| 2005年6月19日 アブラハムの執拗な祈り |
| 創世記18章16〜33節 神様のあわれみの確かな宣言は契約の子がまもなく生まれるということ。それに対応するようにソドム滅亡をめぐる神様の正義の執行の確かさも述べられる。アブラハムはさばく神を知り、その関わりで自分を通して神のみわざも理解しなければならなかった。 【1】アブラハムと三人(16〜22) 【2】アブラハムの執成祈祷(23〜33) 執成の祈りの大切さと、祈りが聞かれるという信仰に立って歩まさせて頂きたい。 満足の実態が神であるならば、環境の変遷などに動かされるものではない。神に執着している者でなければ、人を愛する、神を愛するといっても観念に過ぎない。神を独占して御前に出よう |
| 2005年6月12日 パウロの祈祷とキリスト観 |
| コロサイ1章9〜20節 この手紙は第一回目の幽囚の終わり頃、紀元62年に書かれた。背景は外面的な宗教生活(儀式厳守、禁欲、肉体の虐待など)、天使礼拝、だましごとの哲学等を特徴としたことに対して、パウロはキリストがすべてであり、それに尽きることを語った。あなたのイエス様は・・・ 【1】パウロの祈祷(9〜12) (1)あらゆる霊的な知恵と理解力によって神のみこころに関する 真の知識に満たされるように (2)主にかなった歩みをしてあらゆる点で主に喜ばれるように (3)あらゆる善行のうちに実を結ぶように (4)神を知る知識を増し加えられますように (5)神の栄光ある権威に従いあらゆる力をもって強くされるように (6)光の中にある聖徒の・・・父なる神に喜びをもって感謝を ささげることが出来ますように 【2】パウロのキリスト観(13〜20) (1)御子による救いの内容(13〜14) (2)パウロのキリスト観(15〜20) パウロはイエス様がいかなるお方か、私たちのために何をされたか、それをどのようにして成し遂げて下さったかを力強く宣言する。真の奉仕はイエス様を紹介すること |
| 2005年6月5日 罪のない者が石を投げなさい |
| ヨハネ8章1〜12節 この物語には罪人の友として罪人を救うためにこの世に来られたイエス・キリストの福音が、余すところなく語られています。当時の律法がどんなに高い理想が盛り込まれた法でも、杓子定規にまた厳格一点張りに施行することは、罪人を人格として取り扱う最善の道ではない。 【1】律法学者・パリサイ人の実相 【2】罪の存在の発見 【3】赦罪宣言をされる方 神の律法に照らされたなら罪のない人は一人もいない。神の前に裁かれ神から刑罰を受けなければならない。 それから免れる者は一人もいない。すべての人は滅びるのみです。 そのような中に唯一の救い主イエス様が分け入って下さった。聖い方で人を罪に定める権威をもっておられるのに、ご自分が人間の罪を負われる故に、あなたを罪に定めないと言って下さる唯一のお方です。 |
| 2005年5月29日 御霊なる主の働き |
| コリント第二2章1〜18節 パウロの使徒としての奉仕は新しい契約の奉仕であって、生命を与える御霊の契約としての奉仕であること。またそれは旧い契約に勝るもの新約である。そこには御霊の自由があり御霊の働きが主への変貌につながり栄光へと。 【1】パウロの推薦状(1〜3) (1)パウロが自己推薦しないのはコリント教会員こそ推薦状である。 自分が神の福音の使徒に相応しいことはあなた方は知っています。 自己宣伝ではない。 (2)コリント教会員達は「キリストの手紙」となっている。 【2】新しい契約に仕える者(4〜11) (1)文字に仕える者と、御霊に仕える者(4〜6) (2)文字による死の務めと栄光ある霊の務め(7〜11) 【3】霊性の栄光(12〜18) (1)イスラエルの人々について(12〜15) 彼らは心を頑固にして主キリストを信じなかったために 旧約聖書を見ても真の意味合いを理解出来なかった。 彼らの心はいくら聞いても罪を自覚しない 不信仰という覆いがかけられている。 それはキリストにのみ初めて取り除かれる。 (2)新約のクリスチャンの恵みについて 主に立ち返り主にお会いするなら(回心) 主の御霊は、イエスキリストの霊であり、そこには自由がある 主と同じ姿に変えられる。即ち栄光から栄光への変貌 |
| 2005年5月22日 この世の霊と御霊の霊 |
