礼拝メモ

2008年 8月17日   愛の真実とクリスチャン相互の愛@
ローマ書12章9〜16節
…はじめに・‥
先週は、クリスチャン一人一人に与えられた神の賜物は異なるが、賜物に上下関係はない という話をした。神から与えられた恵みの異なる賜物は、キリストのからだなる教会・生命 的教会において、「自分のからだをもって、神の栄光を現わす」のである。コリント第一の 手紙12章では、一人一人の賜物は、人間の体と同様に、キリストのからだの器官として働 いており、それらの器官は、互いに依存し、互いに尊敬し合い、配慮し合う必要性があるこ とが語られている。そしてパウロは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさいと、さらにまさ る道、「愛」について13章で語っている。愛がすべての賜物や働きを根底から支えている ことが、その理由である。
【1】 愛の真実(9節)
「偽りがあってはなりません」とは、それが演技や芝居であってはならないという意味で ある。クリスチャンの交わりの愛は、真実で純粋であり、演技によって表わす偽りの愛では ない。また、愛の真実さは、「悪を憎み、善に親しむ」性格を持つ。「悪を憎み」とは、憎悪 や嫌悪といった感情を示す。また、悪に対する徹底した戦う態度が、愛の持つ性格である。 だから、神が罪人を愛するというのは、神が罪人をその罪の中から救い出すことによって表 わされる。なぜなら、罪とその罪のもたらす結果は余りに悲惨であるから、愛なる神は罪を 憎悪されるのである。だから私たちが、愛する者が罪の滅びの中にいても、なおその者に対 して平気でいるとすれば、私たちの愛は本物ではないということになる。(罪の意識につい て、三浦綾子は『道ありき』の中で・・・)
愛のもう一つの性格は、「善に親しむ」ということである。原語は英語で「cling」 という。善にぴったりとくっつく、結合する、すがりつく、まとわりつくという意味をなす。 この内容は、結婚における「人は父と母を離れて、その妻と結ばれ」るという聖句にも用い られている。
つまり愛の真実とは、どんな困難や重荷にも屈しないで、最後までやり通すことである。
【2】クリスチャン相互の愛(10〜16節)
「兄弟愛」は、もともと肉親の愛情、家族の者相互のある親しい愛情を意味している。パ ウロはそれをクリスチャン相互の愛とするように!と語った。私たちが、神の子とされ、神 の家族の中に入れられた者だからである。兄弟愛は、すべてにまさる神の愛(アガペー)の 下に置かれる。しかし同時に、それらの愛の特質も知らねばならない。兄弟愛は、家族に対 する愛情であり、美しいものだ。ところが、それが真の内容を発揮するのは、人が神の愛に 生きることによる。つまり、神の愛がべ一スとなる時、兄弟愛は正しく表わされるのである。 そのためには、私たちは聖化(きよめ)を体験する必要があるのではないか。(参照:コリ ントU・5章14〜16節)
9節の「尊敬をもって互いに・・・」は、直訳すると「尊敬においては、互いに先に立ちなさ い」となる。口語訳では「進んで互いに尊敬しなさい」となる。他人から尊敬されるのを望 むのではなく、自分から先に敬う心の姿勢である.他者を尊敬する、すなわち、クリスチャ ン相互間で尊敬し合うのは、主イエスによって罪から救われ、新しく造られた者であるから だ。また、恵みの賜物は神から与えられるものであるから、自分の賜物を誇らず、他の人の 賜物を尊重することが大切である。与えられた賜物について、自己卑下したり、高慢になっ てはならない。お互いに「人を自分よりまさっている」と思い、尊敬することが大事である。
<結び>
@ 真の愛は、神から与えられる。「神は愛」だからである。
A きよめの経験は、他者を尊敬する恵みである。