「幸いなるかな。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。」
(詩篇128:1)
私はこれを今年の聖句に選びました。そのわけを少しばかり述べて
「証し」に替えさせて頂きたいと思います。
前回は高校で神様に出会い、大学で神様に従う決心をして、洗礼を受けたことをお話しました。受洗後は「これで悩みから解放される」と思っていたのですが、逆に「良きクリスチャンになるには何をなすべきか?」という問題が出てきて悩みが大きくなってしまいました。
毎朝1時間は聖書を読み祈ることとか、日曜礼拝は絶対に休まないこと、など規則にしばられた禁欲的な生活を目指しました。
けれども、だんだん修行僧みたいな生活に行き詰まり、自分がだめな人間だと落ち込んでしまいました。
「どうすればこのみじめな状態から抜け出せるのだろうか」と悩んでいた頃、アメリカ留学の機会が与えられました。
留学中の2年間は、スイス人の神学教授宅にホーム・ステイが許されました。食卓の話題は聖書のこと、訪問客は若い神学生や牧師たちでした。
私は聖書の疑問点やクリスチャンとしての悩みを話しては良い指導を頂くことができました。また家ではルターの流れをくんだヨーロッパのキリスト教に触れることができ、家じゅう、聖書の言葉や讃美歌があふれて、感謝にみちた毎日でした。
折しも60年代は「エキュメニカル・教会一致運動」が叫ばれていろいろな宗派の合同集会がたくさんありました。ホーム・ステイ先の先生から「良い機会だからたくさんの教会と信徒に出合って来るように」と勧められて、さまざまな教会を訪ねました。
その中で特に印象的だったのは、黒人の人々の教会でした。
当時は白人は黒人教会には受け入れてもらえず、人種差別が厳しかったのですが、黄色人種の日本人はOKでした。教会へ来る人は思い思いの晴れ着姿で、はなやかで、聖歌隊が黒人霊歌やジャズ調の讃美歌を歌い、聴衆も声を合わせて「ハレルヤ!」と歌や手拍子で相の手を入れるのです。
牧師の説教も力強い語りかけで、一同を盛り上げます。私は、この賑やかな雰囲気に圧倒されたのですが、全員が「生きたそなえもの」として感謝の喜びを捧げている姿に深い感動を覚えました。
もう一つ対照的なのは、ロシア正教でした。こちらは黒一色の地味なもので、グレゴリオ聖歌が伴奏なしで厳かに歌われていました。その静かで素朴な歌声
こうして移民国家のアメリカでは人種も言葉も違う人々が同じキリストの神様を礼拝しています。その真摯な姿を通して私は信仰の原点を見た思いでした。一同が神様を仰ぎ見て、ともに祈ること、これは美しく、平和でここには争いはありません。
確かにアメリカの教会やクリスチャンが完全だとは思いませんが、少なくとも、日本ではほとんど見なかったクリスチャン、つまり、イエス・キリストに生活のすべてを任せた平信徒たちに出会って、新鮮な驚きでした。「まず主により頼むこと」、「感謝し、喜ぶこと」そして「明日のことを思いわずらうな。明日は明日自ら思いわずらわん。一日の苦労は一日にてたれり。」(マタイ6章)を信じて自由に行動する生き方を教えられました。
アメリカを離れるときに教授から「君は君のままでいいのだよ。神様は必要なものは全てご存じだから、主に信頼するように。ただし自分が神にならないよう注意すること。そのためには主を恐れ敬うようにつとめなさい。」というアドバイスをもらいました。
日本に帰ってから半世紀近くたちましたが、この「神様を信頼して前向きに生きる信仰生活」は私の信条になっています。ともすれば、神様を自分の中に閉じ込めてしまいそうな私ですが、「主を恐れること」を念頭に置いて歩んでいきたいと願っています。
「主を恐れることは、知恵のはじめ。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(詩篇111:10)