| 2008年 4月20日 隠れたマナを与える |
| ヨハネの黙示録2章12〜17節 …はじめに‥‥ 7つの教会の3番目・ベルガモの教会について学びたい。この教会は、別紙のような 町にあった。この都市は政治と文化の中心地で、図書館には20万冊もの書物があった。 またBC29年には、この都市に皇帝アウグストのための神殿が建てられ、皇帝崇拝の 中心地ともなった。 【1】 殉教にもめげず証しする信仰(13節) 復活されたイエス・キリストの御姿、特に右手、口、顔についての説明は、1章16 節をお読みいただきたい。栄光に輝くイエス様は、皇帝崇拝やサタンが王座を占める勢 力をも、諸刃の剣で滅ぼす権威を持っておられるお方である。サタンは悪魔である。ベ ルガモは、悪魔の中心地と言ってもよいほどに、不信仰と信仰者への迫害が強かった。 私たちは、自分の人生に少し問題や大変なことが起きたり、目の前に今の自分の力では 到底登りきれないくらいの大山が見えると、そこから逃げ出したく思う。自分の持ち場 や立場を捨てたくなる.ベルガモの教会の人々は、困難・試練・迫害にあっても、そこ に腰をすえ、神への信仰を全うしようとした。その中で、イエス様に忠実なアンテパス が殉教するなどした。日本のクリスチャンも、過去3回(徳川幕府、明治維新、太平洋 戦争中)の迫害と弾圧を受けた歴史を持つ。私たちは、イエス様から「忠実な証人」と 言われる者でありたい。 【2】 世俗化が押し寄せる危険(14〜16節) 「少しばかり非難すべきこと」とは、1つにはパラムの教えが入ってきたことを指し ている。バラムは旧約聖書時代の偽預言者で、その教えは神を離れて自己中心主義・快 楽主義で生きていこうという世的な生活を推奨するものだった(民数記22章、25章 参照)。わかりやすく言うと、世の中の物に目がくらみ、いざとなったら聖と愛なる神を 平気で捨ててしまうような考え方である。彼の教えはニコライ派の教えと同じものであ り、今日でもそうである。もちろん、私たちは世の中で生活している以上、世の中とは 接触を持つわけであり、世俗化自体は罪や悪ではない。しかし、世俗化、世的な中には サタンのわながあるから注意が必要である!またイエス様は真理であられ、偽りや誤り、 罪の教えに対して積極的に戦われる。私たちもそうでなければならない! 【3】 祝福の約束(17節) ここに2つの祝福の約束がある。1つは「隠れたマナ」。マナは、イスラエルの民たち がエジプト脱出後40年間荒野で生活していたときに、天から降ってきた食物のことで ある。その後ヨシュアに率いられてカナンの地に入ってからは、マナは降らなくなった。 ところで、「契約の箱」の中に、マナの入った金のつぼがある(出エジプト16:32〜 33、へプル9:4参照)。それを「隠れたマナ」と言う。マナの意味はヨハネ6章に書 かれている。この箇所で明らかにされていること、それは、「隠れたマナ」とはイエス様 を指すということである。「契約の箱」は、聖所の奥の至聖所に置かれていた。そこは 神と交わる場所=@祈りの座≠ナあるから、個人的に経験するイエス・キリストである。 みなさんは、この隠されたマナの味を知っておられるだろうか。 もう1つの祝福の約束は、「白い石」である。その解釈は多く、定まってはいないが、 イエス・キリストによる安全の永遠の保証だと理解されている。 <結び> @隠れたマナなるイエス様と交わりを! A白い石なる新しい性質を! |