礼拝メモ

2008年9月21日   主のために生きる者
ローマ書14章1〜12節
…はじめに・‥
パウロは13章で、広い信仰的な視野、心霊的な深さ、そして終末的な生き方を示した。
14章に入ると、一転して現実的な問題に触れ、キリスト者の霊的一致を求めている。
【1】 相互の信仰をさばかない(1〜6節)
(1)食物の問題
一般的な食物というより、宗教約・信仰的な食物のことを言っている。「信仰の弱い人」 とは、禁欲的・律法的な考え方にとらわれていた者たちで、肉を食べることをためらい、「野 菜」だけを食べていた。その頃、偶像に供えられていた動物の肉が、市販されていた肉の中 に混ぜ合わされていたからである。もう1つの「信仰の弱い人」ではない立場(『信仰の強 い人』)は、何でも食べてよいと信じていた人々である。彼らは、すべてのものは神によっ て造られたのであり、また偶像なるものは存在しないので、供えられた肉を食べても問題は ないと確信していた(参照:Iコリント8:4〜6)。
この2つのグループは、自分たちの考え方を主張し、相手の考え方を厳しく批判し合って いた。そこでパウロは、まず『信仰の強い人』に対して「受け入れなさい」、「侮ってはなら ない」、「さばいてはならない」と命じた。一方、食べない「信仰の弱い人」は、『信仰の強 い人』が何の良心のとがめも感じずに偶像に供えられた肉を食べるのを見て、彼らに真の信 仰はないとさばいていた。そこでパウロは、そのような「信仰の弱い人」の態度もいけない と諭した。
なぜさばいてはいけないのか。その理由は、
@キリスト者は、神が受け入れてくださった存在である
Aキリスト者は、神の僕となっている
B人が立つのも倒れるのも、主による、からである
(2)日の問題
食物の場合と同じように、宗教的に特別な日や季節を守ることについて、考え方の違いが あった。初代教会の中には、土曜日を安息日にすること、断食の日や幸不幸の日を定めるこ となど、ユダヤ主義的な考え方が根強く残っていた。日の区別を行ない、その日取りを神聖 視して守るのは、「信仰の弱い人」の立場であった。イエスの救いは信仰による義であるた め、そのような律法主義的でユダヤ教的な守り方に対して、パウロは反対した。
結論としては、日を守る人も、食べる人も食べない人も、イエス様のために(6節「主の ために」と3回記されている)、神に感謝して判断・行動していれば充分なのである。私た ちも、信仰的確信、信仰による主体的な決断をして、神に感謝せねばならない。同じキリス ト者でも、現実の問題に対して違った判断をすることは当然あり得ることなのだから。
【2】 キリスト者の本質的な生き方(7〜12節)
実際的問題の判断が違っていても、突き詰めれば信仰的な生き方は同じとなる。すなわち、 生死は自分のためではなく(7節)、主のためである(8節)。7節は否定的・消極的な表現 であるが、8節は肯定的・積極的な表現となっている。つまり、キリスト者にとっての生死、 すなわちキリスト者の人生は、自分中心の生活ではなく、キリスト中心の生き方となるので ある。なぜなら、生と死を含むすべてのものを支配するために、キリストは死なれ、よみが えられたからである(ピリピ2:9〜11)。
<結び>
考え方の違いからお互いを批判するのではなく、自らのうちに主の確信を持ち、言動に責 任を取る者でなければならない。それこそが私たちキリスト者にとって、人に、神に、責任 のある生き方となる。