礼拝メモ

2008年 6月 8日   パウロの同胞の痛み
ローマ書9章1〜5節
…はじめに‥・
半年ぶりに本書に入る。そこで、1〜8章において、よく知られ、私たちの信仰に恵みを もたらしてきた聖句を挙げたい。1章「私は福音を恥とは思いません.福音は…救いを得さ せる神の力です。義人は信仰によって生きる」。2章「あなたは、他人をさばくことによっ て、自分自身を罪に定めています」。3章「義人はいない、1人もいない.イエスを信じる 信仰による神の義は、すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」。4章「アブ ラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました」。5章「神の栄光を望んで大いに喜ん でいます。患難さえも喜んでいます。患難→忍耐→品性→希望→聖霊による神の愛の注ぎ」。 6章「私たちは、キリストの死にあずかるパプチスマによって、キリストとともに葬られた のです」。7章「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという 原理を見だすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です」。8章に入ると、神の御霊、 すなわち聖霊様の働きは、私たちに、罪と肉の思いに対する勝利を保証してくださる。つま り8章は、@聖霊による勝利、A勝利の希望、B勝利の歌から成り立っている。特に勝利の 凱歌については、8章33〜39節に記されている。
こうしてパウロは、キリストの福音のすばらしさを説き、勝利の歌を高らかに賛美した。 迫害と困難の中にあっても、神様の愛に満たされていたのである。しかし、彼の心の中には、 1つの大きな悲痛があった。パウロはその「悲しみ」について、「神のみこころに添った悲 しみは、悔いのない、救い主に至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらし ます。」(Uコリント7:10)と言う。
【1】 この世の悲しみとは何か
「悲しむ」は、原語では悲しみ嘆きを表わす強い言葉で、死者に対する、また、人の悲し み、罪に対する悲しみ嘆きである。この世の悲しみとは、「罪」以外の何ものでもない。す なわち、愛なる神様から離れ、反抗した結果の悲しみであって、いつも中心に「自己」がい る。つまりは自己憐憫(自分をかわいそうに思うこと)なのである。要約すると、この世の 悲しみとは、神様を認めず、罪そのものを悲しむのでもなく、ただ罪の結果を恥じ、また罪 の結果のわざわいを悲しむのである。それは単なる後悔となる。
【2】 神による悲しみとは何か
パウロの心に大きな悲痛をもたらした原因は、同胞の不信仰であった。彼の、同胞に対す る愛と心の痛みは、「大きな悲しみ」と言うほどに、圧倒されるくらい深いものであった。 しかもその痛みは、たとえば歯の痛みのように、絶えず激しく襲ってくる痛みであった。パ ウロは、自分の救いを思うと勝利の歌を高らかにしたが、同胞の不信仰・反逆を考えるとき、 耐え切れないほどの悲しみに襲われた。それは、実に真実な愛のゆえだった。同胞を限りな く愛した彼の証し(1〜3節)は、自分自身がのろわれていて、神から見捨てられても本望 であるとまで言い切っている。それほどまでに彼は同胞を愛した。
「神のみこころに添った悲しみ」とは何か.それは、自らが神に反逆し、信ぜず、罪を犯 し、隣人に対して罪の加害者となってしまっていることに気づかされ、神の救いにあずかる ことである。この悲しみの中心には神がおられる。この悲しみこそは、私たちに神の救いと いう喜びをもたらすのである。
<結び>
@(対自)真の悲しみを知る者は幸いである(マタイ5:3)。
A(対他〉同胞・友人・家族のために、本当の悲しみを持った者は幸いである。