザカリヤは10ヶ月の間、不信仰の懲らしめを受けていたが、口と耳の不自由な者として、この世と全くの没交渉の中で神と深い交わりをしていたのです。そして今たちどころに彼の口が開かれると、せき止められていた水が一度に流れ出すように舌が解け言葉が出て神を賛美したのです。 【3】エリサベツの信仰について マリヤがイエス誕生を語る前にエリサベツは聖霊を感じ聖霊に満たされていた。彼女はマリヤを「主の母」と呼び祝福した。マリヤは人性をとられたキリストの地上の母であったが、いかなる意味でも永遠の母ではなかった。マリヤは信じたからこそエリサベツに「幸いなこと」と言われたのです。エリサベツは夫ザカリヤが不信仰によりものが言えなくなるという一時的な懲らしめを受けたものの神を信じていたために懐妊し聖霊に満たされてマリヤを祝福するに至ったのである。 (結び) 福音書を読むにあたっては初めから奇跡に驚くのではなく全的信仰を乗り越えキリストを信じることである。聖霊によって「イエスは主である」ということが出来るのであり救われた体験者は超自然的な処女懐妊も信じることができるのです。 |
| 2007年11月25日 圧倒的な勝利者となる |
| ローマ書8章31〜39節 (31節)「誰も私たちに敵対する者はいない」 その理由は神が私たちの味方だからである。神が私たちの側に立っていて下さるということである。 (32節)「神は御子といっしょに私たちにすべてのものを恵んで下さる。」 その理由は神にとって、その愛するひとり子を人間の罪の為に十字架につけることは、いかほどに耐えられない苦しみであったからである。 (33節)「神に選ばれた私たちを訴える者はいない」 神の絶対的な愛を知り、さまざまな誤解や非難や迫害があっても神ご自身が義とされたのであるから、これを誰もが訴えることなどできないのである。 (34節)「罪に定める者はいない」 有罪の判決を下すことのできない理由はキリストが十字架の贖いのわざと復活を通して神の右に着座する偉大な弁護士であられるからである。現在も天において、とりなしの救いの働きをされている。 (35節)「キリストの愛から引き離す者はいない」 (結び) この愛を知ることが「圧倒的な勝利者となる」鍵である。困難と逆境の只中にあっても「私たちを愛して下さった方」の愛といのちが私たちを圧倒的な勝利者に導くのである。圧倒的な勝利者とは、やっと片付いて良かったということではなく乗り越えた試練の中から信仰教訓を促えることである。今も私たちには聖霊によって神の愛が注がれているのだから勝利を宣言できる凱旋的な生活を送ろうではありませんか。 |
| 2007年11月18日 聖霊の助けと神のご計画 |
| ローマ書8章26〜30節 【1】御霊の助け(16・27節) パウロは聖霊なる神と親しい関係に入っていた。目には見えないが御霊は人格を備えられた方でいらっしゃるから親しい交わりをすることが出来る。御霊は神の御こころに従って私たちクリスチャンのためにとりなして下さるからこそ神の御前に私たちの祈りは届けられる。 【2】神のご計画(28〜30節) 神は計画を持っておられる。それはまず人間の救いである。罪に敗けて堕落した人間の救いは神の摂理のご計画の中にある。神は人間の救いを旧約聖書の中で示し時が満ちると救い主イエス・キリストをお与え下さった。キリストの誕生・十字架・復活・昇天・再臨という一つ一つの出来事や未来の約束はすべて神のご計画の中にある。また一人の罪人の救いは大きな出来事であるとともに、その一生涯も神のご計画の中に入っている。全知の神は計画のすべてのことが益となるように働かれる。 神は予知し予定する。それは何を意味しているのか。予定するのは救いの恵みに対する人間の応答の仕方による。人がキリストを信じるか信じないかは、その人の自己の意志決定による。人がキリストを信じるなら救われる。また。信じないなら滅びに定められる。 (結び) 神のご計画は、すべての人が罪を悔い改めて神のみもとに孵り、御子イエスの御かたちへと栄化され、「神のご性質にあずかる者」となることである。 |
