礼拝メモ

2003年 8月31日   私たちはメシヤに会った
ヨハネ1章35節〜51節
ここには最初の弟子としての召命を受けた5人の人物が書かれています。使徒としての召命は福音書に語られています。
この時「私について来なさい人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)と言われて、すぐに網を捨ててイエス様に従いました。すでにイエス様と心が通じ合ったことを示しています。
【1】メシヤ(キリスト)に会った。
   *アンデレ
   *シモン・ペテロ
【2】わたしに従って来なさい。
   *ピリポ
   *ナタナエル
アンデレは主イエスとともに宿泊した夜に、大いなる感化を受けて回心した。主と初めて出会った夜に、一回限りで信仰を持ったことは驚くべき事である。キリスト教に全く無関心な人々、ある程度は認識している家族や友人が信仰に好感を持つまで、私たちは頻繁に信仰に関するニュースを伝えたい。祈りを継続し、機会を捉えて教会に案内し、積極的に主に導きく信仰を頂きたいものです。


2003年 8月24日   ヨハネの証言
ヨハネ1章19節〜34節
バプテスマ(洗礼)ヨハネは、6節〜8節・15節にてイエス・キリストを証言している。
19節からは歴史の舞台に登場し、さらに詳細に扱われている。
特に第一日目の証言、第二日目の証言としての出来事を記している。
【1】パリサイ人に対するヨハネの証言
   *あなたはどなたですか
   *あなたは自分を何だと言われるのですか
【2】イエスに対するヨハネの証言
   *世の罪を取り除く神の子羊であられる
   *聖霊のバプテスマを授ける方であられる
信仰者にとって乏しいことなどありません。なぜなら私の主は恵みに満ち、憐れみに満ちたもうお方だからです。
私たちが大きく口を開けるならば、主は満たして下さいます。弟息子が帰ったとき、父親は祝宴を始めました。
この恵みの祝宴は私たちの前にも開かれていて、それはまだ始まったばかりです。私たちはまだ祝福の少ししか知っていません。
恵みの上にさらに恵みが注がれるのはこれからなのです。


2003年 8月17日   ことばは人となって・・・
ヨハネ1章14節〜18節
この福音書のテーマは20章31節です。
  1.イエスが神の子キリストであること
  2.イエスの御名によっていのちを得ること
この二つを信じさせるためであった。従ってイエス様の神性が強調されている。
また、イエス様の人間性の面も書かれている。
ことばが人となったとは、・・・目的と内容・・・
【1】キリストの受肉降誕
   *ことば
   *住まわれた
【2】キリストの盈満(充満)
   *モーセ(律法)
   *キリスト
【3】父なる神の完全な啓示者(解釈者)
私たちひとりひとりが神の子としての特権に与るため、生命を捨てることを御自身の特権とされた主の恵みを感謝したい。
『私たちが自分の資源のすべてを使い尽くしたときこそ、父なる神の供給はまだ始まったばかり・・主の愛には限りがなく、その恵みは測りしれない。』御子と共にあらゆる恵みを溢れるばかりに与えたもう主に、心一杯の感謝と賛美をささげよう。


2003年 8月10日   いのち・光・神の子ども
ヨハネ1章1節〜13節
本書の特色は、神の子としてのイエス様を、すなわち父なる神のふところから来て、肉体のかたちをとられた神の子、神性をもっておられる方として示す。深遠な書です。年代はAD90年頃の使徒ヨハネの著です。
【1】いのち
【2】光
【3】神の子
すべてのクリスチャンには例外なしに神の子どもとしての特権が与えられています。その特権の一つは、祈りが聞かれるという特権です。
私たちは神様を「アバ父よ」と呼ぶことができますし、何でも祈り求めることができますし、祈りの答えを得る特権が与えられています。
子どもが自分の親に対して、よそよそしく、遠慮して何も欲しい物を求めようとしないことは、健全ではありませんし、親としても寂しい限りです。子どもの求めに対して、それが益となると分かれば、親は惜しみなく喜んで与えようとします。神様も、神の子どもであるクリスチャンの求めに対して、喜んで聞き入れて下さり、最善の答えを与えて下さいます。