| コリント第一2章6〜16節 パウロは語っている福音の奥義を二つのことを対比して、三つの面から分析している。御言葉一句一句に留意して頂きたい。聖霊が御言葉に干渉し、生きた神の言葉となり救いの喜びを深くする。 【1】この世の知恵と神の知恵(6〜9) (1)この世の知恵について 歴史的支配者そして彼らの背後にあって働いている天的な力も 全能の神の支配下にあり神の審判下にある。神のご計画には 無知であり自らの栄光を望んでいる者である。 (2)神の知恵について 神の救いの計画はイエス様を受け入れない者には「隠されたもの」 である。主を信じる私たちは神の先行性、確実性とともに 「私たち栄光」という目標も啓示されました。 信仰から信仰へ。栄光から栄光へ。 【2】この世の霊と御霊の霊(10〜13) (1)この世の霊(12) 人間的知恵の霊また非クリスチャンの世界の知的な知恵である。 (2)御霊の霊 「神を愛する者のために神の備えて下さった祝福」は目、耳、心 ・・・のないものであっても経験によって経験で受け取ることの 出来るものではない。それは聖霊によるもの、御霊の啓示による 御霊の働き、御霊の神聖を明確にしている。 【3】生まれながらの人間と御霊を受けている人(14〜16) (1)生まれながらの人間 神の霊の生命を否定している。 霊の世界の豊かな価値あるものを受け入れない。 (2)御霊を受けている人 御霊による認識力、的確な判断と指示が出来る。 |
| 2005年5月15日 御霊によって歩みなさい |
| ガラテヤ5章16〜26節 クリスチャンの自由は、いつもキリストに根ざしイエス様にあって生かされている限り、その自由は自分のものである。その秘訣はキリストの御霊に導かれて歩むことである。 そこでパウロは「御霊」と「肉」との対立・闘争に言及する。御霊の恵みを深めたい。 【1】御霊による歩行(16〜21) 【2】御霊の実(22、23) 【3】御霊による前進(24〜26) イエス様に在って生涯を営む者にとって大事なのは信仰です。その信仰は全き愛の経験と、その継続成長からもたらされる。愛の行いと愛の働きとなって表れる信仰です。御霊の導きによって歩み豊かな御霊の実を結びつつ前進させていただきましょう |
| 2005年5月 8日 祖母ロイスと母ユニケとに宿る純粋な信仰 |
| テモテ第二1章1〜14節 パウロがテモテの純粋な信仰を思い起こしているとは、テモテはキリスト者の家庭の教育と訓練の中で信仰が与えられた。純粋な信仰は偽りのない信仰、正統的なキリスト教信仰である。それは敬虔なユダヤ婦人であった祖母ロイスは、イエス・キリストを心から信じる者であった。祖母はその信仰を娘に伝え、その娘もまた息子テモテに神のことを伝えた。 『神が私たちのために与えて下さったものは、臆病の霊ではなく力と愛と慎みとの霊です。』(7節) 神様は私たちが両極端に偏らないように調和のとれた霊を授けて下さっている。それは私たちを積極的で大胆なキリストの証人、深い同情心と憐れみに富んだ良き隣人、敬虔で謙遜なクリスチャンとなり、大胆に福音を伝える者となりましょう。 |
| 2005年5月 1日 あなたの若い日に創造者を覚えよ |
| 伝道者の書12章1〜14節 伝道者の書はソロモンが罪による堕落から立ち返った後、神から離れては何事も空であり心の満足と幸福とを与えないことを彼の経験から記録した書である。 12章は書きまくった後、結論に達したことは、人は若い時代に神さまを信頼することを切々に勧告している。人間は老衰すれば様々な面で衰える。 1.早く神に頼りなさい(1〜7) 2.人間にとってのすべて(8〜14) 歳をとって体力も気力も衰えてしまってから、創造者である神さまに会う備えをとあわてることがないように、まだ若いうちに私たちを創造された方を知ることができたら幸いです。なぜなら伝道者は長年の人生経験の結論として神さまを恐れ敬い、その命令に従うことこそ人間の本文でありすべてであると知りました。また、私たちの創り主である神さまを信じて恐れ従うことは、この世において永遠に繋がる祝福された人生を送るための鍵だからです。 |
| 2005年4月24日 霊魂・すべての点・健康・・・ |