| 2007年11月11日 被造物、キリスト者、聖霊のうめき |
| ローマ書8章18〜26節 罪のために世界と人類とがうめきの中にいる。しかしキリストの中にいる。しかしキリストの贖いによって救いはすでに人類に与えられ完了している。またキリストとともに神の栄光にあずかるために私たちは現在キリストとともに苦しんでいる。そしてこれからも私たちは肉体の制限の中におかれている以上しばしば苦難が来ることがある。 (18節) 当時クリスチャンたちやパウロが直面していた迫害や困難の中にあって、その後に神が彼らに与えてくださる報いは、それらをはるかに越えた栄光である。私たちもキリストのために多くの苦難を受けるであろう。しかし神は苦難にまさる栄光を備えておられる。 (19〜22節)「被造物のうめき」 被造物とはクリスチャンを除くすべての被造物を指す。被造物全体は、そのすべての部分とともに一つとなって苦しみ、嘆き、あえいでいる。自然界が罪ののろいから解放され回復されることを。神の造られた自然界の回復はイザヤ書11章6〜9節、35章1〜2節、6〜7節にも語れている。私たちは被造物全体のうめきを知り、共有し回復することを信じている。 (23〜25節)「神の子たちのうめき」 現在の苦しみは将来に対する希望によっている。目で見ている希望は真実の希望ではない。私たちキリスト者は、すでに救われた者であるとともに肉体の贖われることを希望して生きている。希望によって忍耐が生きてくる。この忍耐により外からの迫害や困難に対する忍耐力が養われ喜んで忍耐し熱心に待望する者とさせられていく。 (26節)「御霊のうめき」 私たちの戦いは決して孤独なものではない。御霊ご自身がともにうめいて下さりともに戦って下さる。御霊ご自身が弱い私たちと一緒になり私たちの代わりとなって助け、手助けして下さる。アーメン (結び) 今一度、真のうめきとは何か。考えよう。 |
| 2007年10月28日 神の相続人でもある神の子ども |
| ローマ書8章10〜17節 (12節) 「肉に従って」「肉に対して」の肉は肉性ではなく人間性を意味している。12節はキリストの十字架による救いと神の御霊による新しい生き方を私たちに要求している。 (13節) 大切なことは全能の神の御霊の力によって罪の結果である肉欲的な悪を殺し御霊に満たされて生きることである。 (14節) 神の子は御霊によっていのちを与えられて新生し御霊によって導かれる。そこにキリスト者の信仰生活の過程は示され、かつそれは一回限りのものではなく継続して与えられ導かれていく。 (15節) 私たちは神の御霊の働きによって神の子とされたと同時に絶対的な信頼と平安をもって神を「アバ、父」と呼ぶことが出来る。そらは御霊の働きによるのです。 (16節) 神の子であるという内的確信は御霊が確証して下さる。私たちが神様に愛された子であるという事実を主体的に自覚させて下さるのは神の御霊が罪を悔い改めキリストを信じて新生した私たちの霊と共に働いて神の子であるとの内的な確証を与えて下さるからです。 (17節) 神の子であるという事実は神の子としての特権に与り今すでに神の御国の相続人である。今はキリストと共に苦難の道を歩いているが、それは将来キリストと共に栄光に与るためである。 (結び) 神の子であり神の相続人であるクリスチャンは聖霊によって勝利を得た者であり困難の中にあっても勝利の希望に輝いている。 |
| 2007年10月14日 大いなる救いのみわざによる解放 |