2003年 8月 3日   信仰によって歩む
コリント第二5章1節〜10節
信仰という言葉は多様に用いられています。信仰とは・・・、信仰生活とは・・、信仰復興と・・、などなど。その意味と内容は深い。信仰生活の深みに入って参りましょう。
【1】信仰の本質
   *信仰の奥義
   *信仰の生産
【2】信仰の欠乏
   *心の問題
   *不信仰の問題
【3】信仰の対象
   *主キリスト信仰と聖霊
パウロの願いは『肉体を離れて、主のみもとにいる』ことでした。これはその特権を持つ信仰者であれば誰もがもっている願望です。けれども彼はその願望に固執せず、自分が肉体にとどまることは『あなたがたの信仰と進歩と喜びのために』なると言っています。自分だけがさっさと天国に行くとことを望まないで『肉体の中に』ある期間いかに周囲の人々を主に結びつけるかを考えていたのです。私たちも同じく『主に喜ばれること』を実行しましょう。『確かに私たちは見るところによってではなく信仰によって歩んでいます』


2003年 7月27日   霊的家族への大祈祷
エペソ書3章14節〜21節
この手紙は、初心者に向けられたものではなく、ある程度円熟したクリスチャンを、より高い神知識に導き、より充実した信仰生活に進ませようとする願いに基づく。そこにパウロの2大祈祷を見ます。
1.1章17〜19節「知惠と啓示の御霊が与えられて、心の目がはっきり見えること」
2.3章14節〜21節「ユダヤ人と異邦人とから成る霊的家族・世界教会の一体融合」
【1】パウロの4つの祈祷
   *肉的強化
   *内住
   *愛
   *盈満
【2】頌栄の特徴(教会とキリスト)
この章でパウロは、心が聖霊によって強くされるように祈っています。神様は私たちの内側を強くすることのできるお方です。肉体を強くするのは神様が共に心に住んで下さり、主の愛によって私たちを内側から愛に満たし、力に満たして下さるのです。私たちも心からこの祈りを捧げましょう。


2003年 7月20日   神との平和、神との和解
ローマ書5章1節〜11節
昨年、そして今年も、世界において戦争、内乱、いがみ合いが依然と続いています。それは国家間ばかりでなく、民族同士、家族内にも起こっています。平和はどこに。
【1】神との平和をもつこと
   *神との和解
   *神との平和
【2】平和をつくること
   *家族の平和
   *社会の平和
   *世界の平和
(結)平和を作り出す者は幸福です。
クリスチャンの最初の一歩はイエス様を信じ、悔い改めることです。その時に子供が親に走り寄って行くように神様のところに喜んで帰ることができます。神様と和解できた喜び、それはもはや罪に定められない、自分は神様の子となれたということを信仰によって受け取ることができます。今日も問題、課題の中にあるかも知れません。患難が次から次と来る中にあるかもしれません。しかし私たちは神様に罪赦され救われたのです。その事実、神様があなたを愛していて下さる事実、これはどんな患難も否定することは出来ません。そして、神様は希望を私たちに与えて下さいます。決して失望に終わらない希望です。この約束は今日も真実なのです。


2003年 7月13日   羊がいのちを豊に持つ
ヨハネ10章9節〜18節
昨今、残虐なニュースが飛び込んできます。責任ある方々の見解などが発表されます。聖書の世界では、「いのち」・「こころ」「生きる」・「死」について、・・・
【1】旧約におけるいのち
   *自然的生命(肉体的生命)
   *生ける神との交わり(いのち)
【2】新約におけるいのち
   *旧約のいのち観がベース
   *御子キリストのいのち    *永遠のいのち
(結)いのちとは、生死を越えて生きる
主イエスは私たちのたましいの牧者であり監督者です。私たちは牧者を知らずさまよい、各自が自分勝手な道に向かっていました。主は迷える羊を捜し、飢えている魂を豊かに満たしてくださるお方。十字架による贖いの死を通して罪の滅びから救い出し、永遠のいのちの中に養い、守ってくださるお方。
私は私のものを知っているとは何と幸いなことでしょう。私たちが神様に知られているからこそ、一番必要とする助けと恵みをいただくことが出来るのです。そして、「わたしのものは私を知っています」とあるように、私たちは神を個人的な経験として知ることができるのです。主の声を聞き分けて従いましょう。