| ヨハネ第三の手紙1〜15節 神さまは人間を神のかたちに創造しました。そして人間を祝福しました。(創世記1章27節、28節) 創造された人間は、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(第一テサロニケ5章23節) 「霊」は神さまを受け入れ交流する。「たましい」は、心とも言う人格を持つ、「からだ」は、肉体的な諸々の器官から形成される。それ故、私たちは神の祝福を受ける存在である。ところが罪の故に・・ 『ですから私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば私たちは真理のために彼らの動労者となれれるのです。』(ヨハネ第三8節) 主を伝えるために祈り、励まし合い奉仕します。それぞれの奉仕の形は異なりますが、なにより大切なのはそれぞれ自分に見合った奉仕をしつつも『主のため』という心を失わないことです。そこから主のために水を汲んだ者のみが味わう、充実感や喜びが与えられます。他者の奉仕を感謝し互いに喜び合うことのできる恵みも与えられます。 |
| 2005年4月17日 最も聖い信仰の上に・・ |
| ユダの手紙1〜25節 ユダの手紙はペテロ第二の手紙の2章1節〜3章3節と並行している。しかしユダの生き生きいた力強い文体を持つ。 特にユダ3、4、17節を読むとペテロもユダも共通の資料より聖霊によって書かれたのである。内容はにせ兄弟に対する警戒と信仰者に対する訓戒を強く語る。現代への関連を見るとユダの手紙ほど現代的な書はない。 折々に話し合ったり論じ合ったりする必要が生じます。自分はこう思うとか、相手はこう考えてるとかは、聞いたり話したりしないとわからないものです。熱心のあまり口調も強くなることもあるでしょうが、その会話が今係わっている事のみにおいての意見や内容なら幾ら論争しても良いと思います。ところが失敗しやすいのが、その他の事柄を引き合いに出してきて、相手を裁きののしってまでもその論争に勝とうとすることです。互いが意見を出し合い論争するのは、少しでも良い方向へ行くためであり、良い物を作り上げるためのはずです。相手そのものを裁くのは主の領域であり、私のすることでは決してないのです。 |
| 2005年4月10日 愛とは御父の命令に従う・・ |
| ヨハネ第二1〜13節 宛先が「選ばれた夫人とその子どもたち・・」とは、選ばれた尊い夫人またはイエス様の花嫁としての教会を意味している。 内容は真理による生活・真理による愛・真理による歩みについて語られる。時代的には、にせ教師たちが入り込んできている。受肉降誕を信じない異端である。彼らに注意、警戒して愛と真理の中に歩み相互愛に生きるよう勧告する。 『あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。』(4) クリスチャンホームにおいて子どもたちに信仰が受け継がれて行くことほど大きな喜びはないでしょう。共に教会に出席し賛美し祈り合えるのはすばらしいことです。しかしヨハネが言う『命令のとおりに歩んでいる』とは、決してそれだけにとどまりません。子どもの心にある神への感謝と喜びが形となって生活に現れるということ。日々の歩みがみことばに根ざしたものになるということ。それがヨハネの言いたいことなのです。大人の責任はなんと大きいことでしょう。今、あなたの心には感謝と喜びがありますか。それは家族に伝えられていますか。ヨハネの喜びを自分のものとさせて頂くために今日も子どものために祈りましょう。 |
| 2005年4月 3日 神によって生まれた者 |
| ヨハネ第一の手紙5章1〜12節 クリスチャンとは生まれかわって神の子となった者である。新生の体験はクリスチャンとしての条件であり資格である。 新生した者には、多くの恵みが注がれていることを教えている。 【1】三つの恵みについて 愛と信仰と勝利 【2】神の三つの証しについて 水と血と聖霊 【3】神の子の証しについて 永遠のいのち 『世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。』(5:5) 世に勝つとは自分に勝つ、即ち自分のありのままを認めることから始まります。自分がいかに強情か怠慢か、ずるいか、八方美人か・・。自分のマイナス部分を認め、「こんな者です。何とかして下さい」と正直に主に祈ることです。その時こんな者がこんなに愛されて守られているのだという実感と共に、心が溶かされます。このような日々の祈りが、信仰者を「世に勝つ者」としていくのです。 |
| 2005年3月27日 聖書を説明されるイエス様 |
