イエス様との出会い

 

私がどのようにしてイエス様に出会ったかをお話しさせて頂きます。

私の父は、朝、夕、必ず仏壇と神棚に手を合わせる、とても信心深い人でした。

家族が病気をした時、父は「拝み屋」に行っては拝んでもらい

「何かの生き霊が憑いている」又は、「亡くなった人の霊が憑いている」と言われ

恐ろしい宗教だと思いつつ育ちました。

その様な中で初めて教会に行く機会が与えられました。

高校2年生の時、日曜日に用があり学校に行き、思いの外早く用が終えたのですが

一緒にいた友達が「これから教会へ行かない?」と誘い、私を含め4人の友達は

即答で「行こう」と一致し教会へ行きました。

私をはじめ周りの友達は信仰を持ちたいという深い思いすら無かったものの

常々「教会」に対しては「あこがれ」を持っていて十字架の立っている教会を

覗いてみたい。そんな好奇心から教会に行きました。

 

初めて教会に行って聞いた、お話しは何が語られてたのかは解りませんでした。

友達とも「又、来ようね」と言うことを話しながら帰りました。

私の心の中にでは、父の持っている恐ろしい宗教ではなく

もっと「優しい神様がいるのでは?」という気持ちを少なからず持っていたのも

教会へのあこがれに繋がった気がします。

その後、教会に行く機会はなく京都の銀行に就職しました。

仕事は大変でしたが上司にも友達にも恵まれ、楽しい日々を過ごしました。

けれども常々、私は疑問に思うことがありました。

人間は何の為に生まれ、何の為に生きて行かなければいけないのか?

そして生まれながらにして選ぶことの出来ない環境や親を選ぶ事が出来ず生まれるのは?

貧富の差はどうしてあるのか?

本当の幸せって何だろう?

と、悩みではなく頭の中をぐるぐると自問自答することがありました。

 

そんな中、本が好きだった私は、三浦綾子さんの『塩狩峠』に出会いました。

そして今まで読んだことのない本に触れ、それが実話であったという事で、

とても感動しました。

それからは、三浦綾子さんの本を次から次へと読みあさりました。

『道ありき』の自伝を読み「教会に行ってみたい」という思いが膨らみました。

けれども機会はすぐには訪れず、「暇な時に行ってみよう」という気持ちでした。

そんなある日、信じていた人に裏切られ、苦しい毎日を過ごすことになりました。

友達と遊びに行っていた日曜日の夕方の電車の中で涙が溢れて出て悲しい思いにいた時、

いつも通勤の電車から見えていた白の十字架を思い出し、「教会に行ってみよう」と

思いました。

夕方に集会があるのは知らず、この悩みを誰かに聞いて欲しい一心で行きました。

銀行の寮とは違う方向でしたが、白の十字架を目指して教会にたどり着き

それが不思議なように伝道会がこれから始まる時間でした。

そこで、『我が主はしたいまつる』という賛美歌が歌われましたが涙が溢れ出ました。

その涙はさっき流した涙ではなく私のことを知って下さる方がいらっしゃると思いました。

そして帰る時には悩みなど言わずに、ここに来ればきっと私の悩みの解決があると

心が軽くなったのを覚えています。

それからは水曜日には聖書研究会、木曜日には祈祷会、日曜日には1日中教会にいる

生活を送りました。

 

そしてある日の礼拝のメッセージにおいて、ヨハネ9章23節

『先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。その両親ですか。

イエスは答えられた。この人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。神のわざが

この人に現れるためです。』のお言葉が取り次がれ、神様のご存在がわかり、裏切られた

人を赦せない事が示され神様にお詫びし救われ洗礼を受けました。

その後、半年後4年勤務した銀行を退職し徳島に帰省しました。

私は、徳島でも教会生活を送りながらも、罪の自覚が乏しかった為、この世と神様の

中間の生活を送り示されながらも聖い生活とは言えない日々を送り罪を犯してしまいました。

そして牧師先生に告白し『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら神は真実で正しい方ですか

ら、その罪を赦しすべての悪から私たちをきよめて下さいます。』

ヨハネの手紙第一 1章9節のお言葉により本当に自分の罪深さ、そしてこの私がイエス様を

十字架につけ、この私の為に身代わりになって死んで下さった故に私の罪をも赦して下さった

事が分かりました。

 

その時クリスチャンの友達に「私は罪を犯したから教会へは行けない。」と話すと友達は、

「教会は罪人が行く所なのに、罪を犯したから行けないというのはおかしいよ」と言ってくれ

ました。それ程まで『罪』の自覚に乏しくイエス様の十字架が分かっていない者だと改めて思

わされ牧師先生に話す機会を考えましたが、早く告白したいと思い青年会のクリスマスの夜の

集会の後、古い教会の二階で牧師先生に罪を告白しました。

牧師先生は「あなたの払った代価は大きいけれど、イエス様が十字架にかかって死んで下さっ

た事が分かって感謝ですね」とお祈りして下さいました。

自分の犯した罪の深さに唖然とし、「このような者でも赦して下さるのですか?」という思い

で迎えたクリスマスでした。

『神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された・・』ヨハネ3章16節

神様がイエス様をこの世に遣わせて下さった故に今の私がある事を感謝しています。

 

信仰を持って31年を迎え、どの様な中にあっても神様が共にいて下さった事を感謝しつつ、結

婚して主人と共に歩む中、出口の無いトンネルの中にいた時も、問題の大きさに心が押しつぶ

されそうになった時も、神様は最善へと導いて下さり問題を通して更なる『恵み』を教えて下

さる神様に感謝しています。

そして何よりもイエス様を信じる前の疑問も神様は答えを下さいました。

神様が私を造って下さり、神様の為に生きて行くこと、本当の幸せはお金でも環境でもなくイ

エス様を信じて歩む時に与えられる心の『平安』だと教えられました。

結婚して27年を迎え、今、夫婦で『神様に喜ばれる事』を思い、お互いに敬い合い

今も変わらず共に神様の恵みを分かち合える2人であることを感謝しつつ歩んでいます。