2003年 7月6日   宣教のことばの愚かさ
コリント第一1章18節〜31節
パウロは、コリント教会員たちに対して、福音の本質についてのメッセージをした。福音宣教の中心である「十字架」そのものに視線を集中し、この世の知惠と比較した。
【1】福音宣教の内容
   *十字架のことば
   *十字架につけられたキリスト
【2】召された者の目的
   *弱く見える信仰者
   *心霊上の経験者
【3】すべてであられるキリスト
   ”キリストは・・・・・・なられました”
パウロの愛しているコリントの教会において、分裂、分派、不品行が広がり始めていました。しかしパウロは「聖徒として召された」方々にと言っています。イエス様の十字架の尊い血潮によって贖われたものは、聖なるものであることを思い出して欲しい。そんな切なる思いがあったことでしょう。そしてコリントのクリスチャンの目をパウロに向けさせるのではなく、主の十字架に向けさせています。キリスト教の中心は、イエス様の十字架と復活です。もし私たちが、これから目を反らすなら、高慢の嵐の中に入ってしまいます。私たちを愛し、私たちの為にご自分の生命を捨てて下さった主、この主の側で、私たちは自分の何を誇ることが出来るでしょうか。救って下さった主を賛美し祈りつつ進みましょう。


2003年 6月29日   神の恵みに感謝と賛美
詩篇103編より
旧約において最も高貴な賛美歌の一つです。特に神様の恩恵に対する感謝と賛美に溢れています。
神の恵みを忘れてはならない!
【1】個人的感謝の想起(1〜5)
   *主をほめたたえよ
   *心を重くする罪・病・死
【2】神の民への神の恵み(6〜14)
   *歴史における主の恵み
   *神の民の罪の赦し
【3】人のはかなさを知る者の神の恵み
   *人生のはかなさを知る
   *神の恵みへの賛美
神様への賛美と感謝が、一年を通じての私たちの心の態度でありたい。神の恩恵のゆえに神をたたえることは良い事であるが、ご利益に左右される信仰者とならないよう心しなければなりません。
恵み主なる神を喜び崇めることはさらに肝要である。神は聖にしてあわれみ深いお方であるから、また私たちは神の被造物であるから、日々主を賛美し、主に感謝しつつ歩みたい。


2003年 6月22日   主を知る圧倒的な価値
ピリピ3章1〜9節より
この手紙は獄中で記されたに「喜び」という言葉が繰り返されています。(16回)パウロはクリスチャン生活や教会において、中心的位置を占めるイエス様を示す。
パウロ自身の内的充実は価値転換に基づくこと、それは劇的な回心経験であったと。
【1】キリストにあって喜び誇りなさい
   *喜び
   *誇り
【2】人間的なものを頼みとしない
   *肉的な誇り
【3】キリストを知り得る絶大な価値
   *知ること
   *得ること
『しかし、私にとって得であったようなものはみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。』(2:7)
パウロの人生観の根本を見るようなみことばではないでしょうか。私たちは「何ゆえに、何のために」生きているのか。信仰生活を送っているのか。時には吟味してみる必要があります。
クリスチャンであることが、自分の仕事、自分の人生にマイナスに働くように見える時、どのように振る舞うでしょうか。どのような気持ちになるでしょうか・・・
「自分に損がないように」という基準で選択してしまうことがあるのです。クリスチャンであると言いながら、自分のための信仰ということがあり得るのです。どのようなことが想像されても、「キリストのゆえに」という選択の基準、十字架の上でわたくしの為に死んで下さったイエス様以上のものはない。という価値観、人生観を持ちたいものです。
イエス様を知るということは、どれ程の価値があるか、もっともっとイエス様を知ることが出来ますように・・・


2003年 6月15日   主イエスの感謝と招き
マタイ11章25〜30節より
【1】イエス様の感謝(25〜27)
   *父なる神への賛美
   *父なる神と子なる神の一体性
【2】イエス様の招待
   *わたしのところに来なさい
   *わたしのくびきを負いなさい
   *わたしから学びなさい
『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。』(28節)
主イエス様が真の安息を与えて下さる。私たち現代人に最も欠けているものは安らぎではないでしょうか。忙しい毎日、世の中の激しい競争、何か常にせわしい。潤いがない。すぐに疲労感を覚える。主イエス様がそばに居ることを忘れ船の上で慌てふためいている弟子たちの様ではならない。主によって真の安らぎを頂きたいものです。


