
私が洗礼を受けたのは2012年3月11日、クリスチャンになって2年半ほどです。
しかしこの教会に最初にきましたのは、2004年ですので、10年前になります。以前この徳島教会にいらして、今は引っ越されて香川の教会にかわられたN姉に誘われてこの教会に導かれました。
N姉とは、友の会という婦人団体を通じて知り合いました。羽仁もと子さんというクリスチャンが始めた、キリスト教を元にした考え方の上で、家庭や子どものことを学んでいくところです。私はそこで初めてキリスト教にふれ、とても惹かれるものを感じましたが、自分がクリスチャンになることはとても遠いことに思っていました。
N姉と友の会で知り合って1年ほどしてから、N姉が教会に通って洗礼を受けたことを聞き、初めは驚き、どんなところだろうと思ってこの教会にきました。でもその時はお話を聞いても、心を開くことができずに、ただN姉一家が仲よく皆さんで来られている様子を、ああいいなあと思ってかえりました。それが10年前のことです。
その後、N姉は高松に引っ越されて、時々手紙のやりとりをしていましたが、会うことはありませんでした。2008年、クリスマス礼拝にきませんかとお誘いの手紙をいただいてびっくりしました。引っ越してからもずっと徳島教会にきているとは知らなかったのです。
その時の私は前とは違っていました。次女が学校に通えなくなり数年たっていました。原因を探して、学校にいけない子どもを責め、自分を責めていました。毎日が苦しい日でした。
お誘いのお手紙をいただいて、教会にいきたいと思いました。しかし私は自分が神様を求めているとは思っていませんでした。Nさんに会いたいけれど神様を信じていないし、信じるようにはなれない。そんな私が教会に行ってもいいのかと思いました。「Nさんに会いに行くのでもいいの?」と聞くとN姉は「ぜひ来てね」ととても喜んでくれました。その時聞いた高島先生のお話は、前に聞いた時とはまるで違うように聞こえました。私のために、私のことをお話ししてくれているかのように感じて涙がでました。
そのあとも私は「信仰はもてないけれどNさんにあいにゆく」といって教会に通い、N姉はいつもずっと寄り添っていてくれました。そのなかで、いままで家族のためといいながら、自分を中心にして、家族を自分の思うようにしたいと思っていたということにやっと気がつくことができました。
それでも、入信することはとても難しく感じられました。一つはずっとクリスチャンでいられるのか自分に自信が持てなかったこと、自分自身を手放してしまうような気がしたことです。罪深い自分であるとやっと気が付くことができましたが、それでもそんな自分を守ることをやめて神様に委ねるということは怖くてできなかったのです。
私は柏木先生とお話しして、行先のわからない山道を一生懸命運転しているような感じなのだ、手を離すことはとても怖くてできない。とか、何かを握っている手を開くことができないと話しました。柏木先生は、ハンドルを神様の自動運転にまかせてみたら、何も心配することはいらない、と話してくださいました。
お話をお聞きして、すっと肩の力が抜けたように感じて2010年2月1日に入信しました。
その時いただいた言葉は、ヨハネ1章12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と、第1ヨハネ4章9,10節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
今私がここにいることができるのは、私が求めたのではなく、いつも神様が手を差し伸べていてくださったからでした。神様に委ねることが怖かったのですが、困った時には神様にたずねること、弱い私でもそれにどうにか従うことで確かな道をあゆむことができるとわからせていただきました。
困難な時を過ごした次女も今は大学生となり、温かい寮母さんに恵まれて大学生活を楽しんでいます。神様の導きがなければ子どもそれぞれの心に寄り添うことは出来なかったと心から感謝しています。
今訪問介護の仕事をしているのですが、訪問前に「このお宅に平安がありますように」とお祈りをしてからたずねています。すると身勝手で気が弱い自分が小さくなって、相手の方と心を通わせることができるように感じます。
これからもどうか神様の導きに従うことができますようにお守りくださいと祈っております。