| 2008年 6月29日 神は、このあわれみの器として・・ |
| ローマ書9章19〜33節 …はじめに・‥ 先週、神がモーセやパウロになされたことが、私たちにも働いていることを知った。つま り、神はご意志のままに、ある人をあわれみ、ある人をかたくなにされる。それは、人間の 意志をも支配しておられる神の自由、神の絶対的な働きであった。神のあわれみと絶対的な 働きを強調すると、パウロの言葉に疑問を感ずる者も少なくない。その疑問とは、19節で ある。これは、神のご計画と人間の責任に関わる問題となるからだ。神の絶対的主権がすべ てなら、人間は単なる機械かロボットになってしまい、したがって、いっさいの人間の責任 がなくなる。そこでパウロは2つの面から論じるのである。 【1】 イスラエル人におよぶ神のあわれみ(20〜23節) 19節の疑問に対して、パウロは直接には答えなかった。 @まず、神は人間の造り主(創造主)であると答える(20〜21節)。彼は、イザヤやエ レミヤがよく使った、陶器を作る者と土のかたまりのたとえを用いて説明した。陶器師 は、まったく同様の土のかたまりから、尊い目的に使われる器でも、またっまらない目 的に使われる器でも、自由に作ることができる。作られた器は文句を言わない。それは、 神と人間との関係でもまったく同様である。小さな人間が、全能の神をどうしてさばく ことができようか。(ヨプの苦難の理由、意味を考えていただきたい。) A次に、神はあわれみと寛容を与える方であると答える(22〜23節)。神は全能であり、 絶対的な主権者であるが、決して横暴な独裁者や専制君主のようには主権を行使されな い。むしろ、愛とあわれみをもって、私たち人間を取り扱われるのである。キリストを 拒否し、反逆し、十字架につけたイスラエル人は、神の怒りを受けて、「滅ぼされるべき 怒りの器」である。すなわち、滅亡へと行き着くべき状態に置かれている。けれども神 は、そのような人間を非常な忍耐を持って忍び、さらに「あわれみの器」としてくださ る。しかも神は、このあわれみの器に対して「豊かな栄光」を与えてくださるのだ。罪 人は、神の栄光には無関係な者である(3章23節)。しかし神は、罪を認め、罪を赦さ れた者に、神の栄光を豊かに与えてくださる。それゆえ、栄光から栄光に進み、主イエ スと同じ姿に変えられていくのである(Uコリント3:18)。 まとめると、神の選びとあわれみは、24節の聖句にあるように、ユダヤ人にも異邦人に もまったく同じである。この認識が、ユダヤ教とキリスト教の決定的な相違であった。 【2】 異邦人におよぶ神のあわれみ(24〜33節) 異邦人の使徒パウロは、異邦人もまた救われて神の民イスラエルとなれることを、預言の 言葉を引用して明白にした。ホセア書、イザヤ書において背信のイスラエル民族であるが、 神は「残された者」をなおも愛して、真の神の民とされたのだ。この神の愛をもって、神は これまで関係の薄かった異邦人を神の民とし、これを限りなく愛されるのである。パウロは ホセアを引用して「神の絶対的な愛」を示した。また、イザヤからは「救われるのは残され た者である」を引用し、神の民とはイスラエル民族全体ではないことを示した。 重要なことは「信仰による義」である.パウロも当初はユダヤ人と同様に律法による義を 追求し、十字架につけられたイェス様を受け入れなかった。彼もつまずいたのである。しか し今!異邦人は信仰によって義とされたのである.私たち1人1人におよぶ神の義であった。 <結び> @選民イスラエル人は、律法による行ないに熱心だったが、救い主につまずいて、神の義 を得られなかった。 A価値のない異邦人でも、救い主を信じて神の義を得ることができる.まことに、神のあ われみである。私たちも「あわれみの碁」として生きよう! |