2003年 6月 8日   みなが聖霊に満たされ
使徒の働き2章1〜6、16〜21節より
神の御霊は最初から働き、創造的支配者であり、また力を与えるものでした。旧約では聖霊はモーセに、サムソン、ギデオンに、サムエルに下りました。
すべての預言者は聖霊を受け聖霊によって語りました。ペンテコステはすべての信仰者に聖霊を注ぐ時代のスタートとなりました。
【1】聖霊の満たしの象徴
   *激しい風
   *炎のような舌
【2】聖霊の満たしの条件
   *悔い改め
   *明け渡し
   *従う
【3】聖霊の満たしの影響
聖霊の満たしは、ペンテコステの日だけに起こったことではなく、使徒の働きの中でも繰り返されている。今の時代にも、救われた者がきよめられ、主の証人になるために、神はみわざをなさろうとしておられる。聖霊に満たされる条件は全き献身と信仰である。神の働きを妨害する自己を、神に全く献げる時、聖霊は私の中に満ちて下さる。そして、「戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって」(黙示3:20)との約束を信じて立つことである。真実な明け渡しをしよう。


2003年 6月 1日   心の奥底から、行ける水の川が・・
ヨハネ7章37〜47節より
エゼキエル47章の意味合いを把握したい。三位一体の神(聖霊なる神)は、聖霊の働きを通して、聖霊の恵と力を示した。
聖霊は「水」「火」「風」「油」「鳩」「雨」「露」「印」などお表現を用いて、人格的な恵みの深さと力を表現しました。
【1】水は新しくする
   *聖霊による誕生
【2】水はきよめる
   *聖霊によるきよめ
【2】水は豊かにする
   *聖霊による盈満
自分の本当の必要に気付いている人は幸いです。病気でも人生の問題でも、気付くのが早い段階であればあるほど対処がしやすくなります。しかし、私たちは気付かずに、あるいは気付いてもそれを認めずに、時を逸してしまうことがあります。シロアムの池から汲まれた水が注がれるこの仮庵の祭りでは、表現的には皆が潤いを感じ、満足して帰って行くことができました。しかし、人々の真の必要を見て取られたイエス様は、わざわざ立って、『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』声を張り上げて、この招きの声を発せられました。私たちには、主イエスのもとに行って飲むまでは決していやされない渇きがあるのです。主のもとに行くとき、ただ渇きがいやされるだけでなく、周囲を潤すことさえできる生ける水の川々が心の奥底から流れ出るようになるのです。問題は、私たちがその渇きを自覚しているかどうかです。
聖霊さまに導かれつつ豊かな神様の恵みにふれてゆきましょう


2003年 5月25日   聖霊降臨の約束と力
使徒の働き1章1〜8節より
使徒の働きは、主イエス様のご昇天後聖霊によって使徒たちを用いて行われた働きの実際の記録である。使徒の働きは、聖霊の行伝とも言う。
【1】イースター後の命令
   *40日間の語り合い
【2】聖霊降臨の約束
   *聖霊のバプテスマ
【2】聖霊の力
   *主の証人
(結び)主イエス・キリストを伝える
    聖霊の力によって伝道する
キリストによって神を信じる者の生涯の目的は、キリストの証人、キリストの栄光を現す証人となることです。生まれながらの私たちは私たちはそのことができませんが、聖霊により生まれ変わり、きよい心を与えられた者は証人となることが出来ます。聖霊はキリストの栄光を世に現す方だからです。栄光から栄光へと彼は導いて下さいます。