| ローマ書8章1〜4節 8章では罪が赦され義とされた者、きよめられた者が、どのような生活を送るのかについて述べている。さおれは『聖霊による勝利の生活』である。 (1節) キリストト一体、合一するときキリストの十字架の死にともにあずかり復活にもあずかっている。さらに『キリストと共によみがえらされ・・いのちはキリストと共に神のうちに隠されてある』からである。これがキリスト合一された者に与えられる祝福である。だからこそもはや有罪も死もないのである。 (2節) なぜ?有罪も死もないのか。その理由は『いのちの御霊の原理』が『罪と死の原理』を追放したから。『いのちの御霊の原理』は私たちに生命を与え、また罪に勝つ力を与えて下さる。神の御霊の支配と権威と力だから。それゆえその力で『罪と死の原理』から解放される。まことに解放のわざは聖霊による。 (3節) 『肉』とは人間あるいは動物の肉体、人間の全存在、単なる人間ではなく罪の奴隷となり本能的欲望のままに生きる人間・生来の人間性の意味がある。神はご自分の御子キリストを人間の罪のために罪深い人間と同じような形で遣わして下さった。肉体をとられたキリストはその肉体を十字架につけられて罪の罰を受けられた。十字架によって罪を処罰され罪に勝たれた。すなわち救いの道とはキリストの受肉と贖いの死によるものである。 (4節) 『御霊によって歩む者』が律法の要求する義を満たすことが出来る。それは御霊によって生活する者たちの中において実現し全うされる。このように大いなる救いのわざはキリストの受肉と十字架により罪が処罰されることによって完成した。しかもそれは聖霊によって体験される。 (結び) ★大いなる救いのみわざは罪から解放され、いのちの御霊が宿ることである。 ★大いなる救いのみわざはキリストの受肉による解放である。 ★大いなる救いのみわざは御霊による生活の実現である。 |
| 2007年10月7日 私のうちに住みついている罪 |
| ローマ書7章14〜25節 (14節) 問題点は何でしょうか。『私』なのです。パウロは『私は罪ある人間であり売られて罪の下にある者です。』とアダムにおいて罪の下に置かれてしまったと言います。 (15・16節) パウロは罪の現実を苦悩に満ちた言葉で告白しました。それこそ『私』の中における罪のすさまじさでした。これは律法は良い物であるとパウロが認識していたからです。私たちはどれほど『私の罪』を認識しているのでしょうか。 (17〜20節) パウロは内住する罪のゆえに『善をしようとする意志は自分にはあるがそれをする力が無い』と述べているように内住する罪が私たちの内的な闘いであり無力になってしまう原因です。 (22〜24節) 1.神の律法 心の律法 =新しい性質= 2.罪の律法 異なった律法 =罪の性質= (25節) 罪から私たちを救うキリストの救いは犯した罪を赦すだけではなく、この罪の性質をもきよめる完全な救いなのです。 (結び) ★キリスト者にも内的な戦いがあること ★キリスト者の内的な戦いの原因は内住の罪であること ★キリスト者の内的な戦いに勝利を与えるのはキリスト者であること |
| 2007年9月23日 文字によらず新しい御霊に・・ |
| ローマ書7章1〜12節 パウロは5章12節以降にて根源的な罪の問題、またそれからのきよめの問題を論じてきた。そして恵みの下に生きているクリスチャンは、すでに自我と罪とから解放されるだけでなく律法からも解放されていることを主張した。この律法からの解放は罪からの解放と似た表現だが全く違う内容であることに注意したい。 1.7章1節〜6節・・「律法からの解放」 (1節)モーセの律法を含む法律一般によって社会生活している者が教えの対象となっています。私たちも知っていることです。 (2・3節)パウロが結婚のたとえをもって明白にした原理は法律的効力や拘束力は死者には及ばないし、また相手の死によって消滅するということです。そしてこの原理は私たちクリスチャンと律法の関係に当てはまります。 (4節)十字架につけられたキリストの体によって私たちは自分に死んでキリストと結ばれることによって多くの実を結ぶことが出来ます。すなわちキリストとともに死ぬことによって律法に対して死んだのです。 (5・6節)新しい生活は律法に死んで律法から解放され古い文字・律法の生活がなくなりました。古い文字からの解放は律法からの解放であり古い人がキリストとともに十字架につけられたことです。すなわち古き人が死ぬことと律法に死ぬこととは同じです。 2.7章7節〜11節・・「律法の果たす機能について」 (7〜11節)今までの論説からすると律法は罪になってしまいます。パウロは「絶対にそんなことはない」と強い口調で否定しました。律法の働きは何でしょうか。 ★罪の意識を生じる。すなわち罪の自覚を与えることです。 ★律法があるから罪を生起させられる。 ★律法は私たちを罪に対する死に導き殺す。 3.7章12節・・「聖であり善である律法」 (12節)聖なる神様が人間に神の聖さ、正しさ、良きものを与えるための律法でした。 (結び)律法に入って律法に抜けることです。すなわち御言葉を信じ受け入れ聖霊により御言葉が肉となり血となって魂が自由になることです。 |
| 2007年9月16日 罪の奴隷・神の奴隷・聖潔に至る実 |
| ローマ書6章12〜23節 聖化・聖潔・きよめを解き明かす第二のたとえとして、パウロは「奴隷のたとえ」を用いました。「奴隷のたとえ」を用いるあたり、12〜14節では「不義の器」「義の器」「律法の下」「恵みの下」という言葉を用いて具体的な勧告をしています。 1.罪にささげてはいけません。(12.13節) 2.神にささげなさい。(13節) 3.恵みの下にあるからです。(14節) パウロは『あなたがたは律法の下にはなく恵みの下にあるからです』と語りました。最も的確に語られていますが、最も誤解を招きやすい言葉です。 神の恵みの下にあるのだから罪を犯しても赦されるとすると、無原則の赦しや無責任の容認となってしまいます。クリスチャン生活の本質は恵みの下にあるのだから「さあ安心して罪を犯そう」という無律法に陥る危険がありました。この課題に対してパウロは『奴隷のたとえ』を通して語りました。 (1)罪の奴隷・不法の奴隷 罪の中の生活は闇、暗黒、絶望、憎悪、欲望・・死に向かうのみ (2)義の奴隷・神の奴隷・従順の奴隷 回心・新生という出来事によって、すなわちイエス・キリストを信じる信仰によって「義の奴隷」に変えられました。 (3)聖潔に進みなさい。聖潔に至る実を得たのです。 罪から解放され義のしもべ、神のしもべになり次のステップは「聖化」に向かう。 (結び)『罪から来る報酬は死です』(23節)と、死は肉体的な死である以上に神のさばきによる滅亡を意味します。永遠の死と言われます。死は現実的であるとともに終末的であり、現実に人間は苦悩しています。しかし、そのような中にあっても、イエス様を信じる者には、イエス・キリストにある永遠の生命が与えられ永遠の神と和解し、神と交わり、神と共に生きる者とされたのです。ハレルヤ! |
| 2007年9月2日 古い人がキリストとともに十字架に |
| ローマ書6章1〜11節 ローマ書6章〜7章においては聖化・聖潔・きよめの本論へと筆をすすめています。クリスチャンはイエス様と心霊的に一つ、一体化された者です。イエス様と一つとされて私たちは罪から自由になり新しいいのちに生きることが出来ます。 1節・・私たちは罪が赦され義とされ罪から救われました。1節の意味合いは神の恵みが人間の罪に比例して増し加わるのではなく「罪責感」によるということなのです。 2節・・パウロは「罪に対して死んだ私たち」とまず聖化の結論を述べてから始めています。罪に死ぬということがどのようになされるか。これが聖化のポイントです。 3節・・パウロはバプテスマを比喩的に用いて「生と死」を述べます。「キリスト・イエスのつくバプテスマ」とはイエス様の中に完全に没入させられイエス様と生命的・有機的に一つとされたということです。キリストを信じ聖霊によってイエス様と一つにされた恩恵です。 4節・・イエス様と一つにされたクリスチャンの本質が説明されています。