| ルカ24章13〜35節 『話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエス御自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。』(15節) 霊的な目を閉じ、洞察力が鈍い二人の弟子は、主イエスだと気付かず、心の目は絶望や悲しみで遮断されていた。わたしたちも試練と世の心づかいにとらわれてしまうと、主のみわざを見ても悟れず、喜びも望みも起こらない。日々、主イエスの臨在と同行を感じるために、砕かれた魂を保ち続けましょう。 主イエス様は甦られて、主こそ聖なる神様と罪人なる人間との隔てに救いの橋をかける救い主、生まれながら神の御怒りを受けるべき者を慰め、神様と人とをもう一度、結びつける神であられ人手であられた救い主、その事実を実証されたのである。誰が私たちの罪の刑罰から救えるでしょうか。罪人は罪人を救うことは不可能である。罪と死と疑いと孤独な悲しみの中にある人々のために、死なれ甦ったイエス様を信じるとき、魂に喜びと希望の夜明けがやってくる。 |
| 2005年3月20日 弟子たちの足を洗われるイエス様 |
| ヨハネ13章1〜20節 13節〜17節の「告別説教」は、最後の晩餐の時イエス様が弟子たちの足を洗うという劇的な光景によって開幕する。晩餐の席で十二弟子の間に誰が一番偉いだろうかという議論が起こりました。その時イエス様はルカ22章24〜27節で言われました。それは最も効果的な表現でした。しかし足を洗うこと(足洗の儀式)、食事の時に行われたことは他の福音書の聖餐式制定に見られるように罪の赦し清めるイエス様の死の力の例証なのです。 【1】悪魔の働きについて ユダの心に売る思いを入れた 【2】イエス様の行為について 足洗いは霊的意味が深かった イエス様がご自分の愛を示そうとされた対象は イエス様を受け入れた者であり、ご自分の教会です。 それはご自分の命を捨てる愛でした。 イエス様の足洗の真理はイエス様の贖いの死によって 実現する救いであり全的きよめである。 これを受け入れる者は全身きよくされる。 (結び)18〜20節にはイエス様は、自分を信じ従う者(11人)、裏切る者(1人)を語っておられる。しかし聖霊に導かれて正しく理解されるときユダの裏切りの行為さえも、かえって弟子達の信仰を強めました。又、イエス様の御人格とわざについての理解を深める結果となりました。やがて弟子達は足を洗って下さったイエス生の模範にならいイエス生の忠実な使徒の使命を果たすことになる。 |
| 2005年3月13日 教団の歩み60年を顧みて |
| ヨシュア記5章1〜15節 【1】割礼と過越しのいけにえをしたこと 出エジプト以後40年間の荒野の生活において行われなかった。今や割礼と過越しの祝いをして新しい人々の信仰の準備をした。 新約的には救いの確証で、新しいスタートを意味した。心の割礼とは心のきよめでした。 【2】足のはきものを脱いだ 聖なる神の御前にへりくだった。神が万軍の将でありヨシュアは神に従い謙遜な姿を表した。それは6章に入るエリコ攻略の霊的な準備でした。 (結び)インマヌエル教団は霊的準備をして前進しようとしている。 |
| 2005年3月6日 主の晩餐と愛餐について |
| コリント第一の手紙11章17〜34節 使徒パウロはコリント教会の公同礼拝における問題として、主の晩餐を取り上げる。パウロは主の晩餐を教会の存在の目的、特に何の目的で公同礼拝を守るかという課題と結びつけて教会とは何かを論じている。 【1】主の晩餐における現実(17〜22節) 主の晩餐において分裂があると言う。それは、ある程度認められるが貧富の差による混乱は益にはならない。 【2】主の晩餐の真の守り方(23〜34) 現状を改革する唯一の道は、主キリストの規範をいう原点に戻ること。 『パンをとり感謝して、裂いて・・・・キリスト様の御体・・・』 『ブドウ液を杯に満たし・・・・主イエス様の血潮として・・・』 これは罪が赦され「新しい契約」関係に入ったことである。御子イエス様を仲立ちとして聖なる神様との個人的な交わりの関係に入ったのです。ハレルヤ! (結び)パウロは厳しく愛をもって子どもに教えるように警告と勧告をした。聖餐式は聖霊による恵みの時として正統的教会で守られています。 |
| 2005年2月27日 全き愛は恐れを締め出します |
| ヨハネ第一の手紙4章11〜21節 『全き愛は恐れを締め出します』 神の愛の歴史的顕現の結果は、何をもたらしたのでしょうか。神の愛は神の本質、歴史的事実だけであるのでなく、現在的になお継続されている活動なのです。 【1】御霊による相互の愛 クリスチャンの相互愛の源 【2】御霊による相互の内住 神・御子・御霊の相互内住 【3】全き愛の内住 正しい愛は与えられなければ分かりません。まず私が真実で正しい愛を与えて下さる神様に、その愛を日々教え導いて頂きましょう。その流れは必ず、次世代につながっていくでしょう。 |