2003年 5月18日   イエスの御名を信じる信仰
使徒の働き3章1〜19節より
一人の霊魂が苦難、苦悩、悲哀、どん底、貧苦の仲にあり、他に依頼心をもって生きているとき、救い主イエス様に出会い、生きる喜びを見いだしたことに留意しよう。
【1】施しを求める男の人生(苦しみ)
   *身体的
   *経済的
   *心的
【2】ペテロとヨハネの奉仕
   *イエス・キリストの名
    (キリストの力と権威、人格と神性
   *命の君の死(十字架)
   *悔い改めと信じる信仰(信頼、新服)
【2】クリスチャン人生(信仰、希望、愛)
イエス様の十字架の死は人々にとっては敗北にしか見えませんでした。しかし、神は主を死者の中からよみがえらせて栄光と勝利を与えられたのです。私たちが聖く、正しい生活を神の前におくっているなら、いかなる課題、困難の中にも解決が見出せます。主に信頼して歩ませて頂きましょう。


2003年 5月 4日   いま私たちは神の子どもです
ヨハネ第一の手紙3章1〜12節より
神の子とは元来、父なる神に対する神のひとり子としての関係であるが、御子キリストの贖いの業によって救われたすべての人と神との霊的をも表している。
【1】神の子としての特権
   *御父のすばらしい愛
   *キリストに似た者
【2】神の子と悪魔の子との特徴
   *悪魔の子とは
    罪のうちに歩む者・・・・ 他
   *神の子とは
    新生
    義に歩む
    相互愛
『いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えて下さったことでしょう』(1節)
私たちがどのような立場にあるかの宣言とも言うことができましょう。
私たちは罪の中に生き歩んでいた悪魔の子でした。それが、今は神の子供とされている事実をどれほどの感謝、感激をもって受け止めていることでしょうか。十字架の愛。それは私たちの過去の全ての罪を赦しきよめて下さいました。神の家族の一員として内にきよめを与えられ、来るべき御国を待つ者とされたのです。


2003年 4月27日   キリスト・イエスを知って・・・
ピリピ書3章7〜16節より
パウロが獄中から書き送った手紙であるにも関わらず、喜びに満ちた内容になっている。
イエス様はどのようなお方であられるかを体験を通して力説している。
執筆年代はAD62年頃。3章は主イエス様の救いが地位・門閥・学識・名誉・善行によるのではないことを証し、主イエスを知ることは生涯的であることを語る。(背景・・・殉教の死を前にして)
【1】主による救いの恵み
【2】主により深く知る恵み
【3】主を通しての神の栄光の恵み
私たちが最も警戒をしなければならないことは、自分が変えられるこをを望まずに他人を変えようとすることである。
パウロのように、自分自身が限りなくキリストの姿に変えられて行くことを最大の関心事としたい。今の状態に決して満足せず、尚自分に固執せずに主キリストの復活のいのちがいよいよゆたかに自分に表されることを求め続けよう。福音の奉仕はそのような心の姿勢と深く関わっています。


2003年 4月20日   イエスご自身が近づいて、・・・
ルカの福音書24章13〜32節より
イースター記念礼拝
イエス・キリストの復活は十字架とともに大事実である。他の宗教と違い、力のある理由は、信じる救主が生けるお方であるということ。
また、過去において聖人と呼ばれた人の人格を模範とし、また残された教訓に基づいて自力で修養するのではない。ローマ書4章25節『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認めるために、よみがえられたのです。』十字架と復活の主の力を受けて、死と罪に勝利して行く。
【1】イエスご自身との長い会話(13〜24)
   *失望と無知な心
   *最新情報の提供
【2】イエスご自身による聖書説明(25〜27)
【3】会話・聖書説明に燃える心と開眼(28〜32)
エマオの途上の絵や賛美歌には15節のみことばが写実的に描かれ、また賛美されています。霊的な目を閉じ、洞察力が鈍い二人の弟子は、主イエスだと気づかず、心の目は絶望や悲しみで遮断されていた。私たちも試練と世の心遣いにとらわれてしまうと、主のみわざをも見ても悟れず、喜びも望みも起こらない。日々、主イエスの臨在と同行を感じるために、砕かれた魂を保ち続けよう。


