| 2008年 5月25日 わたしは、あなたを愛している |
| ヨハネの黙示録3章7〜13節 …はじめに‥・ イエス様は弟子達に主の祈りを教えなさった。まず「天にまします我らの父よ」と、父な る神、天の神に呼びかける。私たちも「父なる神様」と呼んでいる。そして締めくくりには、 「イエス様の御名によって、お祈りいたします」と言う。今朝は、イエス様がどのようなお 方で、また、このフィラデルフィアの教会はどのような実績を持っていたのかを知ろう。 【1】 門を開きなさる主イエス・キリスト (7節)「キリストは、聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、…」 「聖」とは、単なる道徳的な完全さの意味ではない。被造物とは明確に区別される、絶対 的な「神の聖」であり、その意味でイエス様は絶対的に潔いお方である。「真実」とは、単 に純真さというよりも、神が御自身のことばを成就することを意味する。つまり、神は決し て私たち人間を欺いたり、うそをついたりなさらない。神は語られたことを必ず実現される。 この意味で真実なのである。 そして、特に「ダビデのかぎを持っている方」に注目したい。このかぎは、権威のシンボ ルである。キリストはそれを持って、私たちが天国へ入れるか否かを決定される。 ダビデは旧約聖書に出てくるユダヤ人の王で、彼ほど神の祝福を受けた王は他にいないと 言えるほどに偉大な王であった。また彼は、救い主キリストの予表でもあった。ダビデ王が かぎを持って国を導いたように、十字架と復活のイエスは、全宇宙を左右なさる。さらには、 全世界の歴史をその御手の中に治めておられるお方であるということだ。それは同時に、私 たち個人個人の人生のカギも、主がお持ちになっていることを意味する。 私たちは、「自分の人生は自分でつくる」「自分で切り開いていく」などと言う。確かに、 白分なりに一生懸命努力することは大切である。けれども、人間の能力ではどうすることも できないものが数多くある。人間であれば、他人から見たら「あんなに素晴らしい人はいな い」と称賛を与えられるような人であっても、自分の能力には限界があることを嫌というほ ど知らされる。私たちの人生には、行き詰まりが1度や2度と言わず、必ずある。人生の進 むべきドアが閉ざされて、もはや一歩も前進できないと感じる時がある。そうした時には、 閉じた門を開くために、イエスの御名によって祈ることだ。なぜなら、私たちを創り、私た ち1人1人の人生のカギを持っておられるお方が、主イェス・キリストご自身だからである。 【2】 主のみことばを守る教会 教会のかしらである主キリストは、どんな困難の中にあっても、永遠のいのちの門(天国、 神の国)を私たちのために開いてくださっている。その主に対して、フィラデルフィアの教 会員たちの特色は、1つにはみことばを守る群れであった。フィラデルフィアの教会は、い わゆる大教会ではなく、小さな群れでしかなかった。しかし彼らは試練や苦難に耐え、愛に 満ちていた。2つにはイエスの御名を告白して証詞していた.教会の真価は外観や人数によ らない。この教会は、貧弱に見えても真実と愛の信仰に満ちていた。 「聖書を読んでください。みことばを心に蓄えてください。」と言うのは、聖書を読まな ければ、世の攻撃や人生の荒波に耐えることができなくなるからである。このフィラデルフ ィアの教会員たちは、イエス様に愛されていた。私たちも、主に愛される教会、愛されるク リスチャンになろう! <結び> (12節) @私たちは、永遠の神の臨在の中に置かれている。 A私たちには神の御名(小羊の名)が記されている。 |