「キリストの死にあずかるバプテスマ」とは罪と自我とこの世に対して死ぬことによってイエス様と一体化されます。「死」は「葬られた」ことを意味します。 5節・・「つぎ合わされて」は接ぎ木されていのちを一つにし「同じように」とはイエス様と本質的に同じ者になるというより本質に与り似た者となるということ。私たちがキリストに接ぎ木されてイエス様の死の姿に似た者となるのですからイエス様の復活の姿にも似た者となることが出来るのです。 6節・・もちろんイエス様の十字架の死そのものを経験できません。しかし自分の罪の深さがわかり、それがキリストと共に十字架につけられたことが体験されるとき、まさに「キリストの死と同じようになり」「罪のからだ」と「古き人」が死ぬのです。 7節・・死んでしまったので罪の束縛から解放されました。罪から自由の者となったのです。 8節〜11節・・「、と信じます」という確信の言葉があります。信仰の告白です。 (結び)クリスチャンは罪に死に神に生きている者であることを思いなさい。 イエスの生死を思いなさい。認めなさい。計算しなさい。評価しなさい。 |
| 2007年8月26日 アダムの不従順、キリストの従順 |
| ローマ書5章12〜21節 何故、私たちはイエス様によって真実な救いと喜びを得ることができるのだろう。ということ。それは極めて重要な問題です。 12節・・『そういうわけで』とは11節『私たちのために今や和解を成り立たせて下さった。』とキリストによる和解という言葉を受けてアダムとキリストによる救いの救済史においてキリストによる救いの真実性を強調したのでした。 13節・・すでに罪はモーセの律法以前にアダムが罪を犯した時から全人類に浸透し君臨していました。 14節・・罪はモーセの以前にも存在し全人類を支配していた。同様に死も全人類を支配していた。 15節・・ひとりの人アダムの違反による死−−ひとりの人キリストによる恵みの充満 17節・・『イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです』 18・19節・・不従順と従順の対比 アダム 違反→断罪=罪人→死の支配 キリスト 恵み→義認=義人→命の支配 【私たちへの実際的指針は何か】キリストの従順→私たちの従順へ 真の恵みは罪からの救い・永遠の救いの自覚 真の恵みはキリストの十字架に至までの従順・一生涯の従順さで証ししょう。 従順とは自発的自主的なもので神様のみこころの下に自分の意志を置き続けよう |
| 2007年8月19日 私たちに対する神御自身の愛 |
| ローマ書5章6〜11節 イエス・キリストを信じる信仰は神との平和をもたらしただけではありません。神様と和解した人間には、真の平安と新しい希望を与えました。その決定的な理由は神の絶対的な愛のゆえでした。神の愛が聖霊によって私たちに注がれているからです。キリストの十字架において明らかにされた神の愛だけではなく現在も注がれている神の愛です。今も聖霊によって神の愛は注がれています。 【1】キリストの十字架によって示された神の愛(6〜8節) キリストは神のご計画に従って私たちのために誕生し十字架にかかって死んで下さった。身代わりの死であった。即ち神の愛とは神のひとり子・愛する御子が十字架で死を遂げることによって人類に対する神の愛を具体的に示されたのでした。 【2】確実な救い(9〜10節) キリストの血潮によって不敬虔であった時に義とされました。すでに義とされた者が神の愛によって将来における神の怒りからの救いでもあります。イエス様の復活の生命と力によって私たちは日々の罪から守られ神の怒りから解放されているのです。 【3】神を大いに喜んでいます(11節) クリスチャンの喜びは神と和解したという喜び、罪が赦されたという喜びです。イエス様の十字架によって神様を喜んでいます。『いつもも喜んでいなさい』は、神様が望んでおられることです。主にあって歓喜・欣喜の生涯を目指そう。 |