2003年 4月13日   十字架の奥義
ルカの福音書23章32〜53節より
【1】十字架周辺の人々の反応
   *冷淡な人々
   *驚いた人々
   *イエス様を信じた人々
【2】十字架の奥義
   *十字架の愛(34節)
   *十字架の死(46節)
   *十字架の祝福(ガラテヤ6:14)
受難週に入りました。十字架をおぼえ主の深い御愛に感謝しつつ歩まさせていただきましょう。
『父よ彼らをお赦し下さい』(34節)私たちは自尊心を傷つけられ、裏切られたりすると、絶対に許せないという思を心の奥底に潜める。主のご愛を深く経験すると、赦せない人を喜んで赦すことができる。主は十字架にて祈られ、実行された。潜伏している赦せない心の恐ろしさを知り、主の血潮によってきよめていただきましょう。


2003年 3月23日   御言葉による育成
使徒の働き20章17〜38節より
20章17節〜35節は、船がミレトに停泊中の時、パウロはエペソの教会の長老たちに、会いに来るように要請した。彼が長老たちを呼び寄せた理由は、長老たちを激励し、告別のメッセージを与えるためでした。
エペソとミレトの間の距離は60キロあり、長老たちがミレトに到着したのは3日目であった。メッセージを聞いた長老たちは、教会の指導者的立場にある人々であった。パウロは、囚われ、牢獄に入れられ、殉教の死に向かっていることを自覚していたのである。
◆ パウロ自身の証し
◆ 長老たちの責任
◆ 神の教会
◆ 御言葉
◆ 永遠の生命


2003年 3月16日   全く聖なる者として・・・
テサロニケへの手紙第一5章12〜24節より
イエス様の恵みに与り、神様の御許に立ち返ることのできたわたし達信仰者は、どのように信仰の歩みをしなければいけないでしょうか。『愛をもって深い尊敬を払い、お互いの間に平和を保ちなさい。』・・・と、また『いつも喜んでいなさい』『絶えず祈りなさい』『すべてのことについて感謝しなさい。』とあります。私は主にあって、本当に喜ぶこと、また祈ること、感謝することの乏しい者でしょうか・・信仰者として、模範となるような信仰の歩みの出来る者と変えて下さいますように・・・
わたし達は、神様がそうであるように聖なる者となるように日々成長させていただくべく歩まさせて頂かなければなりません。神様はお約束して下さいました。『あなた方を召された方は、真実ですから、きっとそのことをして下さいます。』ハレルヤ!感謝です。


2003年 3月 9日   神のノアとの契約
創世記9章1〜17節より
9章全体は、神との正しい関係の中にある限り、初めての人と同じ祝福の機会を与えられ、同時に罪悪の性質のもたらす結果から人々が救われ、保たれるために神様の恵みの干渉が具体化される。特に『契約関係』の提供が中心的な意味を持つのである。
【1】祝福の更新(1〜7)
   * 祝福(1節、7節)
   * 権威・供給・禁制・警戒
【2】神の契約(8〜17)
   * ノアととの契約(三つ)
   * 任意的祝福
【3】永遠の契約(旧約と新約の対比)
   * 古い契約
   * 新しい契約
旧約聖書における契約
神と神の民の契約であるが、人と人の契約も見られる。しかし、重要なことは、アブラハムへの契約、シナイ契約(モーセ)、ダビデへの契約などから、更に「新しい契約」への預言(エレミヤ書31章)に至るのである。
新約聖書における契約
旧約の契約を背景にして(土台)、新しい契約関係が生まれる。主イエスが、最後の晩餐において、弟子たちに語られた言葉である。
マタイ26章28節『わたしの契約の血』
ルカ22章20節『血による新しい契約』
ここに『行いの契約から』から『恵みの契約』へと移る。新中核は、キリストの贖罪である。


2003年 3月 2日   箱船にはいりなさい
創世記7章1〜16節より
ノアの時代の道徳的な状態は、人々の腐敗、神のみ旨に対する忠誠と服従とを示す。神の命令通りに箱船が完成した。
神はもう一度ノアに臨んだ。神様に服従の故に褒められ、また彼の行為は神に認められた。
【1】箱船に入りなさい(主の招き)
   * 神様のご招待
   * 救いの提供と機会
【2】箱船に入った(信仰による応答)
   * 主はノアとその家族を恵みに導く
   * 主は恵みの門戸を閉ざす
【3】新約聖書から見るノアの洪水
   * 救いの機会
   * キリストの再臨