| 2005年2月20日 イエスを告白する霊・神の霊 |
| ヨハネ第一の手紙4章1〜10節 使徒ヨハネは4章に入り信仰の知的な危険性を感じて霊の真偽を語る。そして愛の本質、根源に触れるのである。 【1】真理の霊(1〜6) 神の霊を中心にキリストの霊を語り、神の特性を語る。 【2】神の本質(7〜10) 愛については3章11節〜18節にて論じたが内容は深まり根源に入る。 いつの時代にも、にせ予言者が出て多くの人を惑わしてきました。今世の末の時に私たちの回りにもきわめて霊的に見え、大きな御業を成しているかに見えるニセ予言者があることを知らなければなりません。どのようなものも神からのものかどうかを常に吟味しなければなりません。葉のみで御霊の実が一つもないことがありうるからです。 |
| 2005年2月13日 兄弟たち。子供たちよ。愛する者たち。 |
| ヨハネ第一の手紙3章13〜24節 使徒ヨハネは罪を中心に神の子供と悪魔の子供を対比させてきました。最後に恐ろしい殺人のことを例にして悪魔の子供の姿を示した。そこで使徒ヨハネは憎悪から一転して、神の子供の証拠と実際を行動に現れた愛を示した。 愛の証拠はいのちである。模範は主キリストであられる。本質は自己犠牲である。その結果は神との一致、祈祷の確信である。 【1】兄弟たち(13〜17) 【2】子供たちよ(18〜20) 【3】愛する者たち(21〜24) 呼びかけは異なるが相互に融合している。 人が求めて、一番難しいのは「愛し合う」ことでしょう。例えば友達と喧嘩をしたとしましょう。喧嘩はよくないから仲良くしましょう。両方が赦し合えばいいでしょう。でも、この赦すのが難しいのです。「愛する」と「赦す」は同じ心です。私たちは人からプライドを傷つけられることをされた時、「いいです、いいです」と言いながらしっかり腹を立ててしまいます。 でも、十字架の主を見るときに私たちは惜しみない溢れる愛が自分に注がれているのを知ります。「赦す心」は、どんなに多くを赦されたかを知る心から出てきます。愛し合いなさいと言われた主は、私を赦して下さった主です。 |
| 2005年2月 6日 神の子と呼ばれるために |
| ヨハネ第一の手紙3章1〜12節 使徒ヨハネは、クリスチャンは御言葉にとどまり主キリストの中にとどまることを勧めてきました。そして最後に「神から生まれた」ことを述べました。3章からその主張を引き継いで神から生まれた「神の子供」の姿を語っています。 特に1〜12節では「神の子供」と「悪魔の子供」を罪の問題を中心としながら語っています。 【1】神の子となった者の希望 *神の愛 父なる神の愛は「どんなに素晴らしい愛」を与えたでしょうか。 神の愛はこの世のものでなく、全く異例、異種のものであった。 それは御子イエス様を罪人なる私たちに与えて下さった愛です。 *新生の恵み 神から生まれた私たちは、罪から救われた故に義を行い兄弟姉妹を 愛することによってさらに素晴らしい未来が待っている 【2】神の子と悪魔の子との特徴 *神の子供の特徴は、聖い者、義を行う者、兄弟を愛する者である。 *悪魔の子供は、新生の経験を持たない故に罪を止められない者、 聖くないもの、義を行い続けない者、兄弟を愛し続けない者 神の子供は義を行うとともに相互の愛を持っている。愛を持っている者は義を行う力もある。「愛のない義は厳しさとなり、義のない愛は弱さとなる」という言葉を噛みしめたい。私たちは義と愛の区別は明確にはできないが、神の義と神の愛の交差点である主キリストの十字架を見上げて参りましょう。 すべての解決の鍵がそこにあるから・・ |
| 2005年1月30日 見よ。私は戸の外に立ってたたく。 |
| ヨハネ黙示録3章14〜22節 2章・3章は小アジアの諸教会への手紙で当時存在していた7つの教会である。主は教会を知っておられるゆえに各教会賞賛と叱責、主の再臨クリスチャンへの警告、勝利者への約束を語られる。同時に当時から終末までの教会の有様を預言する。さて、7つめの教会ラオデキヤ教会は、 【1】現在の状況下の教会への憂慮 *微温的な信仰の警戒 【2】神の愛の真実な忠告 *金・白い衣・目薬 【3】キリスト内住による勝利者 心が通じ合い何でも話せる友達は本当によいものです。イエス様と私たちの関係もこうありたいですね。突然イエス様が来られても、すぐにお迎え出来るような親しい関係です。問題課題が散乱し落ち込んでいる心のままで良いのです。まずイエス様をお迎えし話しを聞いて頂くなら、人の知恵では考えられない解決策を必ず教えて頂けます。 |