| 2007年8月12日 主キリストによって、神との平和を |
| ローマ書5章1〜5節 【1】神との平和(1節) 聖書は真の平和は一人一人が神様との和解から生まれると宣言しています。人間は罪の中にあってこの世の流れに従い、神に不信仰、不従順な者です。しかし私たちの主イエス・キリストによって神への罪が赦されて神の怒りから解放されました。きよい神様との和解ができたのは二人の間に入って下さったイエス様、即ちイエスの十字架が愛と赦しの架け橋となって下さったのです。神との平和は私たちのイエス・キリストによって与えられたのであって、キリスト以外によっては決して与えられることはありません。 【2】キリストの恵み(2〜5節) 私たちがイエス様を信じることによって、ただ神に平和を持っているだけではありません。日々素晴らしい恵みの中に生かされています。この恵みは神と和解し神との交わりに生きる幸いに導き入れられたものです。神との交わりの回復は私たちを新しい希望による喜びを与えて下さいます。 ★神の栄光を望んで大いに喜びます ★現在においても現在の患難をも喜んでいます ★患難さえも喜ぶ理由は忍耐を生み出すからです ★忍耐が練られた品性を生み出す ★練られた品性が希望を見いだす ★この希望は失望に終わることはありません その決定的な理由は何でしょうか 神の絶対的な愛でした。神の愛が聖霊によって私たちの心に注がれているからです。十字架上の神の愛は現在も私たち従う者の心に溢れるばかりに注がれています。 |
| 2007年8月5日 望み得ないときに望みを抱いて |
| ローマ書4章17〜25節 17節からは祝福された神の約束がアブラハムに与えられたのは、アブラハムのすぐれた信仰のゆえであることを説明しています。 【1】信仰の本質 キリストを信じる信仰を持った人の良心・心情・意志・思い・生活に驚くような結果が生じます。 【2】信仰の働き 内部的にはアブラハムを義としたように霊魂を義とします。 アブラハムは神の約束を信じました。この神は全く変質しません。彼は落胆するどころか信仰のゆえに力づけられました。神の約束を疑うことをしなかった。反対に信仰がますます強くなって神に栄光を帰した。神様をほめたたえたのでした。 全能の神様には約束されたことを成就する力があり必ず勝利して下さることをアブラハムは信じました。確信に満ち溢れていました。確信こそ神様に対するアブラハムの信仰姿勢であった。 (結び) アブラハムの信仰が義と認められたことはアブラハムだけのためばかりではない。クリスチャンである私たちのためです。イエス様の十字架信仰によって罪が赦されて義とされました。イエス様の復活によって死に勝利しました。このことはアブラハムの信仰による義認、義認に基づく神の祝福と約束・復活信仰と信仰による確信は、イエス様を信じるクリスチャンすべてに与えられたのです。 |
| 2007年7月22日 キリスト・イエスによる贖い |
| ローマ書3章21〜30節 【1】イエス・キリストによる贖い(21〜24節) 神様は神のかたち(似像)に創造し祝福された。神の栄光を現実に現すことでした。しかし人間は神の栄光とはほど遠い存在となってしまいましたが、神による義が現されました。罪に汚れた人間に対する神様の無限の愛でした。 神の愛はイエス・キリストの贖いの愛・贖罪愛に現されました。神様は余りにも大きな犠牲を払われました。それは御子イエス・キリストの十字架による贖いだったからです。すなわちイエス様の十字架において神が私たち人間のために行われた罪の赦しと罪からの解放。完全な贖罪愛でした。 【2】神の義と人間の義(25・26節) キリストによる贖いは、ただ人間の罪を赦し、人間の罪の中・罪の力から解放するためばかりでない。キリストの贖いは神の義を現しつつ人間を義とするためであった。 【3】信仰による義認(27〜31節) キリストの十字架は神の義と愛の融合点です。自己義や不義である人間が義とされるのはキリストの十字架です。義なる神として人間の罪をさばく、愛なる神として人間の罪を赦すキリストの十字架を理解した時私たちはもはや神と人に対して誇ることはできません。 すなわちキリストの十字架の奥義ゆえに、人間には誇るべきいっさいのものが取り除かれました。聖書の神はユダヤ人の神であるだけでなく、すべての国民の神でもあるのです。差別のない公平・広義・愛の神です。『神は唯一だからです』 |