2003年 2月23日   神のアナンスメント(宣告)
創世記6章1〜22節より
5章はセツの家系を通して4章に続いて罪の影響を基調としつつ、人間の歴史が地理的、文化的、社会的に広がって行く。
6章からは人間社会の拡大は「人の悪の増大」にもつながる。特に「洪水の出来事」は、罪の現実と神の厳粛な審判を示す。
【1】罪の力の増大(1〜8)
   * 人間の増加
   * 神の心痛
【2】神の強い宣告(13〜21)
   * 滅亡
   * 箱船建造
【3】ノアの応答(9〜12・22)
   * ノアの孤独(9〜12)
   * ノアの信仰による服従(22)
地上では、堕落してしまった人間たちの暴虐で満ちていました。そのような中でノアが神様に服従し従っていく姿を見ます。
私たちは今の世にあっても同じように荒んだ中、ノアの信仰に習いつつこの世にあって信仰を守り、人々の救いの為に神様に用いられる者とならして頂きたいと思います。


2003年 2月16日   あなたは罪を治めるべき
創世記4章1〜16節より
4章はエデンの園を追放されたアダムとエバとその息子たち(カインとアベル)その家族に人類最初の殺人事件から始まる。
人間世界の拡大は、罪人としての人間の問題も拡大し、複雑化していく。そして、人間の罪は、たとえ血縁で代表される父親や母親の密接な関係でも救われない。人間は、人類の救い主にはなれないのです。
【1】罪を治められないカインの人格
   * 神との関係
   * 怒りの罪
   * 殺意
【2】罪を治めることの出来る人格
   * 神との断絶から修復(神との和解)
   * キリストの十字架の贖い(仲立ち)


2003年 2月 9日   初の罪と罰・十字架
創世記3章1〜21節より
「蛇」(3章1節)は、サタン(悪魔)を意味する。ヨハネの黙示録12章9節には、この巨大な龍、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼と共に投げ落とされた。と明らかにする。
【1】初の罪
   * 罪の本質(離別)
   * 神からの求め
【2】罪と罰
   * 責任転嫁
   * エデン追放(堕落)
【2】主イエス・キリストの十字架
   * 旧約(預言)
   * 新約(成就)
人類は神様に背くことで罪に陥り堕落してしまいました。神様は神から離れた人々、心の失われた人々が愛なる神様のみもとに立ち返る事を今か、今かと待っておられます。愛する御子を十字架につけての愛の痛みです。
『私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子キリストを私たちに派遣されました。ここに愛があるのです』(ヨハネ第一の手紙4章10節)


2003年 2月 2日   人を神のかたちに創造された
創世記1章1〜31節より
創世記は聖書全体の苗床です。すべての芽がここから芽生える。聖書の各部分を理解するためには欠くことが出来ない。神の黙示は創世記を基にして、その上に築かれるものです。創世記はすべての真理の基であるとともに創世記以後のっすべての霊感に関連しており、その霊感の要素を形作っています。そして聖書を織りなす縦の糸であり、横の糸なのです。(ブリンジャー博士)
【1】信仰の土台
【2】神のことば
【2】神のかたち
(結び)新約聖書への適用について
神のかたちに創られたはずの私たち人間は、罪が入り込むことによって罪と汚れに満ちた者となってしまいました。しかし神様はこの地上にイエス様を誕生させて下さいました。イエス様を信じることによって私たちは、新しく創られ神様の元に立ち返ることが出来ます。日々の信仰生活が守られて一歩一歩神様の御かたちのごとくに歩まさせて頂きたいものです。