| 2005年1月23日 すべてのことの中に・・圧倒的な勝利者となる |
| ロマ書8章28〜39節 聖霊に対する正しい理解、聖霊への絶対的な信頼は現実の生活に於て新しい確信を生み出すのである。即ち神を愛する人々には神に必ず祝福され現実の生活に益を受ける。そのためには神のみこころに従って歩むことが重要である。 こうして聖霊の力と神のご計画に従う者には、信仰者に勝利の希望と新しい確信が与えられる。それゆえ大勝利の歌を歌う。 【1】十字架による神の愛 【2】聖霊によって注がれる神の愛 【3】クリスチャンは圧倒的な勝利者 (結び)38、39節(感謝と賛美) 『しかし私たちは、私たちを愛して下さった方によってこれらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。』(37節) 楽しいことが続くから愛されていて苦しい時は主から見放されていると思うような浅い信仰ではこのようには言えません。主の愛に感じて心を明け渡した人にだけ与えて下さる勝利です。 神様がいつも一緒にいて下さるのです。様々な事柄はすべて益と変えられることをどんな中にあっても疑わずに進みましょう。主は私たちの信仰に答えて下さる方です。 |
| 2005年1月16日 権力・能力によらずわたしの霊によって |
| ゼカリヤ4章1〜14節 ゼカリヤは「幻を見る預言者」と呼ばれる一人である。他にはエゼキエル、ダニエルの二人がいる。ゼカリヤの預言はバビロン捕囚から解放された民たちは総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの指導と祈祷の中で神殿工事着工をするが、内外から攻撃されて工事の停止があったとき、ゼカリヤは神殿工事再開にあたり霊による激励をした。更に預言者はメシヤの来臨の預言を数多くする。 特に9〜14章は未来に関する預言であるが、キリストの初臨で成就(9:9、11:11〜13、12:10)した。他は再臨で成就する。 主はゼルバベルに神ご自身お見るように仰ったのです。信仰があるときに山のような問題課題は海に動くのです。主を見上げましょう。理性的な判断も大切ですが、信仰を持った理性を持つときに自らの能力、力を越えて神様御自身が導いて下さることを知ります。 今日一日多くの課題があるでしょう。全力で今日を生き抜く中で主の大いなる助け導きを知るでしょう。私たちが神殿であり主が私たちのうちに御臨在して下さっています。 |
| 2005年1月9日 息よ四方から吹いて来い |
| エゼキエル37章1〜10節 37章は47章とともにエゼキエル書ではよく知られた予言である。全体的には難解な予言と言われるが、霊の深まりとともに恵みが深まっていく予言書である。 【1】エゼキエルが見たものとは ・霊による導き ・干からびた骨 【2】神である主のご命令とは ・骨に予言せよ ・息よ。四方から吹いてこい 【結び】 ・骨がつながる ・人が生きる 干からびた骨(弱った魂)に陥っていないか再度自分自身に問いかけ、聖霊による導きを頂き神様の霊と命を受け生きた信仰を持ち続けることが出来るように。弱った魂に信仰の回復を祈りつつこの一年も歩み続けさせて頂きましょう |
| 2005年1月2日 いつも喜び、絶えず祈りなさい。すべての事に・・感謝しなさい。 |
| テサロニケ第一1章12〜28節 12節から22節までは、様々な勧めが記され、実践的な忠告がなされている。指導者として立てられいる人々に対する態度、信仰者間の諸問題対する在り方、そして中心的な御言葉が ”いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝”の三つである。 この三つが出来れば三拍子揃った恵みの溢れたクリスチャンである。これは、きよめられたクリスチャンの特色を示しています。それゆえパウロは23、24節で全くきよめられるよう祈る。 2005年度年頭礼拝の今日『密室と実行の年』として、52回の最初の聖日礼拝がスタートしました。 主イエス様は『神は霊ですから神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハネ4:24)と言われました。罪から救われたサマリヤの女は真の礼拝を知り、主を信じ町の人々に知らせ真の礼拝する者となりました。 クリスチャンが真の意味において『霊とまこと』をもって父なる神への礼拝がなされる一年となりますように切にお祈り致します。 |