| 2007年7月15日 すべての人が罪の下に |
| ローマ書3章1〜20節 ◆3章に入るとパウロは神の真実と人間の罪の現実を強調しました。 罪を持っている人間はすべての律法を行うことによっては 救われないことを明白にしました。 ☆ユダヤ人の特権は多くあるが第一は神のことばの委任であった。 ユダヤ人はイエス様を拒絶することによって神の信頼・約束にそむいてしまった。 神様は約束されたことを忠実に実行される方であり人間の不真実によって動かされることはない。また神の約束は人間の不信仰のゆえに研して無効・無力にされるものでもない。 ☆さらにパウロは語気を強めて『絶対にそんなことはありません』と神の真実が無効にされることはない。それは『そのみことばによって正しいとされたと法廷において弁証するとき、すべての言葉が正しいと認証すること、またさばかれる時には裁判において常に勝利を得る』とパウロは断言しました。 ☆第二には私たち人間の不義・虚偽が神の義を明白にするとしたらどうなるでしょうか。 人間の犯す誤りの一つは自分で理解出来ないものを謙虚に認めない。むしろ批判したり中傷してしまう。教訓として私たちは不真面目な質問に答えない。議論になれば導けない。大切なことは自分を証しするか聖書を引いてみことばを説くかして霊の権威の証しです。 ◆人間の罪の真相(9〜20) 『義人はいない。ひとりもいない』は、全人類の罪を示しています。 ☆神を理解し求める意志の欠如。迷い出る心 ☆言葉による罪 ☆行動による罪 人間が神に反逆し、その罪のゆえに自らの人間性を破壊しさらに地上に破壊と悲惨さをもたらしています。それが罪の下にある人間の現実なのです。 ◆律法による救いはない(19・20) 人間の罪の深刻さ重大さが解ったとき律法を行うことによって、また人間の努力や修養によっては絶対に罪から救われないことを知ります。確かに律法の働きは罪を認識させることです。しかし律法を行うことによっては神の前に義とはされない。この事実を知ることは絶望を意味します。しかしその絶望の中から新しい救いの希望が生まれてくるのです。信仰による義です。21・22節『イエス・キリストを信じる信仰による神の義』が与えられます。 |
| 2007年7月8日 心の割礼こそ割礼です |
| ローマ書2章6〜11節、25〜29節 ローマ人への手紙を読むにあたり、心得について 「頭(脳の働き)と心(心の働き)」 頭は正しい聖書解釈と正しい教理を学ぶことが大切です。 心は聖書によって燃えることと霊によって燃やされることです (聖書)『冷静は大きな罪を犯さないようにするから』(伝道者の書10:4) 『イエスは完了されたと言われた。そして頭をたれて霊をお渡しになった。』(ヨハネ19:30) 『道々お話になっている間も、聖書を説明して下さった間も私たちの心はうちに燃えていたではないか』(ルカ24:32) 『勤勉で怠らず、霊に燃え。主に仕えなさい』(ロマ書12:11) もし私たちの心が愛による割礼を受けていなければ『信仰の戦いを勇敢に戦う』(第一テモテ6:12)ことも朽ちない冠を獲得するという希望も、まことに空しいということです。 霊をその愛情のすべての表れとともに霊をお与えになった神のもとに帰しなさい。『すべての川が流れ出てきた、その場所へ』(伝道者の書1:7)帰し、そこから再び流れさせるのです。神は生ける心の犠牲を選ばれたのであって他のいけにえを選ばれません。それを聖なる愛の炎に乗せてキリストを通して神の御前に捧げましょう。 |