2003年 1月26日   信仰の家族の人たちに・・・
ガラテヤ6章6〜11節より
「家族」という言葉は、明治以降に用いられている。戦前の家族制度は廃止されたが、家意識は残存する。そのような中において、クリスチャンになった私たちには、『聖書における家族』として新しい意味で考えることは幸いです。
【1】旧約聖書に見られる家族像
   ※ アダム一家  ※ アブラハム一家
   ※ イサク一家  ※ ダビデ一家
【2】新約聖書に見られる家族像
   ※ イエス様の示唆
   ※ パウロの示唆
(結び)自分の家族から神の家族へ
『互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』ガラテヤ6:2 2節にある「重荷」には、弱さ、失敗など避けられたかもわからない種類の重荷を指しています。しかし、私たちがこのような重荷を負っている人を見聞きしたときに、さげすんだり責めたりして、さらに疲れさせ、傷を負わせてはいないでしょうか。むしろ、『愛は多くの罪をおおう』ことで、人を励まし、支えることができないでしょうか。これこそ、キリストの律法です。全く同じものではありませんが、誰もが荷を担っているのです。自分の担っている重荷を忘れて、他人の重荷を見て優越感のみに浸るような者は、自分を欺いているのです。愛をもって互いに仕えあう信仰があたえられますように・・・


2003年 1月19日   キリストの使命と約束
マタイ28章11〜20節より
28章はメシヤの復活の記録である。復活に対して女達も弟子たちも、心の準備が何も出来ていない。”ここにはおられません”は、人類史上未曾有の出来事である復活の一大宣言である。そこに復活に対する策謀と復活という権威ある命令がある。主に従うことが真の祝福を得る。
【1】復活に対する悪い陰謀
   ※ サンヒドリンの計画
   ※ 人間の虚偽性
【2】復活からの使命と約束
   ※ 主キリストからの大使命
   ※ 弟子たちへの勝利の約束
イエス様は葬られて三日目によみがえられ、十一人の弟子たちの前に現れ、『見よ。わたしは世の終わりまで、あなた方と共にいます。』と約束して下さいました。よみがえりの主は、今も生きておられ、信仰者の内に宿られいつも共にいて下さるお方です。真の神様であられるイエス様が私たちの内におられることほど心強いことはありません。私たちと共にいて下さる復活のイエス様は、私たちが悲しみの中にある時慰めて下さり、不安と恐れの中にある時励まして勇気づけて下さり、重荷に疲れてしまった時私たちの重荷を取り除いて休ませて下さり、問題を乗り越えられずに無力さを痛感している時、問題に打ち勝つ力を与えて下さるお方です。私たちがどこに行くときにもイエス様がいつも私たちと共にいて下さいますから、私たちは人生の勝利者となることが出来るのです。


2003年 1月12日   父のみこころを行う者
マタイ12章46〜50節より
みこころ(御心)は、神の計画や意志や目的などに関して聖なる意図を表現する場合に用いられている。新約では「意志」「思い」という意味、「望む」「志す」という意味、「計画」「目的」という意味、「意図」「決意する」という意味がある。
【1】イエス様が語られるみこころ
   ※ 人々に対して
   ※ 主ご自身に対して
【2】私たちがとらえるみこころ
   ※ 神の願いと私の願い
   ※ 神のみこころを見分ける方法
【結び】12章の場合の内容のみこころ
日々聖書に親しみ、御言葉を内に蓄えつつ、神のみこころが何であるかを悟り、そのみこころに従って歩む幸いさ。その時私たちの内には喜びと感謝があふれることでしょう。どうぞ、そのような歩みをさせて頂くことが出来ますように。


2003年 1月 5日   あなたは、神の栄光を見る
ヨハネ11章1〜44節より
イエス様はエルサレムに行かれる途中、度々ラザロの家庭に立ち寄られた。それで、ラザロが病気になったとき、その姉妹たちは使者を遣わした。信仰の試練の時であった。
【1】ベタニヤに行かれるイエス(1〜19)
   ※ 信仰の試練
   ※ 神の深い御旨
【2】イエスを迎える二人(20〜32)
   ※ マルタの応答
   ※ マリヤの応答
【3】同情するイエス(33〜38)
   ※ 人の子として
   ※ 神の子として
【結び】神の栄光の顕現(39〜44)
   ※ 主御自身
   ※ 私たち自身
『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』(25節)
死ぬということは、誰もが恐れていることであり、考えたくないことであるが、死は避けられない現実であり、自分のことである。聖書は死ということを、はっきりと私たちの前に突きつける。しかし主は言われる。死んでも生きると。死を体験し、死を通り抜け、そしてよみがえられた主が、わたしを信じる者は、同じ永遠のいのちによみがえると、死の向こうの輝かしいいのちを指し示しておられる。