「神様の導きの中で」 (Y.F)
私は東京都小金井市で4人兄弟の3番目、次女として誕生しました。結婚後にクリスチャンとなった母のお腹の中にいる時から、教会に連れて行ってもらい、家でも聖書の話を聞き、賛美歌を歌い、お祈りをするという環境で育ちましたので、物心ついた時には自然と神様の存在を知らされていました。悪いことをしたという罪の意識を持ったのは、3歳の時が初めてだったと記憶しています。
6歳の時、家のきまりで禁止されていた「買い食い」をきっかけに、罪の恐ろしさと共に赦しを体験しました。友達と遊んでいた時、いけないとわかっていながらお菓子を買って食べてしまい、とても心が重く苦しくなりました。叱られるのが怖くて、家に帰ってから母の顔をまともに見ることができずにいたことを思い出します。いつもと違う私の様子に気がついた母は「何かあったの」と声をかけてくれました。すぐには言えませんでしたが、時間の経過と共に心の苦しさが増していき、とうとう耐えられないところにまで追い詰められました。そして幼いながらも勇気を出して、母に買い食いをしたことを正直に話しました。すると私の予想に反して、母は叱るどころか喜んでくれたのです。それは、私が罪を犯したことを認め、正直に告白したからでした。そして母は、イエス様の十字架は私の罪の身代わりのためであったこと、その罪をイエス様にお詫びすれば赦されることを話してくれ、母の導きのもとで悔い改めのお祈りをしました。いつの間にか、あれだけ重苦しかった心が不思議なように軽くなっていることに気がつきました。そして、罪が赦されたという安心感に満たされたことを今でもはっきりと覚えています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第Tヨハネの手紙1章9節を救いの約束のみことばとして受け取り、救いの信仰に立たせていただきました。1976年10月25日の出来事でした。クリスマスには父と兄と一緒に洗礼の恵みに与り、クリスチャンとしての歩みがスタートしました。
人は見ていなくても神様は見ておられ、私の歩みの全てを知っておられることを意識しながら生活するようになりました。それでも兄弟げんかや友達との関わり等において、神様の喜ばれない歩みをしたことは沢山あります。その都度お詫びをして神様に立ち返るという恵みの中で成長がゆるされました。中学1年生の冬、事業を営んでいた父の会社が倒産するという事態になり、引越しと転校をせざるを得ない状況になりました。楽しい学校生活を送っていた私にとって、2度の転校と生活の苦しさはとても辛いものでした。時には家に帰りたくないと思ったこともあります。けれども神様は家族の必要を知り、教会の方々をはじめ、沢山の方々を通して日々の必要を満たし続けてくださいました。また、どんな時でも神様に信頼し続ける大切さを、身をもって体験する貴重な期間となったことを感謝しています。
中学3年生の秋、聖書を読んでいた時に「わたしにとどまりなさい。」ヨハネの福音書15章4節のみことばが心に留まりました。将来は神様のために働きたいという志が小学2年生の時に与えられていましたが、さらに神様の喜ばれる、願われる道に進むようにという確信が深められるみことばとなりました。
高校、大学への進学も許され、伝道者となるために神学院へ入学して学びと訓練の生活に入りました。そこでは、いかに自分が聖い神様の働きに相応しくない人間であるかを知らされ、地に足のつかない歩みをしていた自らの現実の姿に目が開かれた場所でした。それでも憐れみによって卒業が許され、7年間牧師としての働きに加わらせていただきました。その後次第に心身の体調を崩して病を発症するに至り、お祈りと周囲との相談を進める中で、香川教会でのご奉仕を最後に退職いたしました。この時は非常につらい決断ではありましたが、神様は私のためにさらに素晴らしい道を備えていてくださったのです。
退職後は休養期間を経て、体調に合わせて少しずつ仕事をするようになっていきました。けれども自分の生活のために必死に働き、何とか生活できるという毎日の繰り返しに疲れと虚しさを感じ始め、今後の導きを神様に求めていました。その時に牧師を通して、主人の過去のいきさつを聞く機会があり、その誠実さと真実な生き方に感動しました。それをきっかけに6年前に主人と出会い、2ヵ月後には結婚へと導かれ、徳島教会の一員として加えていただき現在に至っています。神様は真実なお方で、私が幼い日に抱いた「神様のために」という純粋な気持ちを覚えていてくださいました。そして家庭において主人に仕え、教会でも夫婦で心を一つにして主に仕える道を開いてくださったのです。これは「人知をはるかに超えたキリストの愛」を大きく知らされたご計画であり、神様への感謝は尽きることがありません。
誕生から現在に至るまで、常に真実であり続けてくださった神様は、これからも変わることなく私を導いてくださると信じています。そして私は幼子のように、神様のみ手の中にゆったりと抱かれている気持ちで歩み続けたいと願っています。
「乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」詩篇131篇2節