私がどのようにしてイエス様を信じるようになったのか、お話したいと思います。

私の家族はクリスチャンではありません。家には仏壇があり、お盆やお正月にはお寺から住職の人が来て拝み、新年には初詣に出かけるという、日本では一般的な?生活をずっと続けていました。もちろん、聖書も読んだことがありませんでした。

こんな私がどうして教会へ通うことになったかというと、4年前に遡ります。

私はワーキングホリデーという制度を利用し、1年間ニュージーランドへ行っていました。その時に、韓国人の友だちに誘われ、街の日本人教会で開かれていた集会に参加したことがきっかけでした。その集会というのは、おもに、まだ神様を知らない人や、信じて間もない人を対象として、いろいろなお話を聞く集まりでした。

当初、私は真剣にこの集会に参加していたわけではありませんでした。この集まりに行けば、夕食をフリーで御馳走になれるし、ティータイムにおやつもいただけるということにひかれて通っていました。そこで、何人もの日本人の知り合いができ、他にも教会で開かれていた英会話教室や、若い日本人の集まりにも、徐々に参加する機会も増え、教会へ行く回数もどんどん増えていきました。

しばらく、このような集まりに参加しているうちに、牧師先生から、「日曜日の礼拝にも参加してみませんか」と誘っていただきました。先生から、「礼拝の後に夕食もあるから」と言われ、またもや食べ物にひかれたのと、せっかく外国にいるのだから、日本でしたことのない経験をしようと、軽い気持ちで通い始めました。私はそれまで、礼拝というものに参加したことがありませんでしたが、ドラマや映画のイメージで、教会の礼拝といえば、静かで、少し暗い感じを想像していました。しかし、参加した礼拝で、そのイメージはくずされました。なぜかというと、ステージ上にギターやドラムが置かれ、まるでライブハウスの様だったからです。賛美する時も、ドラムやギターの演奏に合わせて、みんなで、ノリノリで歌っていました。単純な私は、それが楽しく、他に予定が無い限り、毎週通うようになり、いつの間にか日曜日が待ち遠しくなっていました。

そして、そこで神様やイエス様についての話を聞いているうちに、もっと知りたい、信じてみようかなと思うようになっていきました。そして、私は今までにたくさんの罪を犯していたということを知りましたが、同時に私はクリスチャンにはなれないという気持ちも大きかったです。なぜかというと、私は幼い頃から、長女として、将来は先祖の墓を守っていかなければならないのだと教えられてきたからです。

ニュージーランドでも何度か洗礼を受けることを勧めていただきましたが、帰国する時まで「はい」と返事をすることはできませんでした。それでも神様を信じたいとうちあけると、何人かの方が一緒にお祈りをしてくれました。結局、とても中途半端な状態で日本へ帰ってきました。

帰国後、しばらく教会へ通わない日々が続きました。日本で毎週通う自信もなかったし、自分のまわりに教会がどこにあるのか分からなかったのです。そして数か月が経ち、ニュージーランドでお世話になった先生から、こちらの教会を教えて頂き、訪れることになりました。日本で教会に通った経験はなく、初めて来た時にはとても緊張していたことを今でも覚えています。こうして再び教会へと通うようになりましたが、初めの頃はニュージーランドの教会とのギャップも大きく感じ、戸惑いました。そしてこの時はまだ、神様をちゃんと信じているような、そうでないような感じでした。

そんな時、2011年2月にニュージーランドで大きな地震がありました。震源地となったクライストチャーチは、私がワーキングホリデー中、半年近く生活していた街で、ホストファミリーや教会の先生方や友だち、学校の友人がたくさんいる所でした。そこは、語学学校に通い、フラット生活(ルームシェア)、アルバイトをしていた場所であり、ニュージーランドでの生活を満喫した、大好きでとても大切な場所でもありました。テレビで街のシンボルの大聖堂が崩れ、建物も壊れ、私の知っている街並みとは全く違っている様子を見て、とても大きなショックを受けました。それでも日本にいる私にはどうすることもできないと、ただ泣くばかりでした。私は一人でいるのがあまりに辛く、気づいたら教会の柏木先生の所へ来ていました。先生といろいろと話していると、とても悲しい出来事でしたが、このことを通して神様が私にいくつかのことを教えてくださっているということがわかりました。その一つが、私は家のこともあるからと理由をつくり、信じることを迷っていると思っていましたが、実は、自分がイエス様による救いを求めていたということでした。

この時にヨハネの手紙第一1章9節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と、4章9,10節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」という御言葉を頂きました。

このことを受け入れ、今までの罪を告白し、悔い改めをし、柏木先生とお祈りをしました。すると帰るころには不思議と気持ちも落ち着き、スッキリとしていました。

そしてその後も教会に通う日々が続き、洗礼を受けることになりました。これまでたくさんの罪を犯してきたこんな私でさえ、神様は愛してくださっていると思うと感謝で、以前よりも精神的に心にゆとりを持って生活ができるようになりました。まだまだクリスチャンとして未熟な私ですが、これからももっともっと神様を信頼し、お祈りによって神様とお話しながら、この信仰の道を歩んでいきたいと思います。

 

 

「悲しい出来事を通して」  Y.T