礼拝メモ

2008年 7月 6日   律法による義と信仰による義
ローマ書10章1〜13節
…はじめに・‥
律法と信仰は対立するものではなく、同等の神の恵みを有しているが、ここでは「律法」 と「信仰」とを対比して、信仰の重要性を語る。
【1】 律法による義(1〜4節)
パウロは、彼の同胞の救いのために、切実に祈っている。彼の同胞は、神に対して熱心で あったが、知識(深い知識・完全な知識)によるものではなかった。完全な知識とは、神の みこころを正しく知り、それを具体的に把握する力である。彼らは、自分自身の義を、律法 を行うことによって確立すると考えた。義とは神によって与えられるものであることを、無 視した。「神の義」は、神の性質であるとともに、人間を義とする神の働きである。自分自 身の義とは、自己義認と自己主張のことである。パウロの同月包の致命的な誤りは、神の義と みこころを認めないで、自分自身の義を立てることに明け暮れていたことにあった。 そもそも「律法を義」とする「律法主義」にはどのような性格があるのだろうか。
@ 文字主義…文字通りのことは実行するが、その内容を軽視、無視しがちになる。
A 消極主義・・・否定的な教えとなり、「・‥してはならない」となる。
B 形式主義・‥規定や規制を守ることに熱心で、生命的なものを軽視する。
パウロの同胞は、神が義を与えてくださることに心を向けず、律法を行なうことによって、 自分の義を立て上げようとした。つまり、神の義には従わなかったのである。律法の内容を 実行しようとすれば、当然、罪の自覚をさせられる。そして、罪ある自分を神の御前に投げ 出す時、神はあわれみをもって義を与えてくださる。このような正しい義の求め方に対して、 彼らは義の追求について、神が義とされる方法を知らなかったか、間違っていたのである。
【2】 信仰による義(5〜13節)
パウロは、キリストによる新しい契約の時代、信仰による義の時代について語る。まず、 5節では、人が律法によって命を得ようとすれば、全的に律法を守り、行なうことだと述べ ている。すなわち、律法は完全な行為(完璧)を要求するものである。しかしこれは、古い 時代の原理なのである。今や、新しい契約の時代の原理は、「信仰による義」である。信仰 による義の原理の中で生きるとは、自己否定と、神に対する絶対的な信頼によって生きると いうことである。
それでは、信仰によって生きる者には、どのようなプロセスがあるのだろう。
@ すでに完成した購いがあること(5〜7節)
キリストの十字架と復活があり、救いの道は完成している。キリストの降誕をもう一度 求める必要はない。
A 信仰の告白をすること(8〜10節)
救いのメッセージはキリストにある。キリストを信じて告白することが、重要な行為で ある。
B すべての人々への救い(11〜13節)
キリストの救いは、すべての人々に、誰にでも及ぶ救いである。
同じ主がすべての人々の主であるゆえに、キリストを信じる信仰の普遍性と確実性をパウ ロは宣言する。呼び求めて与えられるものは、救いである。それは失望に終わらない救いで あり、神の豊かな恵みを受ける救いである。
<結び>
@律法によって、罪を自覚し認罪する。
A悔い改めと信仰によって、罪を赦され、義とされる。